呼び名
お忍びの日次の金曜日のお話です。
お忍びの日のあとの、初めての金曜日。
朝の見送りに出たシャーロットに、アルバートが言いにくそうな顔で切り出した。
「シャーロット。もう公爵家の婚約者になったのだから、その……そう、安全面を考えても、そろそろ図書館はやめておいたらどうだろうか。その、読みたいものがあったら、購入することもできないことは、ないわけだし……」
シャーロットは目を瞬く。兄には珍しく妙に歯切れが悪いのが気になった。しかし、これだけは譲れない。
「王立図書館は警備体制が整っていますし、中に入れるのは許可を得た者だけですもの。安全です。そうでしょう?」
「……どちらかといえば危険は中の方なんだが」
ボソボソと何ごとかをつぶやく兄に向かって、シャーロットは安心させるように微笑んだ。
「大丈夫です。遠くに行くわけではありませんし、テオドール様もいらっしゃいますもの」
「ああ、まあ、そうだな……」
アルバートはいつも通りシャーロットを軽く抱きしめると出かけていった。その背中がいつもよりしょんぼりして見えたのは、気のせいだろうか。
あの後シャーロットは家族にはどうしても嘘をつけず、正直に話した。テオドールも一緒に。
両親は公爵家嫡男を前に何も言えず、シャーロットが無事ならそれでいいと言ったが、アルバートはそうもいかなかった。
彼はテオドールに対し、今後は必ず行き先を正しく報告するようにと、普段シャーロットには見せない恐ろしい形相で睨みをきかせた。
シャーロットはテオドールのおかげで素敵な時間を過ごせたのに、それに一緒に怒られると約束したのに、テオドールだけが怒られるのが申し訳なかった。今度会ったらきちんと謝らなければ、と心に誓ったのだった。
「ご機嫌よう」
「やあ。よく来られたな」
シャーロットの挨拶に対し、眼鏡姿のテオドールは妙なことを言った。
「よく来られた、とは……?」
「ここへ来るのを止められはしなかったかと」
首をかしげるシャーロット。
「お兄様には、安全のために図書館をやめておいたらどうかとは、言われましたけど……でも、何も危険なことはありませんよね?」
テオドールはふっと口の端を上げた。
「……そうだな。では行こうか」
「? はい」
何かおかしなことがあっただろうか、とシャーロットが考えているうちに、二人は閉架書庫にたどり着いた。
「テオ様」
呼びかけた途端、テオドールは片方の眉を上げて振り返る。
「この前はテオさんと呼んでくれただろう」
「あれは、特別な日だったからで……」
「君と会える日はいつでも特別だ。だから今日も特別仕様で頼む」
流れるように囁かれた台詞に、シャーロットは熱くなる頬を抑えた。テオドールはたまにとんでもないことを口にする。見上げた彼はニヤリと笑った。
「……からかってますよね?」
「至って真面目だが」
少々悔しい思いだったが、気を取り直して口を開いた。
「わかりました。テオさん、この間は、ありがとうございました」
「いや」
首を傾け、優美な笑みを浮かべるテオドール。シャーロットは苦しげに続ける。
「すごく楽しくて、本当に幸せな時間だったのに……テオさんだけ怒られてしまって。ごめんなさい」
俯いてしまったその頬に手を伸ばしかけ、そのまま軽く握ったテオドールは、穏やかに言った。
「気にしていない。元よりそのつもりだった。僕がアルバート殿だったとしても、同じようにするだろうしな。むしろ、ありがたく思っている」
意外な言葉に、シャーロットは顔を上げた。
「立場上、ああして怒ってくれる者は貴重なんだ」
「テオさん……」
つぶやいた彼女の真っ直ぐな視線に、テオドールは目を泳がせ、口元を隠した。
「ああ、いや……怒ってもらえないと歯止めが効かなくなるかも知れないしな……」
「何ですか?」
「いや、何でもない」
今日は、兄もテオドールも独り言が多いようだ。シャーロットはふと、疑問に思っていたことを思い出した。
「あの、テオさん。街に出た日、兄に何を言ったんですか?気になっていたんです」
「アルバート殿に?」
「帰ってすぐ、兄に何か話していましたよね?」
「ああ」
テオドールはくすりと笑った。
「君は揚げ菓子が好きなようだと伝えた。買って帰ると喜ぶだろうと」
悪戯っぽく光る青の瞳に一瞬、目を奪われたシャーロットだったが、あっと声を上げた。
「そうだったんですね! あれから妙に、兄がお土産に甘いものを買ってくるようになって……しかも、揚げ菓子ばかり。お腹にたまりますし、食べきれないこともあるんです」
へにゃりと眉を下げたシャーロット。テオドールは思わずといった様子で吹き出した。
「さすが、アルバート殿だな!」
「……テオさん、笑いごとじゃないんですよ」
シャーロットは頬を膨らませた。
「お菓子は好きですけど、今まで体に悪いからとほとんど食べたことがなかったのに。突然こんなに、食べられません。うれしそうに買ってきてくれるので断り辛いですし……」
「そうか。そこまでとは思わなかった。申し訳ないな」
まだくつくつ笑っているテオドールを見ているうちに、シャーロットもおかしくなって、一緒に笑った。
「テオさん。また、街へ行ってみたいです」
「ああ、行こう。アルバート殿が許せばな。今度は歩き過ぎに気をつける」
「ふふ、はい。私も運動しておきますね。それと……兄とも、行ってみたいなと思います」
ようやく笑いを引っ込めると、テオドールの顔に柔らかい表情が浮かぶ。
「そうだな。しかし――」
しかしすぐにあごに手を当てると、難しい顔をして見せた。
「君が家族想いだということは重々承知しているが、お兄さんへの愛が強すぎないか?婚約者としては少々複雑だ」
シャーロットは戸惑う。本気で言っているのだろうか。兄は兄であって、もちろん大好きではあるが、テオドールへの気持ちとは別のもので。そう、別の……。
「兄のことは愛していますが、テオさんは、婚約者ですし……」
続きをうながすように、青色がきらめいた。綺麗だ、とシャーロットは思う。
「私にとって、テオさんはとても、とても特別な人で。素敵で、優しくて。それから……」
ふんわりと頬を染め、目を潤ませながら、懸命に言葉を紡ぐシャーロット。
テオドールは落ち着かない様子で視線を落とし、意味もなく眼鏡を直した。そして咳払いをひとつ。
「いや、いいんだ、ほんの冗談だ。では僕は表に行くから」
「あ、はい……」
言いながらすたすたと歩き去ってしまったテオドールの後ろ姿を見送り、シャーロットは不思議そうに首をかしげた。
お読みいただきましてありがとうございました。少しでもお楽しみいただけていたらうれしいです。