校庭の光
雨はすっかり上がっていた。雲が切れて夜空が見えていたが、夜でも光が賑やかなこの街では、星の自己主張は弱々しい。それでも月は、雲間に見え隠れしながらも、懸命に輝いていた。
人込みを嫌った陽は、地下鉄の駅には向かわず、路地を縫って歩いた。
雲間の月のせいで、影法師が消えたり、現れたりしながらついてくる。
「独りで歩くには、いい夜だね」
「京子は楽しそうに男性客と話していたね」
「さぁ、早く帰って膝を抱えなきゃ。あの子もきっとそうしているだろうからね」
影法師はうるさい。陽は無視を決め込んだ。
宮殿までは三キロと少しというところだろう。酔い醒ましには少し遠い気もするが、急いで帰る必要はない。丁度、音楽家の独演会が始まる頃合いには着くだろう。
街明かりが遠ざかり、人がまばらになる。街灯が落とす白い光の輪は決められた間隔で整列し、光の勢力が及ばない暗がりには、含み笑いをする妖魔が潜んでいそうだった。酔いが、そんな幻想を見せるのだろう。
坂に差しかかった。いつも登る坂だ。足が重い。夜の底が足に粘つくようだ。三キロを歩いた疲れと、酔いのせいだろう。
小学校の正門が見えてきた。児童がいなくなった学校は寂しそうだ。
(朝を待てばいい。そんなに長い時間じゃないはずだ)
陽は心の声で、学校を慰めた。すると、誰もいないはずの校庭で、音がした。微かな、耳をくすぐるような、無視できない音。
陽が小学校に通っていた頃から、夜の学校には何かが潜んでいるに違いないとずっと思っていたが、やはりそうなのかもしれない。校舎の寂しげな表情の裏で、何かの秘め事がひっそり催されていても不思議ではない。
金属質の音だ。聞いたことがある。久しく耳にしていないが、確かに記憶のある音だ。
ブランコだ。ブランコの揺れる音だ。
音の正体の想像はついたが、誰が揺らしているのかが新たな疑問だった。初夏の夜風がないこともない夜だが、ブランコを揺らす程の力はないはずだ。
冷めてきたとはいえ、まだ感覚の芯の部分に酔いが残っていたからだろうか、陽は正門を乗り越えた。素面では、決してそんな行動はしない。
校舎の外をぐるりと回ると、暗い校庭があった。雲間の月が、校庭の土をぼんやりと白く浮かばせていた。
半分埋まった古タイヤの列があり、砂場がある。その向こうは鉄棒で、その向こうに、光がある。
光。仄か。だが確かに光。月明かりでもなく、街灯でもない。またブランコが揺れる。
陽は光に近づいた。光に誘われる夜の虫の気持ちが少し理解できた。見ておいて立ち去れる光ではなかった。この現象が何者かの罠であるなら、陽はすっかり嵌っていた。
不思議と怖さはなかった。いつかこんなことに遭遇する。どこかで、そう考えていたのかもしれない。
ブランコがある。仄かな光。ブランコが光っているのではない。揺らしている何かが光に包まれているのだ。
子供だった。年の頃は十歳ほど。この年頃の子供の姿は、陽をどきりとさせる。
仄かな光に包まれていると見えたのは、錯覚かもしれない。着ている衣服の白さと、子供の肌の白さが、弱々しい月明かりをかき集めて、夜の中に浮かんだのかもしれない。
男の子。少女のようにも見えたが、陽は男の子だと思いたかった。
家出には見えなかった。悲壮感も孤独感も感じられないからだ。ただ誰かを待つように、ブランコを小さく鳴らしながら、足をぶらつかせている。
陽に気づいているふうでもあるし、気づいていないふうでもある。戸惑ったが、深夜、いるべきでない場所にいる独りの子供を見かけて、声を掛けないわけにはいかない。ろくでなしであろうとも、大人は、大人の行動をすべきだ。
「はぐれてしまったのかい」
子供に話す時の声色を探りながら声をかけた。やおら振り向いた男の子は、見上げる大きな瞳を意外そうに見開いた。
「はぐれているのはおじさんでしょ」
意表を突かれた。豆鉄砲を食らうときょとんとするらしい鳩に、妙な親近感を覚えた。男の子は小さな笑い声を立てた。
切ない音色でブランコが揺れた。男の子の姿が行っては戻った。
確かにはぐれている。置き去りにされた孤独感を、陽は改めて味わった気がした。自分を嗤った。置き去りにされたことは痛いほど感じるのに、何に置き去られたのかが分からない自分がおかしかった。
雲間に、月がはっきりと映えてきた。今夜最高潮の月明かりに、影法師はくっきりと足元から伸びている。だが、影法師は沈黙していた。嗤って欲しい時に限って、彼は静かに陽を見ている。哀れむように陽を見ている。その眼差しは、耐え難い。
「思い出を一つ失くすなら何にする?」
脈絡のない問いかけだった。男の子は澄んだ瞳で見つめてくる。抗えなかった。抗うべきでないと感じた。生きるために必要なものがあるように、何かを捨て去るために、何かを見出すために、男の子の質問に答えなくてはならない。そんな気がした。
しかし、答えはなかった。
いや、ある。確かにある。忘れてしまいたい思い出。耳を塞ぎ、黙れと叫びたくなるような過去。
あの時のことを口に出そうとして、思い止どまった。本当にそうか。本当に忘れてしまって構わないのか。
暗い部屋の隅で膝を抱えたままの子。綺麗すぎた妻の永久の寝顔。妻が納まった小さく軽い箱。三人でつないだ手。夏の日差しに抱き上げた小さな姿。温もり。匂い。子守歌を歌う妻の穏やかな笑顔。
失くしてよいものはどれか。何もないはずだ。しかし、忘れたい。いや忘れたくない。
陽は目眩を覚えた。引っ繰り返って、仄々とした月を見上げたかった。
「迷っているのだね。だったら、きっとそこにおじさんの欲しい物があるよ」
男の子はそう言うと、またブランコを揺らした。
風の声を聞いた気がした。あるいは、ここいらにありもしない渓流のせせらぎか。
男の子の声のような気もするし、彼は何も話さなかったような気もする。男の子は、ただブランコの切ない音色を聞かせていただけかもしれない。
この子は誰だろう。ようやく、そのことを考えた。透き通るような肌をしている。何も知らなそうで、何をも見通しているような瞳をしている。
そもそも、この子の姿は現実の事象なのだろうか。家出や、近頃の最も目にしたくない四字熟語である児童虐待を疑うよりも、まずその存在を疑った。それほど、男の子の姿には、現実味がなかった。
「ぼくは確かにここにいる。ここにいて、おじさんと話をしているのだよ」
男の子には陽の心が見えるらしい。
陽はようやく気づいた。妖しと遭遇しているのだ。恐れはない。むしろ、清々しさが体内を通り抜けて行くようだった。
「おじさんは、本当の、ただ一つの願いを持っているのだね。ぼくを見過ごさなかったのは、つまり、そういうわけなんだ」
どういうわけかよく分からなかったが、そういうものなのだろうと、陽は思った。
「ほら」
男の子が指さした。
「光が灯っているね。街明かりでないよ。本当の光だよ。みえるでしょ、ほらあすこ」
小さな指が指す先、夜の中を視線でたどると、見慣れた屋上があった。太陽の宮殿。世界の隅っこ。
「ぼく、あすこへいってみよう」
そう、男の子が言った気がした。それも、やはり風の音だったのかもしれない。
ブランコは揺れていなかった。男の子もいなかった。酔っているからだろう。足元に落とすように、陽はつぶやいた。