10話
入口付近で待っていたフェルキスに腕を絡めて肩に頭を寄せると、その頭の上からクスリと声が漏れるのを聞いた。
「どうしたの?疲れてしまったかな?」
一際優しい声が降る。
疲れたと言えば疲れたのだが、抱えてしまった問題をフェルキスに言う訳にはいかなかった。
「はい…」
ホール全体を見れば退出した時のような緊張感は無く、既に各々がダンスや会話で楽しい時間を過ごしているように思う。
ユネスティファやルルネアが後始末をしてくれたのだろう。
「せっかくドレスを着替えたのだから、美しい姿をよく見せて欲しいな」
至極愉快そうに温かな手が頬を撫でる。
フェルキスの手は、どんな時もシュテーリアの心を落ち着ける魔法の手なのだ。
正面に立ち「どう?」と頬を染めれば、フェルキスは翠眼を三日月に変える。
「あぁ、やっぱり僕のシュテーリアは何でも似合うね。普段より大人っぽくて…これでは外に出してあげられないよ」
そう言って腕の中に隠すように柔らかく抱き締める姿は殊更御伽噺の王子様のようだ。
フェルキスの行動に周囲の視線が集まっているのが分かるのだが、如何せん逃げれるものでも無い。
「お兄様、恥ずかしいわ」と小さな抵抗を試みるものの、フェルキスは離そうとはしない。
意を決して顔を上げれば、触れそうな距離に眉尻を下げたフェルキスの顔があった。
「あ、あの!ルル様とユネスティファ様にお礼をしに行かなくてはなりません!」
「あぁ、そうだね。でも、まずはランス殿下のところに連れていってもいいかな?おそらく、ルルネア様とユネスティファ様も一緒におられるだろうし……シュテーリアが戻り次第、連れて来るように仰せつかっていてね」
「うぅ…はい……」
「行こうか」
不満の声を漏らしつつも是と言えば佇まいを正さなくてはならず、シュテーリアは背筋を伸ばしてエスコートされるままに動き出した。
堂々とホールに立つランスの側には婚約者であるユネスティファと哀れんだ表情でシュテーリアに視線を向けるハルニッツとルルネア、そして先程まで一緒にいたセレンディーネがいる。
王族を相手にするというのは、ただでさえ緊張を強いられるのだが、セレンディーネまでいるのだ。
微笑みを絶やさないセレンディーネは口を開く気はないようだが、シュテーリアの心の中は特大の台風が吹き荒んでいる。
「お、戻ったか。シュテーリア嬢」
「はぁ……兄上の戯れに巻き込んですまないな」
「本当に!ランスお兄様は戯れが過ぎるのですわ」
「確かに戯れが過ぎる部分はあるでしょうけどランスの言い分もわかるわ。あの様な小物共如き遇えなくては未来の王や王妃直属の臣下の務めは果たせませんよ」
どうやら兄妹の中でも意見は割れていたらしい。
そして、いつの間にやらシュテーリアはランスもしくはユネスティファの側近として扱われることが決定しているらしい。
ランスの弟妹は、兄を諌めきれず申し訳ないと言った様子だ。
とは言え、あの程度のことはシュテーリアにとっても想定の範囲内である。
「ランス殿下とユネスティファ様に満足いくものは見せれましたでしょうか?」
「えぇ、わたくしは満足致しましたわ。シュテーリア様、貴女にはルル様とわたくしのお側にいて欲しいものだわ」
「重畳。見応えのある催しであった。今後はティファとルルの良き友として側に仕えて欲しい」
「畏まりました。ルルネア王女殿下と未来の皇太子妃ユネスティファ様にお力添えできるよう努めて参ります」
恭しく淑女の礼をとれば、ランスは肩を震わせ、ハルニッツは諦観の笑みを見せていた。
どうやら現実のハルニッツには俺様王子の『お』の字も無いように見えるのだが……これは一体どういう事なのだろうか、とセレンディーネに視線を送る。
だが、セレンディーネは微笑むだけで反応を返すことは無かった。
「ランス殿下、そろそろ閉幕の時も迫って参りましたが如何なさいますか?」
フェルキスが問えばランスは事も無げに頷き、バディウスを視線だけで呼び付け、兄弟を伴って中央階段を登り豪奢な椅子に坐る。
軽く右手を上げれば、即座に静寂が会場を占めた。
「皆、今日の善き日に顔を合わせられたこと嬉しく思う。我らは良き学友となろう。いずれ皆が国を支え、民を導く尊き者になると私は信じている。明日も早い故、社交はここまでとし疲れを取るように。明日もまたこの学び舎にて会おう」
各々が王族に礼をとり、ランス達の退出を待つ。
王族の姿が視認できなくなった後、退出していく者達を見ながらシュテーリアは口を開く。
「セレンディーネ様、招待状をお送りさせて頂きますが宜しいでしょうか?」
「えぇ、是非に。積もる話もございますし次の休日にでも」
「わかりました。では、そのように……」
礼をし退出していくセレンディーネの背中を見送り、フェルキスに向き直る。
「セレンディーネ様と何かあったのかい?」
「はい。我が家のデザイナーが引退しますでしょう?それで、建国祭のドレスはクルソワ家の持つ店子に依頼できないものかと思ったのです。クルソワ家であれば信頼も置けますし」
「なるほど。それは良いね」
「帰宅次第、お父様とお母様に良き伝手を持てたことを報告したいのですが、お兄様もご一緒してくださる?」
「勿論、愛しい君の願いなら。さぁ、初めての社交は疲れただろう?帰ろうか」
フェルキスの手を取り、ゆったりと馬車へと向かった。
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邸に着いた時には既に日が沈んでおり、帰宅するなり両親から呼び出しを受け、フェルキスと共に父の書斎に向かった。
