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隅っこのひかる  作者: 三星尚太郎
5/10

ひとつの願い

 部屋で熱いシャワーを浴びた。500mlペットボトルの水を飲み干す。


 二十三時。まだ深夜とはいかないが、一通りの騒動は済んでいた。


 照明を灯さない部屋で、テレビをつける。ニュースを見る。くだらない。閣僚の辞任騒ぎに、専門家とやらが講釈を垂れ、男性アナウンサーがもっとらしく頷いている。


 チャンネルを変えた。女装家とやらが映っている。人の性向をとやかくいう程、自分自身、高潔な人格を持っているわけではない。男性として生まれてきたことに、意味がないわけではないと思う。女性として生まれてきたことにも意味があるに違いない。なぜ生まれたかよりも、どう生きたいか。社会全体が、そのベクトルにあまりに偏重しているように感じる。


 陽は苦笑した。自分が生きていることに意味はあるのだろうか。どう生きたいかすら、明確な答えを持っていないのに。


 テレビを消した。一瞬の残光に、男の子の姿が映った。


「思い出を一つ失くすとしたら」


 その質問に答えは見出せないが、無視することはできなかった。男の子が、酔いが見せた幻であったとしても、白い肌は瞼の裏に焼き付き、澄んだ声の響きは胸に残っている。


 男の子は太陽の宮殿(サニーパレス)を指さし、あそこにいこう、と言った。風の音かもしれない。どこかにある願望が、風の音をそう聞かせたのかもしれない。


 座椅子で目を閉じる。目を開けているときよりも鮮やかなものが見えた。男の子ともう少し話がしたかった。その前に話さなければならない人間がいることは承知している。それでも、今はあの子と話がしたかった。


 陽は眠り、朝がきた。昨夜のことは夢を見たんだ、という思いは全くなかった。止めてしまっていた時の中で、男の子との邂逅は、絶えて久しい鮮やかな現象だった。


 それでも朝はやはり憂鬱だった。嫌悪する空間で、嫌悪する上司がおり、嫌悪する自分がいる。3Kだね、などと下らぬことは、さすがの影法師も口にしなかった。


 あの男の子ともう一度話そう。仕事をそっち除けて日中考えた結果は、そういうことだった。風のそよぎ、虫の声、土の香り。そんなものを感じ取るように暮らしていれば、あの子にもう一度会えるにちがいない。なぜかそう思った。


 仕事を終えて、陽は坂道を歩いた。昨夜の雨の跡はすっかり乾いていた。夏らしい熱さの日だった。


 宮殿の入り口で、母子家庭の母親に出会った。郵便受けの前だ。ロンパースを着せた我が子を抱き、芒洋とした目をしている。茶封筒を一通、手に持っていた。


 子供が、陽に気づいた。喃語を話した。こんばんは。そう聞こえた。


「こんばんは」


 自然に、陽は言った。驚いた。自分の言動に。母親はそれ以上に驚いたようだ。浸っていた思考を破られたからだろう。


「ごめんなさい、わたし、ぼーとして」


 はにかんだ笑顔を見せた。新鮮だった。彼女の沈んだ表情しか知らなかった。


 会釈をして、陽は立ち去ろうとした。


「この子、いつも泣いてうるさいでしょう。ご迷惑ですよね」


 珍しいことは重なるものらしい。話しかけられた記憶は思い出せない。優しい声。母親の声だ。巡もそんな声をしていただろうか。


「迷惑なんて、とんでもないです。赤ちゃんは、泣くのが仕事ですから。子育ては大変ですよね、お疲れさま」


 無難に答えたが、母親はうれしかったようだ。挨拶を交わすだけの間柄であっても、労われると救われるのだろう。巡にかけてやっただろうか、労いを。


「それに、何かと賑やかなアパートですし」


 陽の軽口で、母親は少女のように笑った。彼女の手の茶封筒は、幸せな便りだったに違いない。


 陽は独房に帰った。日常生活を手早く済ませて、座椅子で本を開く。卓上ライトの明かりの輪が、いつもより広いような気がした。


 どんな便りが、母子家庭に届いたのだろうか。ほんのしばらくそれを考えたが、すぐに本に没頭した。蘇我氏は本当に悪だったのかを問いかける内容だった。


 何事にも、視る角度というものがある。蘇我氏は天皇家を乗っ取ろうとしたのか。中大兄皇子はヒーローなのか。事実は一つだが、真実は関わった人の数だけ存在する。


 陽の犯した罪も、視る角度によって複数の解釈、真実が成り立つのだろうか。今更あの日のことをどう引っ繰り返しても、救われる真実はありそうもない。妻を死に追い詰め、心に障害を持つ我が子を施設に置き去りにしている。それだけが、事実であり、真実だ。


 音楽家の独演会が、今夜は早く始まった。夏の日は、まだ少し残っていた。


 誰の歌だっただろう。懐かしい調子。子供の頃を想いたくなる歌詞。陽にも、根拠のない大きな夢を抱き、駆け回って遊んだ夏の夕べがあった。確かに、あった。


 風に当たりたくなった。窓を開けた。吹き込む夏の香り。薄闇に沈んだ街があって、その向こうに夕凪の海がる。群青に赤い航跡を曳いて行く船が見えた。


 誰かが祝杯を挙げているだろう風景。誰かが背を向けているだろう景色。誰かが、ただじっと見つめているだろう情景。


 星が見えた。明星だろう。羨むほど強く輝いている。


 本当の、ただ一つの願い。あの男の子はそう言った。本当の願いは、明星のように強く光るものだろうか。それとも、燻った燠火のようなものだろうか。


「やぁ、よく見える、見える」


 404号室の窓から、何やら黒い筒状のものが出てきた。404号室から何が出てきても驚いてはいけないのが宮殿の規則だが、陽はさすがに目を丸くした。


 筒状の何かは所々に屈折箇所があり、不器用な蛇にも見える奇妙な動きでくねくねしている。筒の先端が、唐突に陽を向いた。おもわず身を反らした。


「それに見えるは、201号室の御仁だな。どうだね、私の発明した『楽して星みようくん』は。天体観測は冬場寒いのが難点だが、これを使えば、暖かい部屋の中からでも星を見ることが可能なのだよ。横着グッズ1号として売り込むつもりだよ」


