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雇われた花嫁  作者: 刀洞 やや
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雇用のお誘い


 落ち着くのよアナベル・レド! ここをのりきればまた平穏な日常が戻ってくるの!

 アナベルは胸のうちで自分にそういいきかせ、ひとつ、大きく深呼吸をした。

 目の前には、誰も座っていないデスクがある。アナベルは今までの人生で一度も座ったことが(いいえ、見たことも)ないような、最高の座り心地の椅子に腰掛け、そのデスクの真向かいで震え上がっていた。今度はなにが問題になったの? わたしの学歴詐称? 兄がまた誰かに怪我をさせた? 伯父が捕まった?

 いや、学歴詐称がばれたのはずっと前の職場でだ。その場はなんとか取り繕い、お涙頂戴の身の上話で訴訟からは逃れた。アナベルは次の職場から、州立大卒だという肩書きをつかわなくなった。兄の奨学金をずっと肩代わりしているのだから、それくらいの嘘なら(しゅ)だってお目こぼししてくださるだろうに、世のなかというのは不公平なものだ。


 アナベルは脚を組みかえる。ふっくらした脚だ。アナベルは身長が低めで、ふっくらした体つきをしている。丸顔の童顔で、やわらかい天然の巻き毛は絵に見る天使のようだ。長いまつげにふちどられた目は、きらきらした琥珀色の瞳で、目を潤ませれば大概のひとはアナベルの窮状を察してくれる。

 アナベルが信用を勝ちとる為に、体つきだとか顔つきだとかは今まで役に立ってきた。誰だって、骨と皮のように痩せた女より、適度に丸みのある、柔らかそうな体をした女を信用するものである。それが無垢な琥珀色の瞳をしているとなれば尚更だ。

 だが、今からその体なり顔なりが役に立つかどうかはわからない。


 アナベルが居るのは、彼女が今現在勤めている、エスチュアリー社の社長室だった。何故、あと二ヶ月と少しだけ倉庫整理のパートをする予定のアナベルがそこに呼びつけられたのか、彼女にはまったくわからないし、思い当たる節もない。

 アナベルは学歴詐称をしたことはあるが、ひとのものをくすねたり、喧嘩をして相手に怪我をさせたり、薬物で前後不覚になったことはない。そういう諸々は、すべて兄か伯父に任せていた。彼らはそういったことのプロフェッショナルといっても差し支えない。それでわたしはその尻拭いのプロってことね。

 小さく頭を振る。恨みっぽいことを考えるのは辞めた筈なのに、このところ不意に、いやな考えが頭をもたげる。兄と伯父が居なければ、わたしがこんなに苦労することもなかったのに、と。


 それは半分正しくて、半分間違っている。ふたりが居なければ、ちっちゃなアナベルは生きていけなかっただろうし、仮に行政が助けてくれていたとしてもなにかしらの困難はあっただろう。

 十三歳の頃、一時期だけ預けられた里親は、里子を十人以上世話していた。いや、世話なんてしていなかったわ。彼女の目的は、里親に支払われる州からのお金。わたし達は毎日、あの家の()()()子どもの世話をして、夜は廊下で、冷たい床に丸まって眠った。女の子は彼女の夫の部屋に呼ばれることがあったけど。兄が迎えに来てくれなかったら、わたしは里親の夫になにをされていたかわからない。


 アナベルはエスチュアリー社をくびになるのだろうとおそれていた。彼女がくびにされそうな要因は、実際のところ山程ある。兄が依存症のリハビリ施設にはいっていて、職員に二回、怪我をさせているというのがばれたのかもしれないし、行方不明の伯父がどこかでトラブルを起こしたのかもしれない。もしくは、彼女自身がかつて吐いていた嘘――――州立大卒――――が、今になって彼女を苦しめているのかもしれなかった。

 だけど、もう十月も終わりなのだ。今、くびになりたくない。十二月いっぱいは働けると思っていたし、アナベルは骨惜しみをしない働きぶりで、上司からそれ以上働けるかもしれないとはげまされていたのだ。

 なにが問題になっているのか知らないけれど、とにかく、わたしには辞める意思はないと示さなくちゃ。兄や伯父のこと、わたしがかつて学歴を詐称していたことは、素直に話して、同情を引くしか――――。


 ノックの音もなく扉が開いた。アナベルは反射的に立ち上がろうとする。「そのままでいい」

 低く、威厳のある声がした。他人に命令することになれている声だ。アナベルはうかせていた腰を下ろし、膝を揃える。脚を組むような、リラックスした気分ではない。

 王さまのような声の主は、アナベルの脇を通って、自分のデスクについた。身長180cm以上の堂々たる体躯に、濃いグレーの瞳、茶色がかった金の髪。すきのない装いは、最高級の仕立てだ。アナベルの年収の十倍くらいで、なんとか、彼の身につけているネクタイを買えるかもしれない。

「ミスタ……」

 アナベルは愛想よく笑おうとしてできなかったし、声も途中で掠れて消えた。濃いグレーの目で、突き刺すように見詰められているからだ。猛禽にくわえられた虫のようなもので、抵抗もなにもできたものではない。

「僕のファーストネームは知らないだろう、アナベル・レド。ウィリアム・エスチュアリーだ。君が勤めている会社の、社長をしてる」

「はい、ミスタ・エスチュアリー……」

 喘ぐような声が出た。アナベルはぎこちなく笑う。ミスタ・エスチュアリーは長い脚を組み、背凭れに身を預ける、値踏みするように見られたのが不快で、アナベルは笑みを消した。彼はどうして、競りに出された牛を見るような目でわたしを見ている訳? たしかに可食部は多いだろうけれど、幾ら社長でも失礼だわ。

 アナベルが気分を害したのは、彼にとってはいいことだったらしい。ウィリアムは微笑んだ。そうすると、まだ二十六歳の若者らしいいとけなさが、ちらりと見える。アナベルは素直そうな微笑みに、意外だと感じるとともに、ほんのわずかだけ心を動かされた。

 ほんの少しだけ。

「ミス・レド、君は僕を困難から救ってくれる、天の御使いだ」

「はい?」

「単刀直入にいう。僕と結婚してほしい」


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