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08.

 十二時五十五分。


 昼休みの終わりまであと五分だ。俺は教室に戻って井伏や坂口と馬鹿話をしながらチラチラ平泉の席を窺っていた。平泉の姿はない。まだ中庭にいるのだろうか?


 十二時五十八分。


 戻ってこない。ざわざわと胸騒ぎが始まるのが分かった。


 十三時〇〇分。


 ついに始業のベルが鳴る。どうしたんだ? サボりか? いや、平泉はそういうキャラじゃない。基本、優等生過ぎるほどの優等生だ。


「平泉が戻ってないけど、どうかしたのか?」隣の女子に聞いてみた。


「知るわけないじゃん」にべもなく答えられてしまった。


そりゃそうか。一部の隠れファンがいるとは言え、平泉はクラス内では空気のような存在だ。いてもいなくても何一つ変わらないし、誰も気にかけちゃいない。俺だってこんなことがなければ同じだ。


 ガラガラと戸が開き、世界史の教師が教室に入ってきた。散らばっていたクラスメートたちが慌てて席に着く。


「きりーつ、れえ、ちゃくせーき」


 やる気のない号令係の女の眠そうな声が聞こえる。半分くらいが礼なんてしない。一応のケジメというか区切りなんだろうが、こんなことなら号令などやらない方がマシだといつも思う。全く意味もなければ目的もない空虚な儀式だ。


 俺はここでこんなことをしていていいのか?


「じゃ、四十六ページを開い……どうしたんだ? 志賀」


 一人だけ立ったまま着席しない俺に向かってひょろりと背の高い中年教師が言った。


「……先生、平泉は?」


「平泉? ああ、お父さんが倒れたみたいでな、早退したそうだが……」


 ……………………あれ?


 気づいたら俺は教室を飛び出していた。無人の廊下を突き抜け。三段とばしで階段を駆け降りる。


 俺は何てバカ野郎なんだ! 平泉が早退する可能性など微塵も考えなかった。


 昼休みに伝えておけばよかった!


 チャンスは十分にあったのに!


 しかし、俺は平泉にどう説明していいか分からなかったし、何より話しかけるのが怖かった。


 あんなことがあったから? いや、それだけじゃない。今まで積み上げてきた何かが音を立てて崩れそうな予感がしたのだ。あの映画の主人公のように。


 そんな分厚かったはずの心の壁を、俺は今、無意識にぶち破ってしまった。


 不思議だ。自分でも訳がわからない。


 玄関までやってきた。平泉の姿はない。慌てて平泉の靴箱を確認する。上履きがあった。つまり、もう校舎内にはいないということだ。


――間に合ってくれ!


 俺は上履きのまま駆け出して行った。誰もいないグランドを抜け、校門をくぐる。そこからは駅まで一本道。アスファルトの硬さが薄っぺらな靴底を通して足に伝わる。行く手に平泉の姿は確認できない。


 体がどんどん重くなってきている。全力疾走にも限界がきているのを感じた。もつれそうになる足で、無様に振り回す腕で、体を少しでも早く前に運べるよう必死にもがく。


 ようやくカーブが見えてきた。あそこを曲がればビジョンを見た場所だ。


 急に怖くなった。頭の中で、暴走するトラックが平泉の細い体に襲いかかった。そして、血の海……。


 イヤな想像を振り払い、俺は叫んだ。


「平泉ぃー!」


 届け! 


「平泉ぃいいいい!」


 届いてくれ!


 ベースランニングの要領で、速度を落とすことなくカーブを曲がり切った。


「!」


 長い髪が風になびくのが視界に入る。間違いない。あれは平泉だ!

 俺は腹の底から絞り出すように叫んだ。


「ひ、ひらいずみぃー」


 平泉が振り返る。


 その後ろからトラックが走ってきた。


 平泉はそれに気づく様子がない。俺の姿を見て驚いている。


 トラックが勢いよく歩道に乗り上げた。


 今にも平泉の体を飲み込もうとしている。 


 俺は最後の力を振り絞って、地面を蹴り上げる左足に力を込めた。


 俺の体が宙を舞う。


 そして、平泉に飛びついた。


 絡まりあった体が地面に叩きつけられて転がる。


 もう自分の体がどうなっているのか分からない。


 とにかく平泉の体を離しちゃダメだ!


 ガッシャーン!

 後ろで轟音が鳴り響いた――


 どうやら助かったみたいだ。それにしても目の前が真っ暗……


 あれ? なんだこの柔らかい感触……


 ちょっと息苦しいけど、圧迫感が心地いい……ってこれはもしや……


――おっぱい?


 平泉は俺の上に覆いかぶさっていた。


 俺にしがみついたまま、華奢な体が小さく震えている。


「な、なあ、ふぃらいずみ」


「……」


「だ、だひじょうふか」


 推定Bカップとは言えど、顔を圧迫されるとしゃべりにくいものだ。


「うん……」


「わ、わるいけど、い、いきがくるひくて」


「は!」


 平泉は慌てて体を起こした。


 平泉の体が退いて視界が開けると、見るも無残な光景が目に飛び込んできた。


 ガードレールに激突したトラック、そのフロント部分はグシャグシャ。


――運転手は無事だろうか?


 その疑問は自分で解決するまでもなかった。


 平泉が運転席に走って行ったのだ。臆することなく運転手に声を掛け、安否を確認している。


 俺もこうしてはいられない。


 身を起こそうとした時、後頭部に激痛が走った。

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