98話
シュテーリアの話から察するに事が起きるまでには相応の時間があるだろうと判断したエルリックはシュテーリアの精神面を安定させることに重きを置く。
エアリステの娘であることより、聖女であることより、王族であることより自身が主に選んだ少女だからこその判断だ。
家庭教師になった当初は指示だったとしても、今では自ら育て選んだ主なのだ。
それが潰れていくことはエルリックにとって許せるものではない。
従者が何人倒れようと屍を越えて毅然と立つ者こそ自身の主に相応しいと常々思っていたし、シュテーリアにはその素養があると思っている。
だからこそエルリックはシュテーリアを時に厳しく時に甘やかすことを選択する。
甘やかすことでシュテーリアが再び人前に立ち、毅然と声を挙げられるならばそれも必要なのだろうと考えただけの話だ。
シュテーリアの隣に移動し、抵抗しないシュテーリアを膝の上で横抱きにする。
「リア、いずれ私が命を落とす日が来るかもしれない。その時には私の魔力を奪い取りなさい。君にはそれが出来るはずだ。私の魔力は私の誇りであり、私の知識を与えた君が毅然と生き抜くことは私の矜恃を守ることと同義であると胸に刻みなさい」
抑揚のない平坦な声で告げられる言葉は感情の籠らないものに聞こえるがエルリックが発したとなれば別だ。
それがシュテーリアを思慮しているからこそだとわかるのは二人が培った関係性があるからだろう。
エルリックはシュテーリアにとって、雅にとって長く身近にいる大人だった。
前世での十八歳までの記憶がフェルキスに甘えることを憚らせ、両親と呼べるレイスとフェリシアは多忙な身であり常にそばに居るとは言い難い。
エアリステ侯爵家の侍従たちとはあくまでも主従関係にあり甘えられるような間柄ではない。
唯一甘えが許される相手を上げるならエルリックだったのだ。
彼は常に家庭教師として、叔父としてそばに居た。
シュテーリアを見守り、育み、露わにすることはなくとも確かに愛情をもって接してきてくれた人物。
無理難題を投げつけてくることもあったがシュテーリアが多少の口答えをしようと我儘を言おうと半ば無言の圧力で諌めて受け流し望むものを与えてくれる大人の男性だった。
レイスからもフェルキスからも過去に少なからずあったシュテーリアが使えるか否かを見定める視線をエルリックから感じたことは一度たりともない。
故にエルリックはシュテーリアが真っ先に信頼した人物だった。
そんな人物が今になって甘えることを許したのだ。
エルリックの胸に擦り寄って甘く撫でる手を緊張もなく受け入れる。
数ヶ月前、フェルキスに甘えることができないと言ってセレンディーネやヴァシュカに相談していたことをエルリック相手には極自然にできているとシュテーリア自身に自覚はない。
仔猫や仔犬を撫で回すような手に頬を寄せては、もっとと強請る。
生クリームに蜂蜜を乗せて更にチョコレートシロップをかけた蕩ける甘さを帯びた春空と竜胆が合わさり、小さく「仕方がないな」と落ち着いた声がした。
張り詰めていた糸がプツリと切れたせいか緩んだ頬を引き締めることもなくエルリックの甘やかしを受け入れていたシュテーリアは、ある大事なことを失念していた。
それはシュテーリアと共にいるのは親族と言えど男性で、男性が室内に居る時は部屋の扉が開かれているということ。
そして、この光景を寛容しない少年が存在するということだ。
もしこの二人の姿を見たのが両親ならば呆れつつも許容しただろう。ミリアムやチェルシュならばエルリックの態度に驚くだけで済んだだろう。
エルテルであれば叔父と姪の微笑ましい光景だと何も言わず立ち去ったかもしれない。
しかし、タイミングとは良い時より悪い時の方が多いものである。
薄ら寒い微笑みに光の消えた翠眼を携えた少年が開かれた扉の前に立っていたのだ。
纏う空気は魔王や悪魔といったものに近いはずなのにエルリックは涼しい顔でそれを受け止めており、そういえばエルリックも魔王やら悪魔と呼ばれる人と同属だったなとシュテーリアが再認識している一方でフェルキスから不穏な空気を纏う視線を受けるエルリックはそれを楽しんでいる節がある。
国の、王族の奴隷とさえ思えていた少年が短期間で随分と人間らしくなったものだと影響を与えたシュテーリアに感心すらした。
国の為を考えるなら次期王にはフェルキスが必要で、そのフェルキスにはシュテーリアが必要なのだろうとエルリックは思う。
「そう睨むな」
シュテーリアを膝から下ろし、フェルキスに歩み寄って肩をポンと叩く。
エルリックにとってはフェルキスも可愛い甥である。例え当人から不服そうな表情を向けられようと、できることなら義務の為に生きるのではなく、人としての幸福も手に入れて欲しいと願って止まない。
「リアに明日はきちんと通学するようにと伝えておきなさい。学院祭の準備は恙無く進んでいるが王女殿下が何やら困っているようだった」
「わかりました」
立ち去るエルリックの背を眺めるフェルキスの表情は相変わらず不満気だった。




