28.
放課後。
部室のドアを開けると、一斉に俺の方に視線が集まった。これがイヤだからタイミングをずらしたのに、何でまだ着替えてやがるんだ。
重い空気をかき分けて自分のロッカーへと向かう。いつもなら、あいさつ代わりの下ネタをぶちかますところだが。
空気の読めないバカな後輩が「志賀先輩、何か最近元気ないっすね」と言って場を凍りつかせた。
俺は「そんなことねえだろ、今日も家帰って五発は抜くぜ」と答えたら、一瞬の沈黙のあと、無理につくった笑いが返ってきた。
普段の俺を演じたつもりだが、普段の俺でないことは完全にバレていた。
いたたまれなくなって、ソッコーで着替えて一番に外に出た。
と、そこに由美莉がいた。
「洗濯物出して。たまってるでしょ」
「ああ」
俺は、バッグの中からユニフォームやらタオルやらが詰まったナイロンのケースを取り出し、由美莉に渡した。
「これも頼む」
与謝野が横から顔を出した。
「オッケー」
「いつも悪いな」
「おおっと。ヨサっちポイント高いね~。だから女子からモテるんだよね~」
「イヤミか?」
「ツッコミはやっ! ちゃんと『どこかの誰かさんと違って~』を言うの待つのが基本でしょう」
「そんなひねりのねえテンプレ使うなよ、恥ずかしい」
「じゃ、言い直します。心して聞くんだぞ、志賀直人くん。部室でスマホのエッチなサイト見て『やべえ、俺アラフォー全然イケるわ。誰か可愛い母ちゃんいるヤツ紹介してくれ』って後輩に命令した人と違って~」
「……誰に聞いた?」
「私、情報源の秘匿を守る主義なので」
「梶井だろ! あのおしゃべりクソ一年がー」
と、叫んだらその梶井が安全圏を確保した位置から
「志賀センパーイ。元気出たじゃないすかー」
相変わらず卑怯なヤツだ。スポーツマンシップのカケラもない。
「うっせー、後でシバキ倒す!」
「バーカバーカ、ざまーみろー。アハハ……」
と、笑っていた由美莉だったが
「やっぱ由美莉先輩の巨乳パワーはすごいっすね~」
と、調子に乗った梶井の言葉に
「うっせー、今からシバキ倒す!」
と、逃げる梶井をデカ乳を揺らしながら追いかけて行った。
梶井はあっさりと囚われの身となり、地べたを這いずり回りながらサッカーボールキックをくらっている。
そんな由美莉を見ていると少しだけ救われた気がした。
「アイツ、サッカー部のマネージャーやった方がいいんじゃねえか、ハハ……」
× × ×
トンネル、暴投、連係ミス。
守備練習でも凡ミスを連発した。バッティングの方は言わずもがなだ。グラウンドに立っても地に足がつかず、フワフワした気分。最悪を通り越して無残の極みに達していた。
ペナルティの腕立て百回を終わらせ、部室の裏へと向かった。とにかく一人になりたかった。
グランドを囲む木々がそこだけ途絶えていて、海が見える場所がある。そこは普段、誰も寄り付かず、結構お気に入りの場所だったのだが……先客がいた。
由美莉がひとり黄金色に染まった海を見て突っ立っていた。
近づいても全く俺の存在に気づく様子がない。どこか思いつめたような顔をしている。こんな顔をしている由美莉を見るのはいつ以来だろうか?
