腹立たしいこと
アナベルは寝不足で、倉庫の整理をしていた。
「アナベル、綺麗な爪ね」
「ああ、ミラ、ありがとう」
おざなりに返事をする。欠伸が出て、失礼、と顔を背けた。寝不足は、あの後ウィリアムに抵抗して、彼をひっかき、突き飛ばして、浴室にたてこもったからだ。内側から錠をかけて、寒い床にうずくまっていた。眠っている間にウィリアムがまた来るかもしれないと思うと、一睡もできなかった。
ミラがふふっと笑った。
「結婚式はいつになるの、社長夫人」
「いつかしら。彼は教えてくれないの」
単に、結婚式をするつもりはないのだろう。アナベルには瑕疵が多い。依存症の兄、行方不明の伯父、アナベル本人の学歴詐称。そんな傷だらけの妻をお披露目する気は、彼にはあるまい。単に、自分が会社を手放さない為に嘘の結婚をするには、そういう脅迫材料のある女が妻として丁度よかったというだけだ。
アナベルは立ち上がって、棚の上のほうの箱を降ろしたミラにいった。
「こんなふうに話してくれたのは、今日はあなただけよ」
「あら、もっとかしこまったほうがよかった?」
アナベルは頭を振る。その後欠伸が出て、ミラがくすくすした。
昼食の為に休憩をとって、アナベルは手洗いで鏡を見ていた。目のまわりがうっすら黒ずんでいるが、化粧でごまかせるだろう。もし、わたしがやつれている所為でウィリアムがなにかいわれたとしても、わたしの責任ではないわ。わたしは自分の身をまもった、それだけのことだもの。
手を照明にかざす。彼をひどくひっかいたが、爪は無事だった。昨日は疲れたし、請求書のことを考えると(自分が支払わないのだとしても!)気分が悪くなる時間だった。だが、きどったしゃべりかたのいけ好かないスタイリストには、アナベルはとても感謝している。ちゃちなつけ爪ではなくて、ジェルネイルを選んでくれたから、ウィリアムの鋼の肉体にも対抗できた。
アナベルはその後も、欠伸をしながら業務を続け、仕事が終わる頃にウィリアムの秘書に呼び出されて、なんの為かよくわからないパーティへ出席することになった。
婚約指環が左手薬指できらきらしている。エメラルドはぶどうのひと粒くらいはあるだろう。土台と環の部分はプラチナだ。
すべてのジュエリー、ドレスに関して、契約書では明確な立場がとられていた。それらは契約中にも契約終了後にもアナベルに帰属し、彼女の好きにしていい。つまり彼女は、ウィリアムから買い与えられたジュエリーをどぶに捨てても一向かまわないのだ。
勿論、そんなことはできる訳がない。どれだけ彼に腹を立て、侮辱されたと思っていても。
溜め息を吐いて、アナベルは手を婚約指環を右手でいじった。
「まだヒステリーを起こしているのか?」
隣の席から、ウィリアムの不機嫌そうな、小さな声が聴こえてきた。アナベルは彼を横目で見る。ウィリアムはさいわい、服で隠れる箇所にひっかき傷を負ったらしく、彫刻めいた美貌は無事だった。将来、彼の恋人になる女性は、わたしに感謝しなくちゃね。消えない傷をつけてやったってよかったんだから。
アナベルは目を逸らし、低声で返した。
「そうね。わたし、気分にむらがあるの。あなたはそういうこともわかった上で結婚してくれたのだと思ったけど」
「君が婦人科に世話になっていることは知ってる。避妊薬を服んでいるのも」
なにかあてこするようないいかただった。アナベルはいいかえしたかったが、口を噤む。きっと、ウィリアムには姉妹が居ないか、居たとしても完全に健康なのだろう。母親も元気に違いない。なにも知らない男性にありがちだが、女が婦人科に行くのは、妊娠した時か中絶する時だと決めてかかっている。
アナベルが婦人科に行くのは、生理痛でのたうちまわるアナベルの卵管狭窄に誰も気付かず、炎症が酷くなってからの治療になってしまって、今でも経過観察が必要だからだ。避妊薬は、生理に関する不快な諸々を軽減する為である。それにしたって、アナベルは最近服用を控えていた。兄が咳止め薬からずるずると依存症になっていったのを見てきたから、薬というものに恐怖心があるのだ。
さすがのウィリアム・エスチュアリーでも、医者の守秘義務をどうにかすることはできなかったようだ。ドクターは小切手にやられなかったようね。
