逃走しよう
メラニーはその後、アナベルの前にはあらわれなかった。だが、ウィリアムには会いに行ったらしい。ニコラが勝ち誇ったような様子で告げてきた。
「ミセス・エスチュアリー、そろそろその称号は、本来の持ち主に返すみたいね」
「ニコラ、なにをいってるの」
ミラが割ってはいっても、ニコラはまるで無視して続ける。
「メラニーみたいに美人で賢くて優しいひとが、不幸になる訳ないわ。あんた、無一文に戻るのよ。偉そうな態度ももうやめておいたほうがいいわ」
「ニコラ」ミラが険しい声を出した。「あんまり騒ぐのなら、わたしにも考えがあります」
「なにかしら?」
ニコラが胸を張って返した。「あんたになにができるのよ、おばあちゃん」
ミラは唖然とし、ニコラは笑いながら定位置に戻った。アナベルはずっと、椅子について、リストと実際の数に差がないかを数えていた。
ウィリアムが戻る前に出て行こう。
アナベルは自分の荷物をまとめていた。あれから幾つもののパーティに出たが、メラニーの代役はもうしたくなかった。明日のクリスマスパーティに出たくない。
ここにはメラニーが居るべきだ。傷付いたメラニー。ウィリアムは責任を果たさないといけない。彼女のおなかに居た小さな命は、ウィリアムの子どもでもあったのだから。
結婚する前の服はすべて捨てられていた。だから、アナベルは、必要最低限の服をバッグに詰め、出て行くつもりだった。わたしがふたりを邪魔してはいけない。絶対に邪魔するべきではない。ウィリアムとはことのところ、まともに喋ってもいないし、わたしに対して怒っているだろう。出ていったら清々するに違いない。
けれど、アナベルは胸の痛みを覚えていた。短い期間だったが、ウィリアムとは一緒に歩いて話をし、よなかにカロリーの高い甘いトーストや冒瀆的なドーナツを食べ、勘違いでなければ少しは親しくなっていた。彼の傷も見てしまった。でも……ここはわたしの居るべきところじゃない。
はっとした。ウィリアムが帰ってきたからだ。ドアの開く音がした。
アナベルはバッグの口を閉じ、衣装部屋を出た。寝室から廊下を伺う。ウィリアムはどこ?
ウィリアムはアナベルに用があるようだった。怒った様子でつかつかと歩いてくる。アナベルはその場に釘付けされたみたいに動けなくなった。
「君は逃げようとしていたみたいだな。泥棒みたいに、バッグに高価なものを詰め込んで?」
ウィリアムの声は尖りに尖っていた。アナベルはバッグを落とし、立ちすくんでいた。ウィリアムの怒りは、アナベルが逃げようとしていたことに対してだけではない。そう思えた。
ウィリアムはアナベルの腕を乱暴に掴むと、そのままベッドへとひきずっていった。アナベルは息をのむ。「ウィリアム……」
「君は僕を拒むくせに、随分、楽しくやっているんだな?」
ウィリアムはアナベルをベッドへのせる。「くそ、くそ、くそ。君が逃げようとしてると聴いた。嘘だったらと思ってたのに!」
彼はアナベルに喋らせなかったし、アナベルは混乱していて言葉が出てこなかった。
体中が痛い気がする。
アナベルは最悪の気分で、毛布にくるまっていた。床に座り、ベッドに凭れるみたいにして、ウィリアムが頭を抱えている。彼は泣いていた。泣いて謝っている。
「すまない。違うんだ。僕は……君を傷付けるつもりはなかった」
「大丈夫よ」
あまりにも悲痛げな声に、アナベルは思わずそういった。「寒いだけだわ」
「もう少しで君を……」
実際のところ、アナベルのケータイが鳴らなかったら、ウィリアムはアナベルを抱いていただろう。彼に理性が残っていてよかった。
アナベルはけれど、服をひき裂かれ、きがえるだけの気力がなく、それで毛布に頼っていた。
ケータイがまた鳴った。アナベルはケータイをとりあげ、操作して、耳にあてる。「ハイ、ヘンリー。ええ。さっきはごめんね。手がはなせなかったの……ええ、元気よ。あなたこそこんな時間まで起きてていいの?」
少しだけ兄と話し、アナベルは通話を切った。ウィリアムが呻く。
「君がいつも楽しそうに話しているのは、お兄さんだったのか」
「ええ」
「何故いってくれなかった?」
「あなたに侮辱されたからよ。わたしが複数の恋人を持っているようにいったでしょう」
単純に、腹がたっていたのだ。だからいわなかった。
ウィリアムがまた、呻く。それからもう一度謝罪して、彼は出て行った。
アナベルはベッドに倒れた。三日くらい眠っていたい気分だ。