指令
「アナベル? 具合でも悪いの?」
アナベルはぼんやりと、頭を振った。手に持ったクラフトテープを見て、自分がなにをしようとしていたかを思い出そうとする。だが、無理だった。思い出すのは、つい三時間前の、ウィリアムとのやりとりだ。わたしは冒瀆的なことをしている。お金の為に、愛してもいないひとと結婚しようと……。
そう考えているのに、口からは、ウィリアムが決めたことがするりと出てきた。「実をいうと、気分が悪いの。思いがけないことがあったから」
「なあに?」
アナベルに笑顔で続きを促すのは、同僚のミラだ。彼女はここで数年働いていて、アナベルと違って正社員である。ミラは五十代で、生まれたばかりの孫が居る。娘がアナベルと同年代らしく、アナベルのことを娘のように扱ってくれる。
アナベルは気の優しいミラを騙すのに良心の呵責を覚えながら、もそもそと喋る。
「あの……わたし、いろんな職を転々としたっていったことあるでしょ? 去年の今頃から、今年の初めにかけて、ピザ屋で働いてたの」
それは嘘ではない。ウィリアムはそういったことを調べ上げ、出会いをでっちあげたのだ。
「それで、何回かデリバリーに行ったのよ。わたし、あんまり運転が上手じゃないから、普段はやらなかったんだけど、クリスマス前後はどこもパーティをするから」
「そうね。ピザなんて食べなくてもいいと思うけど」
ミラはちょっと顔をしかめてから、笑顔をつくる。「あなたが働いていたところを批判してるのじゃないのよ。パーティというとピザを食べたがるひと達が信じられないだけ。それで?」
「ええ、わたしも……いえ、それで、ピザを配達した先で、あの……そこに、ここの社長が居たらしいの。そこで彼は、わたしに一目惚れしたそうで、わたしをずっとさがしてたんですって。わたしはまったく、そんなこと知らなかったんだけど」
ミラの口がぽかんと開いた。アナベルは笑いをこらえる。ミラが面白かったのではない。自分が白々しく嘘を吐いていることに呆れたのだ。あんなに完璧な男性が、わたしのような「優しそうな外見」だけしかない娘を好きになるなんて、無理がある。彼にはシナリオを書く才能はないわ。
だが、ミラには無理なシナリオとは思えなかったらしい。彼女が騒ぎだし、同僚達が集まってきた。
「やあ、アナベル」
「ハイ、ミスタ・エスチュアリー」
「ウィリアムと」
ウィリアムは倉庫のなかを見回して、ふうんといった。
「案外せまいんだね」
「そうかしら? わたしは棚の場所を覚えるのに、一週間以上かかったわ」
「そしてそれをもうすぐ忘れる」
ウィリアムは腰をかがめ、これ見よがしにアナベルの巻き毛をすくった。「君は僕と結婚して家庭にはいるからね」
アナベルはウィリアムを睨みつけたい衝動を抑えた。言動の端々に傲慢さが滲みだしている。
そもそも、妻を雇うという選択は、尋常なことではない。彼は別に、社長の座を追われてもやっていけるだけの財産はある筈だ。また別の会社を興せばいい。それができる才能がないとはいわせない。エスチュアリー社は彼が規模を数倍にしたのだから。
だが、一度座った大企業の社長の座というのは、意地でも降りたくないものらしい。それだけの地位にあるのが当たり前すぎて、彼は社長でない自分は想像できないのだろう。社長にしがみつく為になら、問題を抱えたぱっとしない女を、金で買ってくるくらいには。
アナベルはふいと顔を背けた。ウィリアムが眉を寄せたのが少しだけ見えたが、特になにも思わない。
「そうね。でも、後任が見付かってからだわ」
アナベルの視線の先には、ミラ達がかたまっていた。社長の登場に、怯えて離れていってしまったのだ。
ウィリアムが、ひとつに束ねたアナベルの髪を、ひょいと掴んだ。ミラ達に聞こえない程度の低声でいう。「君は野暮ったいな。明日は休みにして、ちゃんとした美容室へ行くんだ。服も、それなりのものを着てもらわないと困る」
「わたしはきちんとした服を着ています」
低声で返した。ウィリアムは憎たらしいことに、即座に切り返してくる。「僕の妻としては不適格だね。とにかくスタイリストは手配しておく。明日は休みだ」
「仕事が……」
「契約を忘れたのか? 仕事のうちだろう」
そういわれると、アナベルは黙るしかない。ウィリアムへ顔を向け、じっと見詰めた。彼はなにを勘違いしたのか、アナベルの唇に軽くキスして、それじゃあまたと手を振っていなくなった。
傲慢なやつ!




