条件と葛藤
アナベルは大笑いしてしまった。どうやら、悪い夢を見ているらしい。大企業であるエスチュアリー社の社長が、依存症の兄の代わりに奨学金を返している女に求婚? まるで恋愛映画の筋書きだわ。それも、つまらない部類の。
アナベルが無邪気にたてた笑い声は、ウィリアムの気に触ったらしい。彼はむっとして、冷ややかにアナベルを見ている。
「なにもおかしいことをいったつもりはないが」
「そうですか、ミスタ・エスチュアリー」アナベルは笑いをおさめようとする。「それなら、わたしの聴き間違いだったんでしょう。このところ、神経がすり減っているみたいです。くびの宣告を、求婚と聴き間違えるだなんて」
「間違ってはいないな。僕は君に求婚したし、結婚後は職を辞してもらうつもりだ。それに、この結婚を断るのなら、君には我が社を去ってもらおうとも考えている」
アナベルは尚更笑おうとしたが、今度はうまくいかなかった。息を大きく吸い込んでも、笑い声にならないのだ。なんですって? 彼はなにか……不可解なことをいっている。どう考えても。
アナベルは今度は、笑うかわりに彼をまじまじと見詰めた。もしかしたら、彼も兄のような問題を抱えているのかもしれない。ドラッグに、お酒に、砂糖。複雑に絡み合った依存症は、複雑すぎて治療をまったく困難なものにしている。兄が療養施設にはいって相当経つが、施設に支払う金と治療の結果が釣り合っていると感じたことはない。金を払って刑務所にいれているようなものだ。
ウィリアムの顔にも、依存症や神経症の患者らしいところをさがそうとしたが、見付からなかった。だが、単に程度の軽いものだというだけかもしれない。兄だって、前後不覚になるまで、ドラッグなんてものに関わっているとはわからなかった。
「僕の顔が面白いかい、ミス・レド」
「いいえ」
アナベルははっとして、姿勢を正した。「ただ……あなたがわたしに、突然結婚を申し込む理由がわかりません」
「そうかな? 僕達は去年の冬祭りのパーティで偶然出会い、僕は君をさがしていた。一年近くかかったが、運命のいたずらで、先月この会社に勤めはじめた君を見付けたんだ。そして、社長の権限をつかって君を呼び出し、結婚を申し込んでいる」
冬祭り? クリスマスのこと? だとしても、彼のいうことは筋が通らない。こんなにかっこいいひとと知り合って、忘れる筈がない。
ウィリアムはひきだしから、ハート型のジュエリーボックスをとりだす。開いてデスクへ置き、アナベルは向けた。
アナベルはひっと息をのんで、のけぞる。ボックスのなかでは、大きなエメラルドと、それを縁取る小粒なダイアモンドの指環、やはりエメラルドとダイアモンドのイヤリング、ネックレスが、きらきらとかがやいている。
ウィリアムはこともなげに、ジュエリーボックスの蓋を閉め、アナベルへとおしやった。「婚約の印だ。君の自由にするといい。指環だけは、つけておいてもらえるかな」
「あの、ミスタ・エスチュアリー」
「ウィリアムと。僕らは今婚約した」
「そんな……わたしは承諾していません」
きっとウィリアムを睨んでいう。ウィリアムは面白そうに微笑み、また、ひきだしからなにかをとりだした。今度はなに? 爆弾でも出てくるの?
出てきたのは爆弾ではなく、紙の束だった。クリップでまとめられているそれを、ウィリアムはめくる。
「アナベル・レド。二十五歳。身長165cm、豊満な体型、ぱっと見、将来いい母親になりそうなタイプ。両親とは死別。親族は、依存症で施設にはいっている兄と、行方知れずの伯父のみ。兄は二度、傷害事件を起こしている。伯父は三回、傷害で捕まり、二回窃盗で捕まっている」
「ちょっと……」
「君自身は大きな問題は起こしていなかったが、三年前に働いていた会社では州立大卒だといっていた。会社を辞めることで決着をつけたらしいね」
アナベルはぞっとして、目を伏せる。どうして一介のパートの経歴を、こんなにくわしく……?
ウィリアムは紙束をひきだしへ戻し、デスクの上で指を組む。「君がお兄さんのかわりに返している奨学金だが、今日中になんとかしよう。それに、もっとまともな施設に転院させる。学歴詐称をしていたことは心配いらない。エスチュアリーの傘下の会社だ。すでに金で話はつけた」
「待ってください」アナベルは混乱したままいう。「そこまであなたにしてもらう理由がありません」
「勿論、結婚だよ、アナベル」
「あなたならどんなひととだって結婚できるでしょう」
スポーツ選手並みの体に、整った顔立ち、なによりこの王者の風格だ。これで手にはいらない女は居ない。わざわざ家庭に問題のある、捕まらなかっただけで犯罪に手を染めた女を捕まえる必要はない。それとも、突然大きな慈悲心に目覚めて、かわいそうな境遇の女の子を助けるつもりにでもなったのかしら?
次のウィリアムの言葉は、はじめて、アナベルにも理解できるものだった。
「実は、問題があってね。先日父が亡くなった。僕は結婚しないと、社長を辞めなくちゃならない」
アナベルは頷いて、しかし頭を振った。
「だとしても、ほかに適任は居ます」
「僕はこの結婚は、契約結婚にしたい。僕のコントロールできない事柄にするのは望んでいないんだ」
このひとはゲイなのかしら、とアナベルは不審に思った。それで、本当の妻になろうとしないひとを求めている?
ウィリアムは脚を組みかえる。
「財産を食い潰さない妻を、早急に手にいれなくてはならない。今まで付き合ってきた女性、それに人生の大きな過ちを犯して結婚した女性と比べれば、君が欲していた金なんて微々たるものだ。これが契約書だよ」
ウィリアムは一枚の紙を、ぴんとはじくようにしてこちらへ寄越した。アナベルはその紙をキャッチして、目を通す。
「君には月に5000ドル、自由につかえる金を払う。君の働き次第では給料を上げる可能性もあるし、年末にはボーナスも支払うよ。勿論、僕と一緒に出席するパーティで身につけるドレスや、ジュエリー類を用意する金は、必要経費だから別途で支払う。僕と一緒にでかける時間以外は自由に過ごしていいが、パートはすぐに辞めてもらう。社長の妻が居るんじゃ、みんな働きにくいだろうからね。それと、君のお兄さんをもっとまともな施設へ移すという話だけど、契約期間が終了しても僕が彼を世話しよう。悪い条件じゃないだろう。それに、この話にはのったほうがいい。僕はいつだって、君をくびにできるってことを忘れていないかな?」
アナベルは書面の、契約期間というのを見ていた。無期限、ただし双方が合意で離婚が成立すれば終了。要するに、ウィリアムに本当の恋人ができ次第、アナベルはお払い箱になるということだろう。失礼で、ひとをばかにした話だ。だが……今、職を失うことは、避けたい。それに、兄にもっと進んだ治療をうけさせることができるのなら……。
アナベルはきっと、ウィリアムを睨んだ。
「わかりました。契約を結びます、サー。ただし、パートを辞めるのは、わたしの後任が見付かるまでに延期してください。あなたの会社に損失を与えかねませんから」
ウィリアムが満足そうに頷く。アナベルは脚を震わせながら、彼が万年筆を差し出すのを見ていた。




