太陽の宮殿
夏の初めの風が吹き下りる長い坂の途中で、陽は、夕景色の中にいることにふと気づいた。振り返ると、街は橙色で、その向こうの海原は落陽を受け入れて赤々としていた。
「あの夕日へ、祝杯を捧げている人もいるのだろうね」
風に乗せて、陽の影法師がささやいた。
陽は静けさの内にいる。話し相手はもっぱら影法師。巡が死を選んでからは、そうして生きてきた。
東西へ向かう山並みがあって、この辺りは坂が多い。もう少し坂を登ると、道は一度平らになり、しばらくしてまた登り始める。
小学校が見えてくる。夕日の橙と夕闇の紺瑠璃が、校舎を気ままに彩っている。小学校グラウンドのフェンスに沿って坂道を左に折れると、薄墨で刷いたような小道が夜に向かって伸びている。
太陽の宮殿と刻まれた鋳物看板がひっそりと立っている。四隅に錆の浮いた懐古趣味な看板だ。そこは四階建てのアパートで、二階の一番奥、西日の残り火に燻られている部屋が、陽の部屋だ。彼は、独房と名付けていた。
五年になる。草臥れたアパートだが、不満はない。ここは、心の時間を止めた者には相応しい住処だ。
世界の隅っこ。陽がこの太陽の宮殿に贈った愛称だ。
「独りの時間を楽しみたまえ」
玄関の扉を閉めると、影法師はそう言い残していなくなった。
カーテンを締め切った陽の部屋では、影法師の居場所はない。カーテンの隙間から漏れる僅かな西日も、じきに消える。
卓上ライトを灯す。明かりは、それで十分だ。陽のぼんやりとした影が壁に浮かぶが、彼は、日の光で黒々と姿を現すあの影法師とは違って、無口だ。
生活を彩る感情を持たない陽だから、最低限の生活活動は、日が昇ってから出勤までの時間で十分にこなせた。したがって、帰宅後、テレビをつけて座椅子にもたれ掛かれば、あとは時間を持て余すだけである。夏場は、クーラーのリモコンを押す作業が一つ増える。冬場ならヒーターだ。
食事は質素に済ませる。職場の同僚や知人と外食に行くことはない。同僚で名を覚えているのは日々直接名を呼ぶことのある数人だけだったし、知人の連絡先は数年前のものがあるだけで、今や連絡が付くのかどうかすら心許ない。
テレビ番組が、今夜もくだらないものばかりであることを確認すると、陽は読みかけの本を手に取った。霧深い神話に埋もれたこの国の古代史を、掘り起こそうと試みる著者の本だ。
歴史好きが一つの救いだった。歴史に関する本を読んでいるときは、長い時間を忘却できた。元々は有りがちな幕末維新からの歴史入門だった。戦国、太平記、明治・大正・昭和初期ときて、古代まで辿り着いた。幸いなことに古代史はとてつもなく奥が深く、一生、読む本には困りそうになかった。部屋の一角には、読み終わった本が堆く積まれ、カーテンの透き間から朝日が射したときなど、なかなかの趣をみせる鑑賞物に昇華していた。
もうひとつ、癒しの時間が陽にはあった。それは、幼なじみの山科京子が営むカウンターバー『一隅』でのひと時だ。
京子とは幼稚園から現在までという長い付き合いになる。長い黒髪が似合う女性。名前と同じように古風を感じさせる性格だが、控えめなだけでなく、自分の人生をしっかりと生きる女性だ。彼女に恋愛感情を抱いたことがなかった、と言えば嘘になる。
本を読み終えた。積本の鑑賞物がまた一つ成長した。二十一時。そろそろいつもの時間だ。陽は座椅子を倒し、クーラーを弱めて、目を閉じた。
これからの時間を、いつ頃からか陽は待ちわびるようになっていた。癒やしというような楽しい時間ではなく、時に忍耐を強いられるが、自分に相応しい場所にいる安堵感はあった。
太陽の宮殿。草臥れたアパート。幸せから忘却されたような世界の隅っこの静寂が、無遠慮に破られた。
詰り合う男女の大声。まだ若い声。101号室。ちょうど陽の真下の部屋だ。そこに暮らす若い夫婦が、今夜も痴話喧嘩を、喜歌劇のように聞かせてくれようというのだ。
夫婦の事情を直接彼等から聞いたことはなかったが、宮殿の住人の皆が知っていた。夫は売れない漫画家らしい。そのうえ浪費癖があるようで、妻がパートで稼いでも一向に生活は楽にならず、それが喧嘩の原因のようだ。
「いつか必ず」
それが夫の逃げ口上で、
「いつかはいつくるの」
それが妻の攻め口上だ。
騒がしいが、宮殿の住民が苦情を言い立てることはない。警察に通報することもない。根っこは仲の良い夫婦であることを、皆が知っている。
夫婦の声が猫撫で声に変わるころ、別の騒動が起こる。それは203号室、陽の二つ隣の部屋の小さな住人が発する騒動だ。そこには母と子が暮らしていた。子はまだ数カ月というところか。その赤ん坊が、若夫婦の喧嘩騒ぎに触発されて、大泣きする。
宮殿の廊下で、母親とは何度かすれ違ったことがある。形式的ながら、挨拶を交わしたこともある。母親は痩せ型で、人混みから目に飛び込んでくるような美人ではないが、色のある顔立ちをしていた。そして、どこか薄幸を感じさせる霊気を伴っていた。
