34.
消灯の時間を過ぎた病院のエントランスには誰もいなかった。
ほんの少しだけ、平泉がいるのではという期待があったことは認める。しかし、いたらいたでどうだというのだ。
玄関の自動ドアは閉まっていたので、その横の通用口を抜けて外に出た。
「ミッションは成功しましたの?」
声のする方を見ると赤い軽自動車のボンネットに姉貴が腰かけていた。
「やっぱり、尾行してたか」
「それは、だって心配ですもの」
「戻ったよ、ビジョン」
「やったーですの! よくがんばったですの! でかした直人くん! それでは、さっそく祝宴に」
「明日は試合だっつーの」
「直人くんは何故に、そんな仏頂面をしてやがるんですの? 嬉しくないんですの?」
「そりゃ、うれしいに決まってるよ。ハハ、明日はメッチャ打ちまくって新聞にデカデカとのってやるよ」
カラ元気を出してみた。
「カラ元気はやめるんですの」
カラ元気は即座に見破られた。
「あの娘さんに嫌われちまったんですの?」
「ま、そんなとこ。傷つけた……」
「それはミッションの性質上、仕方ありませんの。007をご覧なさいの。スパイの世界では日常茶飯事、男心も女心も散弾銃でぶっ放されて粉々に砕け散るものですの」
「俺はスパイじゃない。それに平泉は……」
「何ですの?」
「何でもないよ」
その後、姉貴の車で家まで送ってもらった。国道を走る間、月明かりに照らされた海が見えた。
俺はずっと平泉のことを考えていた。
しかし、俺たちにはもう接点は何もなかった。
翌日は快晴だった。
頭上で容赦なく照りつける日光、歩いているだけでTシャツが絞れそうだ。うだるような暑さとはこういうことを言うのだろう。
校門の前にはすでにバスが到着していた。由美莉が笑顔でドライバーに挨拶をしている。相変わらず外面だけはいい。その後ろでは部員たちが荷物を積み込んでいた。
与謝野の姿もあった。目が「お前、今日は打つんだろうな。打たねえとぶっ殺す」と語っている。
俺は与謝野に向かってグーを出し、与謝野もグーでコツンと拳を合わせた。
今日は大丈夫だ――
球場までは海沿いの国道を走っていく。所要時間およそ五十分。バスの中はいつものように騒がしい。が、その奥底にいつもとは違う緊張感が流れているのを感じる。
ふと横を見ると与謝野が自分の掌をずっと見つめていた。
「いよいよだな、直人」
「俺、今日は本気出すからな」
「今までは本気じゃなかったのか?」
「今までは……えーとアレだ、本当の本気じゃなかったってことだ」
「じゃ今日は本当の本気なのか?」
「そうだ」
「ハハ、今日は大丈夫そうだな。実を言うとお前のこと、心配してたんだが」
「余計なお世話だ」
ふと与謝野の手のひらが目に入った。血マメが潰れまくってボロボロの手。
体格に恵まれ、才能に恵まれ、そしてルックスにも恵まれている与謝野。そして、努力の天才でもある。こいつほど練習する人間を俺は見たことがない。与謝野は正真正銘のヒーローだ。
「人の心配してる余裕はないんだがな」
与謝野の拳は小刻みに震えていた。
「朝からずっとこうだ。震えが止まらない」
「与謝野……」
「ハハ、こんなことじゃバッターボックスでチビりそうだな。後攻めだから先にマウンドでやっちゃうかもな」
「オムツ仕込んどけよ」と俺が言うと
「さっき、仕込んだよ」と間髪をいれず返ってきた。
「ハハ、お前もついに介護モノに目覚めたか」
「またAVの話かよ。好きだな~お前」
「言っとくけどな、与謝野。『おじいちゃん、オムツ替えたら超ビンビン』シリーズは最高だぞ。特にボリューム2。ギネス記録を持つ世界最高齢AV男優・徳川カラシニコフさんの演技が真に迫ってるんだよ~。ああいうボケたじいちゃんリアルにいるぜぇ。しかもプレイは後ろから前からめっちゃハードでさぁ。徳川さん、今年八十歳だってんだよ。マジヤバくねえか?」
「バカかお前! 介護モノに興奮する高校生なんてお前以外に誰がいるよ! やっぱコスプレだろ? 服着たままってのがすげえ興奮すんだよぉ。ビミョ~に破ったりするのもいい。やっぱり最高だ、『コスプレ十番勝負・コスってハニー』。特に3本目な」
「さすがだな~アツいわ~与謝野ちん。そういうお前の常軌を逸した性癖を、ファンの女子に漏らしたら爆音で悲鳴があがるだろうなぁ、阿鼻叫喚の地獄絵図ってやつだ、イヒヒ」
「やめろ! お前はすでに変態超人で通ってるからいいだろうけど、俺は……」
「クールでカッコよくて絵に描いたようなさわやか高校球児、だもんな。とんでもねえスキャンダルでぶっちぎりのイメージダウンが楽しみ……いや、ちょっと待て……逆にお前の周りに淫乱コスプレ女子が群がるかもしんねえな。女子も結構そういうの好きなヤツ多いって聞くぜぇ」
「なんだと! ……ま、それも悪くないかもな、うん」
「俺にもおこぼれ寄こせよ」
「OK。お前の好きな五十路の熟女コスプレイヤーがいたらな。介護プレイもバッチリだぞ、きっと」
「すまん、せめて四十路にしてくれ。母ちゃんより年上はさすがに無理だわ」
二人で笑った。バカみたいに大笑いした。
それから俺たちは一言も口を聞かず、ガタガタ揺れる下手くそな運転のバスに身を任せた。