「おう」
「ぎゃー!」
由美莉は腰を抜かすほど驚きやがった。どんだけぼーっとしてたんだよ。
「俺だよ」
「……なんだ、直人かぁ。私、殺されるかと思ったよ」
「誰にだよ」
「幽霊とかシリアルキラーとかクリーチャーとか」
「お前、ホラー映画の見過ぎだろ」
「……まぁ、見るのは割と好きなんだけど、ホンモノはね、ちょっと」
「ま、この辺りは都市伝説の固まりみたいなもんだからな」
「わぁ~、見てよ、鳥肌立っちゃった」
由美莉は俺に腕を見せた。たしかに鳥肌が立っていた。しかし、そんなことより連日、俺たちと一緒に炎天下の太陽にさらされているにも関わらず白く透き通ったような肌が俺の気を引いた。
「ブツブツ見せんなよ、気持ちわりい」
「女の子に対して言う台詞じゃないだろぉ! 変態のくせに!」
一見、俺たちの会話のやりとりはいつも通りだ。テンポがいいだけでオチのない漫才みたいな掛け合い。
しかし……
俺は由美莉の表情に一瞬、陰が差したのを見逃さなかった。
「なぁ、由美莉」
「なによ?」
由美莉はムクれたように口をとがらせて言った。
「何かあったのか?」
「は? 何かってなに?」
「知らねえけど、ほら……結構長い付き合いだし、ちょっとそんな気がしてさ」
「アハハ、なにその言い方ぁ。長年連れ添った夫婦じゃないんだから」
「そりゃ、俺たちは夫婦でも何でもねえし、お前の性感帯も知らねえけどさ」
「さりげなく下ネタぶっ込むな」
「でも、お前何かあっただろ?」
「直人の方こそ、何かあったんじゃないの?」
「あったよ、いろいろ……」
本当は今こそウソをつくべき時だと思う。それは俺の定義では許されるウソだ。しかし今、俺は由美莉に対して正直でいたかった。心底、俺は自分勝手だ。
「話してくれないんだ?」
「うん、今は話せない」
「ハハ、何なんだろうね、この煮え切らない感じ……ホント、変だわ」
「でも、約束は忘れてねえから」
「……そりゃそうでしょう。忘れられたら困るよ」
「死ぬ気でやるよ。そうしねえとお前に殺されるからな」
「ひどい言い方」
「そうか?」
「……もしかしてプレッシャーになってる?」
「当然。でもそれがあるから頑張れる」
「……そっか」
中学のころ、俺は由美莉と約束した。由美莉の兄貴が死んでから、すぐ後のことだ。
由美莉の兄貴は透谷高校野球部の先輩で当時は高校二年、サードのレギュラーだった。
「甲子園ってすげえとこなんだぞ」
それが兄貴の口癖だったそうだ。そして、彼は甲子園を“夢”ではなく“目標”と言えるだけのプレーヤーだった。
由美莉は兄貴と一緒に甲子園という大舞台を追いかけた。かっこいい兄貴、優しい兄貴、由美莉は兄貴の自慢ばかりしていた。ブラコンってやつだ。それも重症と言えるほどの。
そんな兄貴が練習中に倒れ、そのままあっけなく逝ってしまった。詳しいことは分からないが、元々、心臓が弱かったそうだ。
由美莉はしばらく学校に来なかった。一週間が経ったころ、俺は由美莉の家を訪ね、こう言った。
「俺が兄貴の代わりになる」
気休めで言ったわけじゃなかった。勢いに任せて発した言葉でもなかった。
仮面をつけたように無表情だった由美莉の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
俺は決めた。どんなことをしてでも由美莉を甲子園に連れて行くと。
次の日、俺は初めてバッターボックスでビジョンを使った。それまで一度として野球をプレーする中で能力に頼ったことはなかった。
子供心にも分かっていたのだ。ビジョンを使うと後には戻れないことを、何よりも好きな野球が別のものに変わることを。しかし、後悔はしていない。
そうだ。結論はすでに出ている。今更、何をウジウジしている。ウソなどもう星屑ほどもまき散らしている。
鬼になれ!
鬼になるんだ!
「どうしたの? 何か怖いんだけど」
心配そうに見つめる由美莉の肩の向こうで、夕陽が沈もうとしていた。
黄金色に染まった由美莉のショートカット。緩やかな風になびく毛先の一本一本がまるでシルクのように柔らかく輝いた。そして、その大きな瞳は俺だけに向けられていた。
「……」
鬼になれ!
鬼になるんだ!
「ねえってば」
「な、なんでもない。ちょっと用事思い出した。また後でな」
「え、うん……」
俺は由美莉に背を向け、全力で走った。長い自分の影が俺を先導しているようだった。
部室に駆け込む。練習中だから当然、誰もいない。勢いそのままに自分のカバンの中から携帯を取り出す。少しでも立ち止まったら決心が揺らぎそうだった。
「もしもし」
「あら直人君、御機嫌ようですの」
「姉貴、透谷の制服まだ持ってる?」
「もう捨ててしまいましたの。ビリビリに破れちまいましたから」
「何でビリビリに破れたかは聞かねえけど、友達とかに借りたりできねえかな?」
「そんなのお安い御用ですの。あてはいくらでもありますの」
「そっか。じゃ、頼めるかな?」
「で、直人君。誰が着るんですの?」