それとも、婦人科に行っているのだからそういうことだろうときめてかかっているのだろうか。男性は女の体について知っているような顔をするけれど、医者でもなければ本当はなにも知らない。無知を責めるのは簡単だが、あらためさせるのは容易ではない。
どうせ、形だけの夫婦なら、無用な議論に力を注ぐ必要もないだろう。彼はとっとと相応の女性を見付け、わたしはドレスやジュエリーという一財産をもらって姿を消す。それだけのことよ。
アナベルは唇を噛んで、スタイリストのすすめに従って買った高級な口紅を無駄にした。
ウィリアムは自分の思うとおりにならないこともあると、学ぶべきだわ。
昨夜同様、浴室にたてこもって、アナベルはいらいらしていた。扉の向こうにはウィリアムが居る。厄介なことに、ひどく酔った状態で。
彼はなんだか機嫌が悪くて、パーティでワインを何杯も呑んでいた。しまいには蒸留酒やなにかにまで手を出して、車にのるあしどりは覚束なかった。車からここまで、秘書が肩をかしたのだ。
「アナベル、僕は君に、妻としての務めを果たしてほしいだけだ」
ウィリアムは扉を軽く叩いている。アナベルは扉にせなかをつけて座っていたから、その振動が体に響いた。
「契約書にはそんなこと明記してなかったじゃないの」
「夫婦になるんだぞ。避けて通れると思っていたのか?」
「わたしは娼婦じゃないわ」
「避妊薬を必要にするくらい男と付き合っているくせに、僕はいやだなんて、君は贅沢だな」
皮肉っぽい調子だった。アナベルは反論しようとした。そもそも契約の時に、あなたはそんなことおくびにも出さなかったじゃないの。一言も説明はなかったわ。大体、わたしみたいなタイプの女をわざわざ捕まえてどうこうするよりも、あなたはもっと上等で色気のある女性を3ダースくらい自由にできるんでしょう? そんなふうにほのめかしていたくせに、どうしてわたしに興味を持つの? もしくは、興味を持ったようなふりをするの?
が、実際に反論する前に、ウィリアムが浴室の外で喚いた。
「いいか、君は僕と結婚した。これからは素敵な恋人達と会うことは禁じる。奔放な妻を持っているというのは僕のイメージも、会社のイメージも悪くする。それはわかるね?」
「だからわたしは……」
「それから、君が僕と同じベッドにはいるのを拒む権利はない。僕は月に5000ドルも支払って君を雇ってるんだぞ」
それは事実だが、わずかに違う。ウィリアムははじめから、本当に夫婦らしいことをするとはいっていなかった。契約が成立してからいいだしたのだ。そんなのは卑怯だとアナベルは憤慨していた。
「なら、いわせてもらいますけれど、ミスタ・エスチュアリー。わたしは夫婦というのは互いに尊敬しあうものだと思うわ。申し訳ないけれど、わたしは酒に酔ってお金のことで妻をなじるような夫は尊敬できない。尊敬できないひとと同じベッドにはいることは不可能よ」
「ただなら寝て、金を払えば寝ない。そういうことか?」
彼はさっきからなにをいってるんだろう!
かっときて、アナベルは声を張り上げた。「そうよ、ウィリアム、あなたはわたしの理想からはほど遠いわ!」
ウィリアムはなにかぶつぶついっていたが、諦めたのか居なくなり、アナベルは少しだけ後悔した。ぐずぐずと詰ってきたウィリアムに腹はたったが、かっときてもあんなことをいうべきではなかった。
実際のところ、ウィリアムには素敵なところも沢山ある。パーティの席でも、アナベルがまごついていたら助け船を出してくれた。いやなことをいわれる場面も多々あったのだが、それも彼が割り込んだり、相手に面と向かって失礼だから辞めろるようにといったり、根は悪いひとではないらしい。毎年の寄付額はかなりのものだし、タブロイド紙も彼のことを悪く書きはしない。
それなのに、何故か彼は、アナベルにだけ、あんな意地の悪いようなことをいい、同じベッドにはいれとだだをこねる。
アナベルは浴室を出て、寝室へ向かった。寝室はくらくて、明かりをつけてもウィリアムは居ない。どこかへ行ってしまったのだろう。アナベルはほっと息を吐いて、ずいぶん久々に思えるベッドに身を横たえた。




