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隅っこのひかる  作者: 三星尚太郎
2/10

一隅

 雨の朝だ。


 空が晴れたからといって、手足が弾みだすような精神の仕組みになっていないその反面、雲の重い日は、いつも以上に心が重くなる。損な精神構造だと、陽は自覚している。 


 職場までの道のりで、激しい雨水に靴を洗われ、夏だというのに足はすっかり冷えた。靴はもちろん、靴下も濡れそぼった。


 陽の職場は、黒い建物の中にあった。数えるのは億劫だが、十二階建てだということだ。


 晴れの日なら、その建物は、昔見た『2001年宇宙の旅』に登場したモノリスのように、黒々とした石板のような面構えをしている。


 今朝のように空が重く垂れる暗い日には、魔女と死神と貧乏神の集会所のように、おどろおどろしい姿となる。


 そう遠くない過去、まだ陽の時間が行進曲に合わせて闊達に動いていた頃、ここは輝いて見えた。この建物の中に、人生の栄光があると信じていた。


 魔法は、解けた。真実は、ただの黒い建物だった。


「自分の失敗を建物の罪にすり替えるとは、現実逃避にしても新しい手法だね」


 影法師に何度も嗤われた。


 いずれにしろ、天象に関係なく、この黒い建物の中で生き生きと職務に邁進することなど、もう陽にはできなかった。


 所属する部署は五階にあったが、まず一階のトイレの個室に入った。蓋を閉めたままの洋式便座に腰掛け、濡れそぼった靴下を脱ぐ。


 用意していたタオルで脚を拭き、新しい靴下を履く。靴の替えはないので、靴下はたちまち湿ったが、そこは我慢するしかない。


 朝っぱらからの沈鬱な作業で、陽は出勤時間を二分ほど遅れてしまった。


 陽の小さな失敗を見つけた上司は、油気の多い顔を薄気味悪く歪めた。これで笑っているらしい。


「雨が降ったら遅刻って、ハメハメハ大王の息子か」


 どんな表情をしていいのか戸惑う小言を、したり顔で上司は言った。


「遅刻するのは、風が吹いたときではなかったでしょうか」


 と、ばか正直に指摘する気にはならない。陽は、頭を下げただけだ。


「君も監督する立場なのだから、そんなことでは部下への示しがつかんだろ」


 鼻息が一緒に吐き出された。今朝の占いに『部下へ小言が吉』とでもあったのだろう。得意げな顔をしている。


 すると、陽よりもさらに遅れた課長が現れた。上司は気づかぬ素振りで、決裁書類を手に取った。


 味気ない職場の雰囲気を一人で醸し出している上司だった。それを今朝も確認した陽は、自席に着いた。


「朝から、気分が悪いですね」


 陽の係の女性職員が、小声で気遣った。よくできた人材で、自分よりもよほど係長に相応しいと、常々、陽は思っていた。


「遅刻したのは事実だからね」


「こんな日に少し遅れたって、私は何とも思いませんから」


「ありがとう」


 目許に小さな笑みを見せて、陽は執務に取り掛かった。


 いつものような時間が、いつものように過ぎて行く。


 忙しくデスクを行き来する者。頻繁に跳ね上がる受話器。PCのキーボードを打つ音は気重げな読経のようだ。


 決裁書類の山が高くなり、低くなって、また高くなる。もう一度低くなる頃に、手の早い者と怠け者が帰宅の準備を始める。


 陽は若くして昇進試験を突破し、同期の中でも早い部類で監督職となった。画素の粗い世間の目が見れば、陽は、順風満帆の船を操る舟人に見えるだろう。


 陽が舟人だとすれば、漕ぎ出した海は風も島影もない世界だ。終わりのない凪の海。水平線まで起伏はまるでなく、自分がどこにいて、どこへ進むのかも分からない。


 例の上司は、凪の海に突然現れた海坊主のようなものだ。痩せていたなら、つい『貧乏神さん』と呼びかけてしまいそうな貧相な顔をしている。


