いさかい
ニコラ・ホプキンスは出勤してくるが、仕事をする気はあまりないようだった。毎日、コーヒーや紅茶を買ってきては、飲みながら新聞を読んでいる。一応、彼女が倉庫整理のまとめ役なのだが、注意しても無駄なので、ほとんどミラがすべての作業をしていた。
報復がこわくて、ミラ以外は誰も、面と向かっては文句をいわない。同僚達は、アナベルがウィリアムに伝えることを望んでいるみたいだったが、ミラがそれはまだしないほうがいいと助言してくれた。するならば、アナベルの後任が見付かって、倉庫整理から離れてからがいいと。「彼女はどんな報復をするかわからないわ」
「そんな……」
「彼女はこの間あなたといいあらそいになったことも、まだ恨んでるみたいだから。それに、あなたがなにかといいつける人間だと思われたら困るでしょう?」
ミラの言葉はご説もっともだった。同僚がニコラのかんに障ったようで、毎日のようにねちねちと嫌味をいわれるようになったのだ。アナベルはミラと相談して、同僚と一緒の時間を増やし、ニコラとふたりきりにならないように配慮したが、同僚は結局辞めてしまった。
ミラがどうにか対処しようとしているが、うまくいってはいない。
ニコラがもともとどういった部署に居たのか、どうして左遷されてきたのかは知らないが、ウィリアムは知らないことだろう。もしくは、知っていてもすぐには部署をかえられないかだ。幾ら彼が傲慢でも、もと・妻の友人とアナベルを同じ空間にいれて、なにももめ事が起こらないとは考えまい。
ただ、彼が傲慢だとは、アナベルはあまり考えられないようになっていた。おそらくだが、会社の継承に関して、彼は自分がどうしても社長を辞めたくないというよりは、あの伯父にその座を譲りたくないという気持ちが強いのだろう。その為ならば、なんの気持ちもない女と結婚できるくらいに。
十一月、アナベルはベッドの上に座り、ケータイを操作していた。灯はくらくしてある。メッセージを作成していた。相手は兄だ。ウィリアムがさがしだした施設は随分いいところのようで、兄はまともな文章を打てるくらいには回復していた。以前は電話で、脈絡のない話ができればいいほうだったのだ。兄はアナベルが結婚したことを心配していたが、アナベルが再三、ウィリアムはいいひとだと伝えると、最近ようやく、祝福してくれた。
アナベルはうきうきしていた。今日はウィリアムが仕事で遅くなる。彼はわたしがケータイをつかっていると神経質になるから、隠れてヘンリー兄さんと連絡をとらないといけない。どうしてわたしの交友関係に、あんなに神経を尖らせるのかしら?
床板のきしむ音が聴こえ、はっとして振り返ると、ウィリアムが立っていた。酔っているらしい。お酒の匂いがする。
アナベルはメッセージを送信し、ケータイの電源を落とした。「お帰りなさい」
「誰と連絡を?」
「今日は遅くなるんじゃなかったの?」
ウィリアムはふんと鼻を鳴らし、ベッドに腰掛けた。
「行きたくもない理事会に呼び出されて、呑みたくもない酒を……その上、妻は秘密の恋人と楽しくお喋りしている。まったくいい人生だよ」
「そんなのじゃないわ」
「君は気付いてないと思ってるみたいだが、僕はそこまでまぬけじゃないぞ。君がこそこそ、楽しそうにケータイをいじってるのは、知ってる。噂にもなってるよ、スウィートハート」
ウィリアムはもう一度鼻を鳴らす。「いや、僕の勘違いかな。恋人じゃなく、隠し子でもいるのか、アナベル・レド」
あまりにもひどい言葉に、アナベルは頭ががんがんと痛むのを感じた。目の前がちかちかする。ぱっと、口から言葉が飛び出した。
「撤回しないと、後悔するわよ」
「後悔? どうやって後悔するのかな」
「あなたが世間を欺いてることをぶちまけてもいいって意味よ!」
ウィリアムがこちらを向いた。濃いグレーの瞳がひたとアナベルを見据える。「どういう意味?」
「あなたは遺言書に従ってるふりをしてるだけだわ。偽ものの妻をお金で買ってきた。都合のいい契約で社長の座をまもれて、みんなを騙していい気分なんでしょう? そうじゃないといえる?」
ウィリアムはなにもいわず、足を踏みならして出て行った。せなかが淋しそうだった。
アナベルはクッションを叩く。こんなふうに彼を責めるつもりはない。でも、先にわたしを責めたのは彼だ。それも、いわれのないことで。どうしてわたしがあんな侮辱をされなくちゃならないの?
だが、心に残ったのは罪悪感だった。彼を傷付けたのは事実で、自分はあんなことを喚くべきではなかったのだ。
翌日、ウィリアムは奇妙に優しかった。朝食を一緒に食べようとアナベルを誘い、アナベルは申し訳ない気分が続いていたから、それにのった。
ふたりは近くのカフェで朝食をとり、会社へ向かった。会社の少し手前で降りて、そこから歩いた。ウィリアムは言葉少なだが、アナベルと会話をしようとしているらしい。アナベルもそれをなんとか続けようと頑張っていた。彼も、本質的には悪いひとではないのだ。今は、無理に同じベッドにはいれといってはこないし、アナベルが浴室にたてこもることもなくなっている。
ふたりは会社のロビーで別れた。ニコラ・ホプキンスが来てから、彼女になにをされたという訳ではないが、居心地が悪くなったといって辞めてしまったパートが三人居る。アナベルはまだ、仕事を辞めていない。どちらにせよ、立場を忘れる時間は必要だ。ウィリアム・エスチュアリーの、世間を欺く偽の妻。遺言に従う振りをする為に買ってきた花嫁。
ふたりは毎日、一緒に朝食をとるようになった。その後車で会社の近くまで行き、少しだけ歩く。そういう習慣ができた。それがアナベルには、楽しかった。
一緒に歩いている時、ウィリアムはほかのどの時間よりも紳士的で、素直で、楽しいひとになる。歩いていることでウィリアムの考えすぎ、深刻に捉えすぎる癖が消えるようだ。アナベルはその時だけはウィリアムと気楽に喋れて、嬉しかった。ふたりはスポーツの話、小説の話、それから深夜にキッチンに隠れて食べるおいしいものの話をした。その後実際に、数回、よなかに毛布にくるまって、ふたりで他愛ない話をしながら、カロリーと糖分たっぷりのものを食べた。彼はチーズココアトーストを第一番に据えているが、買ってきたドーナツにかりかりに焼いたベーコンを添えて、メープルシロップをかけたものも気にいったらしい。
十一月の終わり、メラニー・バンクスがあらわれた。ウィリアムの前の妻だ。