 得意気に大学教授は説明してくれた。昔、スパイグッズとかいうこんなおもちゃがあったな。陽の感想はそれだけだった。


 何とも情けない音がして、『楽して星みようくん』の先端部分が外れた。丘の斜面に建つアパート下の雑木に、ぽとりと落ちた。空しさが響いた。


 がらりと窓を開ける音がして、大学教授が顔を出した。


「星は、自分の目で見るのが一番だということだ」


 大学教授はへこたれない。確かに、そんな星もある。陽はそう思った。


 数日して、夕方にさっと一洗いするような雨が降り、夜に止んだ。


 夜半、座椅子で微睡んでいた陽は、目を覚ました。男の子が公園にきている。理由はない。ただ感じた。部屋着を着替え、そっと独房を出る。アパートの錆びた鋳物看板をくぐると、月が見えた。丸み豊かな上弦の月だった。足音が夜に反響する。


 軽い高揚感。小学生の夏休み、夜遅くに友達と待ち合わせ、こっそり家を出た時の記憶がよみがえる。あの頃の時間は弾んでいた。


 事務顔をした小学校の門扉を乗り越える。一本の街灯。光の円を踏み越えると、夜の校庭。清らかな闇。かすかな音。そして光。


 陽はブランコまで歩いた。ぼんやりとした光がブランコを小さく揺らしている。


「前に会った時も、雨上がりだったね」


 男の子は前を向いていた。陽の声を無視したのではない証拠に、ブランコを止めた。


「雨の日、人の思いは豊かになるのかもしれないね。でも、案外、雨は好きではないよ」


 男の子は言った。横顔と声はあどけない。


 陽は隣のブランコに座った。懐かしい視界の高さだった。新鮮な息を吸った気がした。


「ここが気に入ったようだね」


 陽が尋ねると、男の子は笑顔を見せた。


「うん。本当の、ただ一つの願いが、ここからよく見えるからね」


 遠くの、黒々とした海から、船の警笛のような音が聞こえた。


「失くしてもいい思い出は見つかったの?」


 こちらを向いた男の子が見詰めてくる。何か深いものを知った目だ。生まれたばかりの赤子の瞳にも見える。


 陽は、しばらく男の子の透き通った黒さの瞳を見詰め返してから、海に並んで光を広げる街明かりに視線を向けた。


「ジグソーパズルで遊んだことはあるかい?一つ一つのピースは、みんな変な形をしているだろ。その形に意味なんてない。でも、それをいくつも合わせると意味が生まれてくるんだ。どこに置けばいいのか迷うピースもあるけど、どんなパズルでも、いらないピースなんて、きっとないんだろうな」


 男の子はしばらく陽の横顔を見て、


「ぼくもパズルは好きさ」


 そう言った。それから、またブランコをこいた。錆びた金具が、切なく鳴る。


「おじさん、名前はなんというの?」


「陽。水島陽。きみは?」


「おじさんが何と呼びたいかだよ」


「じゃあ、ひかるだ」


 男の子は小さく笑った。


「ぼくが光っているのでないよ。ぼくは、本当の、ただ一つの願いを感じているだけなんだ。そら、お月さまだって太陽の光冠(コロナ)で輝いている」


「それでも、きみをひかると呼ぶよ」


 男の子は、また小さく笑った。


「…本当の、ただ一つの願い、か」


 陽は空を見上げた。この街の夜空は黒が薄いが、それでもいくつかの星が瞬いていた。巡は持っていただろうか、そんな願いを。あの子も、そんな願いを持ち続けているのだろうか。


「ほら、あすこをごらん」


 男の子が指さした。年代物の車が走ってきて、宮殿の前に止まった。運転席のドアが開いて、男性が立った。何かに躊躇しているようだった。男性は歩きだし、アパートの鋳物看板をくぐった。


 男性が立ち止まったのは203号室の前。しばらくじっと立っていた。そして呼び鈴を鳴らす。一度だけだった。しばらくの時間。数十秒。男性は立ち去ろうとした。ドアが開き、母子家庭の母親が男性の背中に抱きついた。泣いているようだ。男性は振り向いて、彼女を強く抱き締めた。


 陽は数日前のことを思い出した。郵便受けの前。彼女が持っていた茶封筒。中には、やはり吉報が入っていたのだ。


「願いが一つ、叶ったね」


「別の場所へいくのかい?」


 振り向くと、ブランコはただ揺れていた。ひかると呼ぶことにした男の子の面影を、無人のブランコの上にしばらく見ていた。


 陽はブランコから立ち上がり、校庭の柵まで歩いた。アパートがよく見えた。


 母親はむずがる子供を抱えてきて、男性に抱かせた。戸惑いながら、男性はその子を腕に抱いた。いつもと違う抱かれ心地に、子はきょとんとした顔をしていたが、やがて男性の耳で遊び始めた。幸せが輪舞曲を踊る調べが、笑い声とともに聞こえてきた。


 陽は祝福した。涙が溢れてきた。

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