 終業時間をいくらか過ぎ、陽は職場を退出した。陽の係では、心配りのできる女性職員をはじめ、皆まだ帰ろうとしていなかった。


 まだ魔法が解けていないのだ。陽はそう思う。もしくは、陽だけが呪われているのか。


 これといって守るものがないのだから、もう二度とここに戻ってこなくても良さそうなものだが、明日もきっとここに来る。


 成人まで育ててくれた両親への思いは、当然ある。子が人並みの暮らしをしていなければ、それを案じない親などいない。いや、何だろうと親は子を案ずるものだ。世間一般はそうだろう。


「言い訳だね」


 職場を出た陽に、またぞろ現れた影法師が囁いた。彼は街灯の明かりででも現れるのだ。


 雨は小降りにはなったが、まだ止みそうもなかった。ありがたい。坂道を帰る時、振り向いても、夕日に胸を衝かれることが、今日はないからだ。あの夕日は、思い出を騒がしくする。

 太陽の宮殿。陽の暮らすアパート。薄汚れた廊下は、日中でも日陰に沈んでいる。雨の夕暮れは一層暗い。


(何しろ世界の隅っこだから)


 そこは陽と影法師の意見は一致している。


 201号室。陽の部屋番号。独房と呼ぶに相応しい空間だ。


 寂寥が膝を抱えて待っていた。そんな生活は、もう随分経っている。静けさには慣れていた。静けさの中にいたかった。


 雨でなければ、西日がまともに射し込む。珍しくカーテンを全開にして帰宅した日などは、フローリングに、まばらに置かれた家具の長い影が伸びている。そんな黄昏には、孤独以外の何も感じなくなる。それがいい。


 陽は服を着替えた。カーゴパンツにダンガリーを合わせる。


 今夜は街に出る。出て楽しい街ではないが、陽の安らげる空間『一隅』は、そこにある。


 玄関のタウンシューズを履きかけたところで、漫画家夫妻が騒ぎだした。いつものことなので、気に止めることはない。


 101号室の痴話喧嘩は、微笑んで聞き流す。それがこの宮殿の住人の暗黙の了解事項だ。


 どうせ半時間も続きはしない。どちらかが部屋を飛び出し、数時間も経たぬ間に、猫撫で声で戻ってくるのだ。


 陽は独房を出た。階段を降りると、丁度、漫画家夫妻宅のドアも開いた。今日は夫が飛び出す日のようだ。女装させても物になりそうな若い夫だ。


 陽と鉢合わせになった若い夫はばつの悪げな顔で、


「いつもすみません」


 小さく謝罪した。陽は口元を綻ばせた。


「言い合える時には、言い合った方がいい」


 小走りして行く若い男の背中に、陽はそっと投げかけた。


 雨は、大方上がっていた。


 市営地下鉄の駅まで、歩いて十分足らず。あの若い夫はどこへ出掛けたのだろう。駅までの道中で彼の背中は見かけなかった。口論の腹立ち紛れに、この辺りを、小石を蹴りながら歩いているのだろうか。仲直りするための良い言葉を、彼が見つけられたらいい。


「帰る場所がある者は、何度飛び出しても、道を失うことはないのだね」


 耳の後ろからそう囁くはずの影法師は、夜に埋もれてしまっている。夜道の良いところは、陽にとっては、そんなところにある。


 駅のホームでは、いくらも待たずに車両が滑り込んだ。生ぬるい風が陽の全身をなで回すように吹き、次いで、ホームに落ちたゴミを巻いて旋毛を起こす。 


 地下鉄で東へ二駅。


 改札を出て、長いエスカレーターに乗る。歓楽街に繰り出そうという乗客が、次々と駅の出口へと運ばれる。派手で騒がしい光の中へ陽が放り出されたのも、すぐだった。


 煙るようなネオンライトに燻られて、低空の雲は皆、酔ったような顔色をしていた。


 無秩序に混ざり合う人の流れを渡りつつ、陽は大きな神社の鳥居を右手に見る通りへ入った。ここにもネオン看板の店がある。大通りよりも人数は少ないのだろうが、道幅が狭いため、かえってごった返していた。


