09.
診察室の扉を開けて廊下に出ると、ひんやりとしていて少し肌寒さを感じた。それにしても病院っていうのは不自然なくらいに静かで整然としている。正直、苦手だ。
ナースステーションの時計が目に入る。時刻は午後三時。
あの後、平泉が救急車を呼んでくれた。俺は大丈夫だと言ったのだが、やってきた救急隊員に半ば無理やり、市内でも一番大きなこの総合病院に運ばれてしまったのだ。
待合室の前を通りかかると、長い髪の後姿が目に入った。一目で平泉だと分かった。
平泉は俺に気づくと立ち上がった。
「どう……だった?」
真っ直ぐ俺を見つめてくる平泉に驚いて、すぐに言葉がでなかった。
「……ああ、大丈夫。後頭部打ったけど別に大したことないってさ」
「そう……」
「それよかお前、ほっぺの下、擦りむいてるじゃねえか?」
「あ、ああこれ? こんなの、平気……」
平泉は頬の傷に触れて目を伏せた。何だかモジモジしているような様子に見えるのは気のせいか? 気のせいだよな。だってモジモジする理由が見当たらねえもの。
「運転手はどうだった?」
「重傷みたい。だけど、命にかかわるような怪我ではないって」
「そっか……ま、良かった。居眠り運転だったのか?」
「……分からない」
「そうか……」
「……」
「とにかく俺は大丈夫だから。試合にも影響ねえって先生言ったし。だから心配すんな。って心配なんかしてねえか、ハハ、ハハ、ハハ……」
「………………」
平泉の沈黙が怖いのだが。
鋭い視線がこっちを向いている。思わずひるんでしまった。俺のこと盗撮魔扱いした時と同じ目をしやがる。もしかして、おっぱいのことを根に持ってるのか? あれは完全に不可抗力だろ。裁判になったって勝つ自信はあるが、怒らせる前にさっさと退散した方が良さそうだ。しかし、さっきから俺は金縛り状態に陥っている。恐らく、平泉の無言の圧力が俺を足止めしているのだと思われる。畜生! かなり気まずいぞ、この感じ。
やっぱ、おっぱいか……おっぱいだよなぁ……おっぱいの恨みは恐ろしいよな……
気づいたらBカップの胸を凝視していた。感触が蘇る。あの控えめな弾力。巨乳が「ぼよん」だとしたら「ぽよん」。「ぼ」と「ぽ」の違い。これははっきり言って大きい、はずなのだが……
……悪くなかった。今までDカップ以下は認めていなかったのだが、認識を改めなければならない。
思わず顔全体の筋肉が弛緩しそうになったがこらえる。今は防御態勢に入らねばならない時だ。
「あの……」
来たぁ。来やがったぞ。重心を後ろに移して身構える。こうやって俺は由美莉からの一連の暴言に耐えてきたのだ。打ち寄せる荒波を砕く防波堤のごとく。
さあ、言え。何とでも言え!
と、気合いを入れたのだが、平泉はまた伏し目がちになった。モジモジ? やっぱりこの様子は「モジモジ」と表現すべきではないだろうか? 少なくとも「イライラ」「メラメラ」「オラオラ」の類ではないことは確かだ。
「あ……」
平泉の唇が控えめに動き始めた。
「……りが、とう」
あ? りが? とう? ものすごくぎこちなかったけど、今、平泉が「ありがとう」って言った気がする……いや、確かに言った! もしかして俺に感謝してる?
完全に防御態勢をとっていたため、感情の回路が上手く切り替わらない。何か答えなければと思うのだが、棒立ちになってしまった。
「直人ぉ!」
由美莉が正面玄関の方から走ってきた。
Bカップの次はGカップ。由美莉のゆっさゆっさ上下に揺れる胸を見ながら思った。「病院内では走らないでください」と受付の横の掲示板に張り紙がしてあるが、巨乳に限っては例外を認めた方がいい。むしろ巨乳は病院内では積極的に走るべきだ。目の保養ってのがどれだけ病人の心の支えになることか。
「平気? 大丈夫? 大丈夫なの? 大丈夫なんだね。はぁー、良かったぁ。もうメチャクチャ心配したんだから」
由美莉は走ってきた勢いそのままに一気にまくしたてた。
「俺、まだ何も言ってねえけど」
「顔見れば分かるもん。明後日の試合も出られるんだよね? ヨシッ!」
「医者からは」
「監督に電話しなきゃ」由美莉は自分勝手に会話を打ち切り、携帯を取り出した。
俺の話を少しは聞こうとしやがれ!
「あ、もしもし監督? 死んでないみたいです」
おいおい……。
「病院内での通話はご遠慮いただけますか?」
通りかかった看護婦さんに注意された。
「す、すみませーん」
由美莉は電話しながら正面玄関に走って行った。
その途中で別の看護婦さんに「走らないでください」と注意されてやがる。バカ丸出しだ。でも、電話はともかく走るのは許してやってくれ、看護婦さん!
ふと平泉を見たら、くすくす笑っていた。いつもはターミネーターみたいに無表情なのに、今日はいろんな顔を見せる。
コイツ、本当は結構いいヤツかも。
とか思ってたら、俺の視線に気づいて平泉は無理やり笑顔をかき消した。
しかし、もう遅いぞ。デフォルトの能面に戻るのに三秒はかかってたしな。お前が意外と普通の女の子だってことを俺は見抜いてしまったわ。
「それじゃ」
「あ、ああ」
平泉は正面玄関とは反対方向に体を向けた。
「あれ? 帰るんじゃねえの?」
「お父さんが入院しているの、ここに」
忘れていた。そもそも平泉が早退した理由は父親が倒れたことだった。
「親父さんは大丈夫なのか?」
「ええ」
平泉はデフォルトの顔を崩すことなくそう言うと、長い廊下を歩いて行った。
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