王太子
馬車はその家格を表すように優雅に、滑らかに到着した。扉が開くまで続いていた周囲のざわめきが、ふと静まる。
中から現れたのは銀の髪の麗しい貴公子と、つややかな栗色の髪を結い上げた、淑女であった。
再び始まった人々の声と無遠慮な視線が、体に突き刺さるよう。
シャーロットはぴんと背筋を伸ばし、ゆったりと歩く。
「いいぞ、その調子だ」
耳に届いた低めの声に小さく頷きながら、シャーロットは言うことを聞かない心臓をなんとかおさめようと努力していた。
仕上がったドレスは素晴らしかった。
青を基調とし、腰から下は透けるような薄い布を幾重にも重ねてふわりと膨らむ。裾にいくにつれ徐々に淡く変わっていく色合いに、うっとりした。
肩を控えめに覆うのは青のレース。胸元には布製の深い青の花があしらわれ、そのひとつひとつに朝露のような宝石が飾られている。
試着した際には淑女らしくなく、ぽかんと口を開けてしまったほど。美しく気品がありながらもメリハリがあって、足りないところを補ってくれるようなドレスだと、シャーロットは思った。
もちろん、件の三人と父に加えて、あの日はいつもの調子を引っ込め、食事時以外は静かにしていたマーナも感激した様子だったし、おまけに仕立て屋も大絶賛してくれた。
だが。
シャーロットはキュッと身が引き締まる思いだった。
しっかりしなくては。
自分はもう、ただの子爵家の娘ではないのだ。
「本日は誠におめでとうございます」
テオドールの言葉に続き挨拶をすると、にっこりと笑ったのは金髪に琥珀の瞳を持つ王太子、ジュード。
こうしてきちんと対面するのは初めてである。しかし、その人好きする笑みに妙な既視感があった。
どこかでこの笑顔を見た……?
いや、先日はそのような機会はなかったはず。
「ありがとう。よく来てくれたね」
ジュードはこちらに近づいて、気安げにテオドールの肩に手を乗せた。
「テオドールとは幼い頃からの付き合いなんだ。これからもよろしくね」
気さくな人柄に緊張が緩み、シャーロットは無理なく微笑んだ。
そして口を開こうとしたとき、すっと身をかがめた彼が囁いた言葉は。
「また、会ったね」
「!」
しっかりと被ったはずの淑女の仮面が早々に剥がれ落ちそうなほどの衝撃に、シャーロットは慌てて足にぐっと力を込めた。
まさか。あの時の「友人」とは。ジェイと名乗った黒髪の青年の正体は……
テオドールは無言で、シャーロットの肩を引き寄せた。
「おお怖い」
さっと距離を取ったジュードはというと、全くそうは思っていない顔だ。
「ごめんなさい。きっと驚かせたでしょう」
隣からこっそりと、すまなそうに言ったのは王太子妃でありテオドールの姉、ヘレナだった。彼女は多忙のためまだあまり話したことはないが、穏やかながらしっかりと芯のある女性だと評判だ。
テオドールと同じ銀の髪は編み込まれ、光にきらきらと輝いて美しかった。
返答に困っているうちに、ジュードはパチンと片目をつぶった。
「まあ、今日は楽しんでいってよ」
軽い口調で言った王太子を、ヘレナが何とも言えない目でちらりと見やった。
ショックから立ち直れないままその場から連れて行かれ、気がついたときにはダンスが始まろうとしていた。
離れたところに両親を見つけたシャーロットは、今日は警備についているはずの兄をぼんやりと目で探す。
「さて」
聞こえた声に、我に返った。
「踊っていただけるかな、婚約者殿?」
テオドールは気取った仕草で手を差し出す。
芝居がかったその調子に、シャーロットは肩の力を少し抜いて、微笑んだ。
「喜んで」
二度目の晴れ舞台も、シャーロットの頭は混乱気味である。
幸いなことに、そのおかげで周りの目や声があまり気にならなかったのだったが。
「驚いたかい?」
面白がる様子を隠しもしないテオドール。シャーロットは即座に返す。
「はい、とても。とても驚きました」
「それほど顔には出ていなかったようだが?」
「それは、これでも淑女として恥じないよう訓練しておりますので」
テオドールはうかがうように、顔を覗きこんだ。
「……シャーロット。もしかして怒っているか?」
思わぬ言葉に、シャーロットは目を瞬く。
「いえ……そういうわけでは……ただ、言っておいてくださればよかったのに、とは、思います」
「そうか……まあ、そうだな。すまなかった」
テオドールはバツの悪そうな顔をした。
「正直に言えば、あの日あいつに会ったことは頭から抜けていた」
言葉を飲み込む前に、くるりと回る。
風に揺れる花のように、重なる淡い青がひらりと舞う。
「何せ、その後のことの方が印象深かったからな」
声はからかうような響きを含んでいた。
その後とは、怒られたことを指すのか、あるいは、あの丘での出来事だろうか。それとも。
どちらにしても表情に出てしまいそうなシャーロットは、話題を戻す。
「魔法で、髪色を変えていたのですね?」
「ああ、いつもそうして遊び歩いているんだ。家にもふらっと来る」
公爵家に、ふらっと遊びにやってくる王太子とは。
「……なんだか、楽しそうな方ですね」
「羨ましいくらいだ」
踊りの途中でなければ肩をすくめているだろうその顔に、結局シャーロットは少し笑ってしまった。
混乱が落ち着いてみると、周囲の声が耳に入り始める。
「あの公爵家の……」「あれが例の……」「デビュタントの時の……」
噂話は尽きない。
覚悟していたことだ。今まで表舞台に出てこなかった美貌の貴公子と、しがない子爵家の娘。話題に登るのは当たり前のこと。これくらいのことは受け流せなければならない。
自分はテオドールと共に生きると決めたのだから。
「シャーロット、伝え忘れていたが」
真面目に切り出したかと思うと、彼はすっと顔を近づけ。
「今日は先日の無礼な輩は来ない。安心するといい」
「……そう、でしたか。あの方は……」
言いかけたシャーロットは、テオドールの顔を見て口をつぐんだ。
「あれはしばらく出てこられまい」
口角が上がってさえいるのに、全く笑っているように見えない表情。背筋が寒くなったような心地に、シャーロットはきゅっと縮こまる。
「つまり、だ」
テオドールは表情を緩めてシャーロットを支えると、大きく踏み出す。
「気にすることは何もない。皆がいる。あいつの言う通り、楽しく踊ろうじゃないか。考えごとをして足を踏まれては困るしな」
ニヤリと笑った顔。
相変わらずわかりにくいのだ、この人の優しさは。けれど、心が軽くなる。
シャーロットはできる限り上品に笑って頷くと、彼のステップに負けないように踊り出した。