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37.

 一回裏。マウンドに立つのはもちろん与謝野だ。


 1アウトからフォアボールでランナーを背負ったが、ダブルプレーで切り抜けた。与謝野はまずまずの立ち上がりといっていいだろう。


 二回、三回と両チーム無得点のまま四回表をむかえた。


 この回は与謝野からの打順だ。森は初回の一失点だけで、その後はパーフェクトに抑えている。冷静さも完全に取り戻していた。さすがに全国区のピッチャーだけのことはある。


 与謝野は森のストレートに振り遅れ、空振り三振。バッターボックスへと向かう俺とすれ違う時、こう言った。


「すまない。今日は俺、打てそうな気がしない」


 嫌な予感がした。1ー0でリードしているにもかかわらず、与謝野は追い詰められている。


 去年の準決勝を思い出す。あの時は7回が終わるまで6ー0で勝っていた。与謝野のピッチングのできからすると楽勝ムードと言ってよかった。


 8回裏、急に与謝野はコントロールを乱した。連続フォアボールでノーアウト満塁。タイムをとって内野全員がマウンドに集まった。ベンチから監督の伝令を補欠が運んできた。


 監督もチームメイトも意見は同じだった。「点差はある。満塁ホームラン打たれたっていいんだ」


「そうだよな」と与謝野は笑った。


 しかし、その直後、本当に満塁ホームランを打たれると、ダムが決壊するように与謝野は乱れた。連続ヒット、タイムリー、ワイルドピッチ……あっという間に8点を失った。


 九回に一点を返したものの、俺たちは8ー7で敗れた。最後のバッターは与謝野だった。


 与謝野はその悪夢のような試合のことを話したがらなかったし、チームメイトも触れることはなかった。


 しかし、与謝野は一度だけ俺にこう言ったことがある。


――俺にはスイッチがあるんだ。


 それは春先のことだった。練習が終わり、グランドの照明が消えた後もバットを振り続ける与謝野をバックネット裏で見つけた。


「お前、ちょっとやり過ぎじゃねえか? 逆に体壊すぞ」


 俺は後輩に借りたエロDVDのジャケットを見ながら言ったら与謝野はそう答えた。


 俺は一瞬ドキっとした。与謝野も俺と同じ能力を持っているのかと思ったのだ。しかし、与謝野は続けた。


「ほんのちょっとしたことなんだ。ほんのちょっとしたことで、俺は急に不安になる。そのスイッチが入るともう俺は自分で自分をコントロールできなくなる。去年のあの試合の時、ベンチで先輩たちが話しているのを聞いた。『俺たち、マジで甲子園行けるかもしれねえな』ってな。先輩たちがすごくいい顔してて……それを見ていたら急に手が震え始めた。足元がフワフワして、自分で歩いているのかも分からなくなって、マウンドに向かった。そして、あのザマだ」


「与謝野は責任感強すぎなんだよ。もうちょっと俺みてーにテキトーにやれよ。十分、実力あんだからよ」


「羨ましいよ、直人。お前は……」


 その後の言葉は聞かなかった。というよりは聞きたくなかった。



 ボールはバックスクリーンにぶち当った。会心の当たりだ。三球続いたカーブを俺は思いっきり叩いた。


 前の打席で打たれたカーブで意地でも勝負してくるところが森らしい。


 今度はイメージ通りのスイング、そして感触。球場全体が湧き上がり、360度から怒涛のように押し寄せてくる歓声、グランドが揺れているような気さえする。これほどの歓声を浴びるのは初めてだ。


 なのに。

 どうして。

 こんなに静かなんだ?


 一塁ベースを蹴ると歓声はどんどん遠くなり、土を蹴るスパイクの音しか聞こえなくなった。


 両手にはまだホームランの感触が残っている。俺はそれを消し去りたい衝動に駆られた。しかし、それは体中にまとわりついてきて、俺は息苦しくなった。


 平泉の顔が不意に浮かんだ。俺をじっと見ている。俺は目を背けたいのに、なぜだか体がいうことをきかない。


 気がつくと、ベンチの中で手荒い祝福を受けていた。みんなの笑顔が俺の体の真ん中あたりに突き刺さってきた。


 急に吐き気が襲ってきた。俺は、チームメイトたちの腕を振りほどき、ベンチ裏に這うようにして出て行った。コンクリートの壁に挟まれた薄暗い廊下を行き、トイレに駆け込んだ。


 洗面台の前で首を垂れると、胃液が出てきた。口の中に不快な酸味が広がる。


 俺はどうしてしまったんだ?


 鏡の中に青白い顔をした俺がいる。


 理由は分かっていた。でも、認めたくない。そして認めるわけにはいかないのだ。


 今、俺がそうしてしまったら試合はどうなる? もう後戻りはできない……そう、初めてチカラを使って打席に立った五年前から。


 今頃、善人ぶってどうなる? 俺はいつか地獄に落ちるさ。


 一瞬、鏡の中の自分が二重にダブって見えた。立ちくらみかと思ったが、違った。


『志賀くん……』


 一瞬、平泉の声が聞こえたような気がした。この期に及んで、平泉に救いを求めているのか? 俺は。同じような境遇でも、あいつは俺とは決定的に違う。


 アイツがもし、俺と同じ立場だったらどうするだろうか? 細かいことはわからんが、アイツのことだ。見栄や自尊心や損得勘定なんか、吹っ飛ばして、自分以外の誰かのためにチカラを役立てるだろう。


 平泉の、悲しそうな、諦めたような、それでいて突き刺さってくるようなほど鋭く曇りのない瞳。病院の廊下で、アイツは俺をまっすぐ見つめた。


 傷ついた心をしまいこみながら、いや、体からもぎとって置き去りにしながら。


 俺はなぜか、ずっと前に午後のロードショーで見た、やたら熱いスポコンもののような戦争映画を思い出した。


 主人公は戦友の死に絶望しながらも奮い立って、狂人のように機関銃をぶっ放し、やがて敵の一斉射撃でハチの巣にされてくたばった。


 俺は、平泉も心の中であんな風にボロボロになりながら戦ってるんじゃないかと思った。たった一人で。


 強いな、お前は。


『強くなんかないかな……』


 頭の中に、聞き覚えのある声が響いた。

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