戸締り
窓を開けた。こんなに風を爽やかに感じたのはいつ以来だろう。空はもう晩秋の高さだ。雲もどこか色めいている。
太陽の宮殿を出る。世界の隅っこから出て行くのだ。仕事は、辞めた。
荷物の大半は、既に新居に運んでいた。掃除を済ませ、身の回りのものだけを鞄に積めれば、ここでの生活は全て記憶となる。
「さぼるんじゃないの」
京子が床を雑巾で拭きながら、陽の足を小突いた。
「幸せを求めていいのか、今でも悩むよ」
空の遠いところを見ながら、陽は言った。
「悩みなさい。逃げさえしなければ、いくら悩んでも、私は許す」
隣に並んで立った京子が胸を反らす。代官のような顔を作っている。それから笑った。黒い、絹のような髪を、陽は撫でた。京子は睫毛を伏せた。
歩が退院してすぐ、陽は京子と入籍した。幸せにするとは約束できない男を、京子は大らかに受け入れた。巡は許してくれるだろうが、これからも悩み続けるに違いない。
懸命に生きる。そして終わりの時、本当に許されたかどうかの答えが分かるだろう。
陽は部屋の隅を見た。歩が座って、図鑑を開いている。星や星座が好きらしい。
歩の発達障害が改善されたわけではない。そのことでも、これから悩む日々が続くだろう。病もあるが、もう怖くなかった。歩がいてくれる。それがすばらしいことだった。
三人の生活を始める。大切なものを、自分は待っていたのだ。それを教えてくれた男の子は、仄かな光と一緒だった。
「今はどこで、誰を見守っているのだろう」
もう会うことはない。本当の、ただ一つの願いは、もう叶ったのだから。
「ほら、掃除掃除」
京子は陽に雑巾を押し付けた。
新しい職場はこじんまりしていたが、活気はあった。まちづくりをコンサルタントする会社だ。勉強すべきことはたくさんあった。やり甲斐もあった。
辞表を出した時、例の上司は、おもしろい顔をした。陽の退職に、自分が負うべき責任があるのかどうか計算している顔だろう。最後まで取るに足らない人間だった。
京子は、一隅を畳んだ。元々、趣味でやっていた店だった。
新しい生活に不安はある。不安があるからこそ、強まる絆がある。陽はそう信じた。
何もなくなった部屋を、夕焼けが染めた。
三人で玄関を出る。鍵を締める。この扉を開けることは、もうない。
鞄を持った。差し出したもう片方の手を、歩がしっかりと握る。
夕べの道を三人で歩く。丘の斜面の家々の屋根越しに、胸を衝いてくる夕日を見た。
あの夕日に、いつか三人で祝杯を挙げる日が来るだろう。その光景を想って、陽は楽しくなった。
三人の影が小さくなる。太陽の宮殿に、薄闇が降りてくる。その屋上で、遠ざかる親子を見送る仄かな光がふたつ。
「もう少し見送ったら、ぼくたちも行こう」
ひかるが言った。その隣で、光の中の巡が微笑む。陽が振り返った時、太陽の宮殿は、もう黄昏の風景に溶け込んでいた。
< 終 >




