前任者の話
本当もなにも、ウィリアムはメラニーについて話したことは一度しかない。求婚の時だ。彼は前の妻を嫌っているように見えた。だから、具体的な話をしないのだろう。
メラニーは涙を拭うと、目を伏せた。「ごめんなさい、とりみだしたわ。少し……つらいことなのよ。でも、遺言の意図はわたしにはわかったわ。ウィリアムのお父さまは、わたし達がやりなおすことを望んでいた。彼がわたしに対して、こんなにかたくなだなんて、思っていなかったのよ。きっと、結婚しろと遺言を書けば、彼がわたしのもとへ戻ると信じていたんだわ」
断定調は気に触ったが、アナベルはじっとしていた。ここで喚いたり、反論するのは、自分のやることではない。実際わたしは、愛情に基づいたプロポーズをされた訳ではないわ。
それが不愉快だったが、アナベルは自分の良心に従うしかなかった。
彼女がどんな話をしようとしているかは知らないが、聴かないという選択肢はないのだろう。逃げようにも、うまい逃げかたはわからない。
「わたし達が離婚した理由はね、流産だったの」
メラニーの言葉に、アナベルは息をのんだ。喘ぐ。
メラニーはハンカチをとりだして、目許におしあてた。
「わたし達は結婚から数年経って、子どもをつくろうと計画してたわ。それで、うまくいったように思えたの。わたしも彼も喜んだわ。でも、子どもは天に召されてしまった……」
アナベルは耳を塞ぎたい気持ちになった。この話にそっくりな話を聴いたことがある。
アナベルの母は、アナベルの下にもうひとり、赤ん坊が居た筈だったといっていた。それが不本意な結果になり、父と母の仲はぎくしゃくして、どちらも居なくなってしまった。母は哀しみから立ち直れなかったし、父は母に向き合えなかった。
ふたりの仲が破綻すると、兄もアナベルも余波をうけた。アナベルは眠れなくなり、よなかになにか食べる癖がついた。だが、それは問題だと自分でもわかっていたから、月に四回くらいにまで抑えるすべを身につけた。
一方の兄は、大丈夫なように見えたのに、大学を卒業した後に問題が特大になってアナベルに襲いかかった。アナベルが裁判で聴いたことが嘘でなければ、兄が咳止めシロップと酒で不安をごまかしはじめたのは、両親の仲がおかしくなりはじめた頃だ。
メラニーは続けている。
「それで、わたしは体調を崩したし、彼に八つ当たりしてしまった。でも彼もわたしを責めたわ。それでもしばらく、ふたりで話し合ったり、色々試したわ。でも、ここからの修復は不可能だと考えて、離婚したの。それからわたしは、一年近くカウンセリングをうけて、ようやくもとの状態に戻った」
それは嘘だ。どれだけカウンセリングをうけようと、なにをしようと、もとの状態になんて戻る訳がない。少なくとも母は戻らなかった。
メラニーは不安そうな顔になった。
「アナベル?」
なれなれしく呼ばないで、と怒鳴りたい気持ちをこらえる。アナベルは思い出したくないつらい記憶を呼び起こされて、呼吸がうまくできなかった。
「ねえ、だから、わたしにウィリアムを返して頂戴。わたしも彼も、本気で別れたい訳じゃなかったの。あれは間違いだった。どちらも疲弊して、心にもない言葉をぶつけあってしまったの。不幸な出来事が原因で、行き違いが起こってしまっただけだったのよ。あなたがミセス・エスチュアリーと呼ばれるのは、大きな間違いだわ」
メラニーはそういって微笑んだ。
アナベルはそれから家に帰るまで、なにをしていたか覚えていない。
パーティがなくてよかったと心底思った。もしパーティがあったら、その場でウィリアムにくってかかっていただろう。あなたは流産して哀しんでいる女性を捨てたの? そんな冷たいひとだったの? と。
アナベルのなかでは、哀しむ母を放って出て行き、その後事故で亡くなった父が、ウィリアムに重なっている。
ウィリアムが戻ってきたのはかなり遅い時間だった。
「遅かったのね」
アナベルは服もかえず、化粧も落とさず、玄関からすぐの廊下に座り込んでいた。ぎょっとした様子のウィリアムを睨みながら立ち上がる。
「アナベル?」
「今日、メラニー・バンクスというひとと会ったわ」
ウィリアムの表情がかわった。目を瞠り、眉がつり上がり、口角が下がる。アナベルは鼻を鳴らす。
「あなた達がどうして別れたのか聴いたわ」
「アナベル、先にいっておくけれど、それは多分、すべて嘘だ」
「嘘? どうして彼女がわたしに嘘を吐くの?」
「僕と復縁したいとかなんとかいわれたんだろう。だがそれは絶対にしない。彼女は僕の……」
「彼女は可哀相なひとだわ。傷付いているひとをあなたは捨てたのよ」
それ以上は言葉が出てこなかった。アナベルは踵を返し、浴室へとびこんだ。ウィリアムが追ってきたが、アナベルは扉に錠をかけて、閉め出した。