 路地に入ると、途端に人は疎らになった。


 神社の鎮守の森の頂が、ビルとビルの狭間に見えた。黒々と、夜が盛り上がっているかのようだ。


 『一隅』


 青い灯りに、真鍮の文字が浮かぶ扉。陽は扉を開けた。


 室内は暗いが、艶やかで、清らかだ。落ち着いた灯りがいくつか浮かんでいる。一つの灯りの中に笑顔があった。


「いらっしゃい、陽」


「…やぁ、来たよ」


 陽ははにかんだ。


 ここに来るのは、数日ぶりのことだった。


 小さな店。カウンターに椅子が五脚。思い出が灯りそうな懐かしい色の照明が三つ。


 洋酒と小料理を出す店で、酒も料理も味がいい。社会の一隅で、独りで静かに飲みたい客を狙っている。


 男が独りで飲む時間にはまだ少し早く、陽の他に客はない。陽は右端の椅子に座った。


 湯気を揺蕩わせたおしぼりが、品の良い木の器に畏まって、陽の前に置かれた。


「今日も浮かない顔ね。いつもどおりってことかしら。元気かどうかは聞かないわ」


 店の主は、長い黒髪を束ね、左肩を通して胸まで垂らしている。情欲よりも安らぎを与えてくれる雰囲気の女性だ。客の多くが、彼女の前で、甘え盛りの少年に戻る。


 四十前後の齢を重ねた大人の仕草を見せるかと思えば、笑顔を咲かせる時は十代のように無邪気でもある。


 彼女の年齢も、素顔も、陽は知っている。なぜなら幼なじみだからだ。


「いつものでいいわね」


 陽の返事を待たずに、彼女はシーバス・リーガル十八年のボトルを手にした。グラスに大きな氷と、五分の一ほどのスコッチを注いで、陽の前に置いた。


 一口、飲む。甘い香りが、喉の奥から鼻に抜ける。


 飲んでいるウイスキーの素性を、陽はあまり気にしない。彼女は、問われなければ銘柄の説明はしない。知ったかぶった客が彼女を試そうとして、彼女の豊富な薀蓄に屈する場面を、幾度か見た。


「…お京」


 山科京子。彼女の名だ。今では古風な響きがするその名を、陽はより古風に呼ぶ。


「今日は、命日なんだ」


 京子は小鉢を、言って後悔している陽の前に、静かに置いた。


「そうね」


「だから呼んでくれたのかい?」


 一隅は毎夜開いている店ではない。京子は他にも自立した仕事を持っていて、一隅は彼女の趣味に過ぎない。週に二日か、多くて三日程度だ。営業日は決まっておらず、京子の気ままに頼っている。それでも常連客が耐えないのは、京子の魅力の賜物だ。


 店を開ける日の午後には、京子は一通のメールを陽に送ってくる。


「今夜、開いています」


 と。


 他にメールを送信してくる友人も知人もいない陽のスマートフォンの受信ボックスは、ほぼ一隅の開店記録だった。


「もう五年も経つのね、巡さん」


 巡は妻の名だ。悲しい最期を遂げた女性。そうさせたのは、他ならぬ陽である。


「薬を飲んだ時、巡は俺を恨んだだろうな」


 幸せにすると誓ったはずだった。乗り越えられたはずの困難で、陽はその誓いを反古にした。裏切りが生み出すものは恨みだと、陽は認識している。


「難産だったけど、子供が生まれた時、巡は幸せそうだった」


 思えば、巡の安らかな笑顔は、あの時が最後だったかもしれない。


「その子は、五つになっても一言も話さなかった。パパとすら呼んでくれなかったよ」


 自閉スペクトラム症を告げられた時、陽の、当たり前と考えていた未来図が、真っ黒に塗りつぶされた。

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