良くも悪くも、開放的な薄い壁造りのお陰で個人情報を聞き放題のアパートだから、住人の事情は、一人沈黙している陽を除いて、お互いそこそこ掴んでいる。
母親とはどちらが先かというタイミングでアパートに入居した。入居当時に赤ん坊はおらず、かわりに社交的とは言いがたい雰囲気をまとった男性と二人暮らしだった。男性は、半年後には軽薄そうなのっぺら顔に替わっており、その後また半年経たずして、災害時には同じ場所に閉じ込められたくない頼りなさげな男になっていた。
その後も何度か母親の部屋を出入りする男性は容姿を変え、一年ほど前に見た男性は、一見、商社の重役といった雰囲気の男性だった。その男性もすぐに去ったが、今までと違ったのは、赤ん坊を残して行ったことだ。開放的な壁のお陰で知ったことだが、どうやらその男性は他に妻子があったようだ。
要するに、母親は男運に見捨てられた女性なのだ。誰が悪いのか、そこに陽の関心はなかったが、赤ん坊の泣き声は心に堪えた。心の隅に追いやった過去の罪科が、ここにいるぞと騒ぎだすからだ。耳と心の刺激を懸命に耐え、赤ん坊が泣き止む時を待つしかなかった。
303号室の住人は、宮殿の住人の中では屈託を感じさせない異質の存在で、挨拶だけで通り過ぎたい陽にも時々話しかけてきた。
彼は音楽家だ。ミュージシャンではない、というのが彼の信念であるらしかったが、陽にはよく分からなかった。彼が楽器を全て売り払い、音を奏でる道具が、もっぱら彼の喉だけという状況にあるのも、彼の信念が原因なのかもしれない。ただ、残された唯一の楽器は、佳い音を奏でた。
赤ん坊が泣きはじめてしばらくすると、まるで子守歌を聞かせるように、音楽家は歌い始めるのだ。大抵、古い曲だった。歌が詩として、その言霊が人の心を揺り動かす力を持っていた時代の歌だ。
音楽家は、中島みゆきの『糸』をカウンターテナーの声で歌い上げる。窓辺に立った陽は、晴れの日でも開けることが稀なカーテンを少し捲った。
夜景が見えた。丘に建つ太陽の宮殿から、街の灯火がよく見えた。何百万ドルと表現するのはもう随分古い手法だろうが、その灯火の中に喜びや夢があることは確かだろう。所々には、挫折も転がっているに違いないが。
挫折には救いがある。立ち上がれば、また歩めるのだから。時を止めた者には歩む道がない。遠い遠い光の帯は、世界の隅っこで膝を抱える者には、ただ眺めるだけの幻想にすぎない。
歌が止んだ。いつの間にか、赤ん坊の泣き声も止んでいた。
音楽家はなぜ楽器を売り払ってしまったのだろう。陽はそのことを長い夜によく考えた。生活のためだろうか。それならば、あの光の帯の中での生活を求めればいい。
漫画家も母子もそうだ。世界の隅っこの、澱んだ時の中で蹲っていることはない。
待っているのだろう。陽はそう思っている。彼らはここで、何かを待っている。自分は何かを待っているのだろうか。
「音楽が世界を変える」
それが音楽家の口癖だったが、とりあえず彼の生活はしばらく変わっていない。
災害は忘れたころにやってくるものだが、古人の知恵を授けてくれるありがたい諺がびっくりするほど突拍子なく、轟音がアパートを揺らした。
さすがにカーテンと窓を大きく開いて顔を出した陽は、404号室の窓の建具から、焦げ臭い煙が星空に昇るのを見た。漫画家夫妻も、母子も、音楽家も顔を出した。少し遅れて404号室の窓が軋みながら開き、大量の煙と、咳き込む煤こけた顔を吐き出した。
煤こけた顔は何度か咳き込むと、自分を見つめるいくつかの顔に気づいた。
「みなさん、こんばんは。麗しき夜にお騒がせして申し訳ない。悪性の煙ではないので、ご安心を」
煤こけた顔に悪びれる様子はない。
「先生、今度は何の実験ですか」
音楽家が笑い声を交えながら尋ねた。
「うむ、画期的な発明だよ。大学の理事会の理解は得られないがね」
大学教授。それが404号室の住人の肩書だが、きっと誰も信じていない。世界を驚愕させる発明に人生を捧げているそうだが、今のところ、驚愕は宮殿の住人に止まっている。
陽は窓とカーテンを閉めた。焦げ臭さも混じったが、部屋の空気が少し新しくなった。
漫画家と母子家庭と音楽家と発明家と陽。それが四階建て16室の太陽の宮殿の住人の全てだった。
漫画家夫妻がまた口論を始め、赤ん坊が泣き、音楽家が歌う。世界の隅っこは意外と騒がしい。居心地は悪くない。
やがて一部屋ずつ静かになり、明かりが消える。最後まで灯るのは、陽の部屋の卓上ライトの弱々しい明かりだけだ。
陽は卓上ライトのスイッチを切った。部屋の中の夜が、満足げに手足を伸ばす。陽の本当の夜が始まる。罪を数え、言い訳を探した果てに浅い眠りを迎える夜だ。
陽が名付けたとおり、ここは独房だ。今夜も長い夜になる。