「父上、母上、ただいま戻りました」
「あぁ、おかえり」
「お疲れ様、フェルキス、シュテーリア」
簡単に帰宅の挨拶を終わらせ、レイスに促されるまま2人がけのソファーに座った。
「シュテーリア、初めての社交はどうだった?」
「そうですね……特に想定外のことは無かったかと思いますわ」
一部を除いては…という言葉を喉の奥に飲み込み、後日セレンディーネを邸に迎えたいことを伝えた。
「まぁ!クルソワ伯爵令嬢と親交を深められたのね!それは良いわ!!」
「建国祭のドレスを依頼したいのですが…」
「えぇ、宜しくてよ」
ドレスに関しては承諾を得られると確信していたので良しとするが、シュテーリアにとって重要なのはもう1つの『スイーツ』の方である。
前世…いや、異世界の食文化を現世に取り入れようとしているのだ。
「それと、もう1つ…セレンディーネ様と共にお菓子の開発をしたいと思っているのです」
「お菓子?」
「はい。社交界が盛んであるにも関わらず、イシュツガル王国の飲食物はあまりに発展していないように思うのです」
レイスは興味深げにシュテーリアを眺める。
「ほぅ…続けなさい」
「まずはお菓子から手を付けようかと思いましたの。お菓子であればお茶会ですぐに出せますし、私のような成人前の子供でも流行を作るのは容易いかと。何より飲食物、殊更お菓子に関しては女性の関心が大きい。上手くやればクルソワ家だけではなくエアリステ家にとっても大きな収入源となり得ると思います。特にエアリステ家の保有する領地は広く、漁港も農地も充実していながら銘菓と呼べる物も特産品と呼べる物もありません。ただ、素材の質が高いだけなのです。質が良いのに加工で味を損なうなど勿体ないではありませんか」
「確かに勿体ない気はするね。お菓子か…僕はあまり好んでは食べないんだけど……甘いだけでパサパサしてる物が多いよね」
「そうなの!お兄様!!わたくし、もっと蕩けるようなお菓子が食べたいのですわ!」
「う、うん。そうだね!」
イシュツガル王国のお菓子は本当にパサパサしていて口の中の水分が根こそぎ奪われるか、硬くて顎が鍛えられるか、ただただ甘いだけでお世辞にも美味しいとは言い難いのだ。
料理の不味さも言わずもがな、である。
特に雅としての味覚を引き継いでいるシュテーリアには苦痛でしかない。
おそらくセレンディーネも同じ思いをしているのだろうと思う。
とは言え、セレンディーネの経営するカフェは比較的美味しいと言われているのだが、それでも満足のいくものではないのだろう。
食が合わないまま住み続けるのは苦行なのだ。
出来ることならば、今回のお菓子開発を成功させたあとは、このエアリステ家の厨房改革をしたいとシュテーリアは目論んでいる。
まずはクルソワ家と手を結び、シュテーリアの味覚と料理における手腕を認めさせなければならないのだ。
甘いだけのケーキも、強靭なクッキーも、味のないスープも、もうごめんなのだ。
(舐めるなよ…菜々子の無茶振りを叶え続けた万能型お兄ちゃんに隙は無い!この熱意よ、伝われ!!)
父レイスとの視線での攻防は、ものの数秒……最早チラ見程度でシュテーリアの勝利に終わった。
やはり父も愛娘には弱いようだ。
「それにしても、シュテーリアがこんなに食に熱くなるとは思っていなかったな」
「ねぇ、シュテーリア?僕は君が厨房にいるのを見たことが無いのだけど…作ったりは出来るのかい?」
確かにシュテーリアになってからは人前では数回しか厨房には入っていない。
そう、人前では…だ。
実は何度も忍び込んでは作っているのだ。
何せ味が合わず食が進まないのにお腹は減るのだから自分で作るのが最適解だろう。
家令と侍女長に頼み込み、見逃してもらっているのが現状である。
本来ならば料理長に指示を出して作ってもらえば良いのだろうが、頑固すぎて聞いてくれないのだ。
「お菓子でもお料理でも作れますわ」
「へぇ……じゃあ、セレンディーネ様が来る時に合わせて作ってみたらどうかな?僕も食べてみたいし、ミコルトもシュテーリアの手作りお菓子だなんて喜ぶと思うよ」
「あら、わたくしも食べてみたいわ」
「ふむ、私にも取っておいてくれるかな?」
美味しいお菓子は正義である。
両親と兄の許可を得た今、シュテーリアに立ち塞がるものは居ないのだ。
あの頑固料理長でさえ父の決定には逆らえないのだから……
「はい!では、厨房への出入りを認めてくれますか?」
「いいだろう。怪我だけはしないように」
「はい、お父様」
「では、今日は疲れただろうから、ここまでにしよう。フェルキスは少し残りなさい」
おそらく父とフェルキスの話の内容は、派閥のことだろうと思う。
今後のことを考えればシュテーリアも聞いておくべきなのであろうが、慣れない社交の疲れには勝てなかった。
「お父様、お母様、お兄様、おやすみなさいませ」
「おやすみ、私のレディ。良い夢を」
「おやすみなさい、愛しいリア。穏やかな眠りを」
「おやすみ、僕の愛しい子。夢の中で会おうね」
それぞれとチークキスをして書斎から自室に戻ると途端に体が重くなり、ミリアムに支えて貰った。
入浴が終わったらセレンディーネのことや、今後の展開について考えようと思っていたのだが、徐々に思考が溶けていくのを感じる。
ウトウトしながら入浴を済ませ、マッサージを受けているうちに、いつの間にか夢の世界に旅立ってしまったようだ。