23.
八百屋から出てきた平泉が視界の端に映った。
振り返るとおっさんの自転車は無灯火のまま、かなりのスピードで走ってきた。ここから追尾ミサイルのように平泉を狙ってくるはずだ。
目標地点は道路の真ん中にあるマンホール。
平泉が道路を渡り始めた。俺には気づいていない様子だ。
この時間、ほとんど車の往来はない。
おっさんの自転車が近付いてくるのが分かった。タイヤが石畳の道の上を転がる音がだんだんと大きくなる。
俺は平泉との距離をはかってスピードを上げた。
これで間に合うはず……
と、平泉が俺に気づいた!
平泉は驚きの表情を浮かべ、急にマンホールの二メートルほど手前で立ち止まった。
おっさんはそれに反応し、急ハンドルをきる。
まずい!
その距離では俺は間に合わない!
おっさんは俺のことは目に入っていないようだ。
ただ、姉貴に言われた通り平泉めがけて突っ込んでいく。
「危ない!」
俺は声を張り上げた。
おっさんの首がぐるりと回って俺と目が合った。
おっさんは、ようやく俺が間に合わないことを察したらしい、再びハンドルをきって平泉との衝突を回避……したが、そのままの勢いで街灯にぶつかった。
ガッシャーン!
おっさんの巨体が宙を舞い、精肉店の店先まで吹っ飛んだ。
「ぎぃやあああああ!」
シャッターを閉めようとしていたおばさんが、悲鳴を上げる。
俺は、平泉の前で立ち止まった。
「平泉……」
「……」
平泉は唖然としたまま固まっている。
とにかくこの状況を説明しなくては。
しかし、言葉が出てこない。
おっさんがヨロヨロしながら立ち上がった。
精肉店のおばさん、そして八百屋のおじさんが、心配して芥川のおっさんの元に駆け寄る。
おっさんは額が割れて流血。コーナーポストに頭をぶつけられたプロレスラーみたいだ。
背後でエンジンをかける音がした。
プランB発動。
姉貴が赤の軽自動車を発車させた。
「逃げるんだ!」
俺は咄嗟に平泉の腕を掴んだ。
「どういうこと? 説明して!」
振りほどこうとする平泉を力で押さえつけた。
「いいから!」
八百屋の脇に細い路地があった。人ひとりがやっと通れるくらいの幅だ。
俺は平泉の腕を強引に引っ張って路地へと駆け込んだ。一旦走り始めると平泉は抵抗することなく、体を預けるように俺に従った。
商店街から路地を一歩入ると、そこは昔ながらの漁師町だ。古い瓦屋根の家が所狭しと並んでいる。
窓から洩れる明かりを頼りに、舗装されていない凸凹の道をひた走る。
二人の足音が路地に反響して妙に大袈裟に響いた。後ろからはドスドスとサンドバックをえぐる重いパンチのような音が聞こえてくる。
ほぼ百パーセント、芥川のおっさんだ。足音は巨体を連想させるし、姉貴は走るのが嫌いだ。
無造作に置かれている漁で使う網や浮きのようなものを避けつつ、迷路と化した路地裏をあてもなく進んだ。
のんびり寝そべっていた野良猫が俺たちに驚いて逃げて行く。何度か角を曲がった。もはや方向感覚もなくなってきた。
この先はどこへつながっているのやら……
やがて、行く手に煌々と光る大きな街灯が見えた。磯の香りがだんだんと強くなる。
――海だ。
一気に駆け抜けると、だだっ広い港の駐車場に出た。その先には肩を寄せ合うようにして、ぎっしりと漁船が並んでいる。
あそこなら身を隠せる!
と、思った瞬間、強烈な力で腕を引っ張られた。平泉が躓いて体勢を崩したのだ。俺は咄嗟に平泉の肩を抱きとめた。
「大丈夫か?」
「はぁ、はぁ、……うん」
平泉の吐息が俺の頬をかすめた。
毎日ずいぶんと走りこんでいる俺と一緒に走れば息が切れるのは当たり前だ。
余裕がなくて、そんなことにも気が回っていなかった。
「!」
平泉の顔が驚くほど近い。
潮風に混じって、ほんのりと柑橘系の香りがした。平泉の体温が伝わってくるような気がした。
至近距離で目と目が合う。平泉の長いまつ毛、そして、思いがけず優しい瞳がそこにあった。
一瞬、激しい鼓動が波打った。
お互い、慌てて体を離す。
なんだよ、この感じは……。
ふぅ。
潮風の中に紛れさせて、ひとつ大きく息を吐くとようやく落ち着いた。
あたりはしんと静まり返っている。どうやら姉貴たちもここまで追いかけてはこないようだ。
お読みいただきありがとうございます!
もしよかったらブックマーク、感想、レビュー、評価などいただけると大変励みになります。
どうぞよろしくお願いいたします。




