メリーさんは僕を見ている
部活帰り、街灯に照らされた近所のゴミステーションで人形を見かけた。
抜けるような白い肌が妙にリアルで、真っ直ぐ伸びた金糸のような髪が明かりを反射して輝き、大きな目には吸い込まれそうな紺碧の瞳があった。
身を包むのは、黒地に白いフリルと赤いリボンの装飾が施されたドレス。
数秒、目を奪われる。
日常的な空間にはあまりに異質だったから。
それが彼女との出会いだった。
僕は机に向かい受験勉強に励んでいた。
机の上にはノートと参考書に電子辞書、そして携帯があった。
時刻は既に零時を過ぎ、ペンを走らせていると着信メロディが部屋に響く。
携帯を手にとって見れば、液晶画面にはいつもの名前。通話ボタンを押して耳元に寄せる。
『あたし、メリーさん。今、あなたの家の玄関にいるの』
聞き慣れた、鈴のような可愛いらしい少女の声。
「わかった」
僕は答えると同時に、通話を切った。そして机の上の物を片付け始める。すると、また携帯が鳴った。
『あたし、メリーさん。今、あなたの部屋の前にいるの』
「うん」
また通話を切る。
僕はノートと参考書を重ね、それを机の端に寄せる。その上に電子辞書を置いて、散らばった消しカスを集めてゴミ箱に捨てる。
それと同時に携帯が鳴り、背後で気配がした。
『あたし、メリーさん。今、あなたの後ろにいるの』
今度は何も言わず、通話を切る。
「こんばんは、メリーさん」
振り向きもせず背後の気配――メリーさんに話しかければ、
「……こんばんは」
ちょっと不機嫌な彼女の生の声が聞こえた。
メリーさんの電話、という都市伝説がある。
簡単に言えば、捨てられたドールが捨てた少女の所へ行く、という内容だ。
特徴は電話が鳴るたびにメリーさんが近づいて来ることと、最後はメリーさんの言葉で締めくくられることに、振り向けばどうなるかわからないこと。
僕はあの日、メリーさんに取り憑かれた。そして数ヶ月経った今も取り憑かれている。
僕は振り向かなかったから。
最初は布団に包まって震えるほど恐かった。振り向かない僕に業を煮やしたメリーさんが布団の上に乗ってきたこともあった。
そんな日々を過ごして、いくつかわかったことがある。
一つ、メリーさんは不意打ちができない。電話で来ることを予告する。
二つ、メリーさんは電話を切ることができない。電話を切ってもらわない限り、彼女は近づいてこれない。
三つ、メリーさんは強硬手段を使わない。自主的に振り向くのを促すだけ。
四つ、メリーさんが後ろに来ると気配がする。つまり、気配が消えれば大丈夫。
以上の点と位置取りに注意していれば、彼女に危険はない。
「うぅ、いつまでこんなことをしなきゃいけないの?」
不機嫌な声のままメリーさんは言った。
「ねぇ、そろそろ諦めない?」
「うん。いやだ」
「むぅう、やんなっちゃうわ」
「お互いにね」
頬を膨らませているだろう彼女に、苦笑と共に返す。
「その割にはいつも楽しそうじゃない?」
「そ、そうかな?」
「そーよ」
「……うん、そうかも」
「でしょ?」
と言いながら彼女は笑う。そんな気配がした。
見てみたいと思ったけど、メリーさんは決して僕の前に姿を現さない。僕が彼女を見たのは、今の所あの日だけだ。
かわりに僕はこんなことを聞く。
「メリーさんはどう? 楽しい?」
彼女はすぐに答えなかった。
僕の頭に顎を乗せて、
「そーねー」とか「うーん……」とか呟きながら悩んでいる。
その間、僕はずっとドキドキしていた。
メリーさんの体は柔らかい。
僕が見た姿は人形だったけど、たぶん今は人に近いんだと思う。
頭に乗せている顎は確かに人肌の質感があって、なんて言っていいかわからないけど……その、柔ら固い。そして、必然的に僕の後頭部に押し付けられる胴体部分は、服越しでも柔らかくて温かかった。
正直言って女の人に免疫のない僕にはつらい状況だ。
彼女が天然でやっているのかどうかわからないけど、必死で動揺を悟られないようにしている。
そうこうしている内に、彼女の考えはまとまったようだ。
「こんなに誰かと話すのは初めてだし……うん、楽しいわよ」
「ほんと?」
「なんで嘘を言わないといけないの?」
「そ、そうだよね」
思わず聞き返してしまったことを聞き返されて、僕は慌てる。
「ふふ、変な人」
メリーさんはそんな僕を見て、笑った。
やはり、そんな彼女を僕は一目見たいと思った。
それから他愛のない話をした後、メリーさんは消えた。
名残惜しく思いつつ、小腹の空いた僕は携帯と財布を持って外に出る。
外は闇に包まれ、冷え切っていた。
ふと彼女に会った時のことを思い出す。
「あの日は蒸し暑かったのにな」
時間の経過を改めて考えさせられる。
「僕は後どれだけメリーさんといられるんだろう……」
振り向かない限り、ずっといられるかもしれない。でも、それは希望的観測に過ぎない気がした。
いつか彼女は、いつまでも振り向かない僕に愛想をつかしてしまうかもしれない。
それはとても寂しくて、切なかった。
でも彼女の存在を考えれば、それは仕方ないことだと思う。
そんなことを考えていて、僕は前から人が近づいているのに気づくのが遅れた。そして気づいた瞬間、動けなくなった。
ピンク色のナース服をきた髪の長い女性だった。
今時見なくなった大きくて分厚いマスクをして、その手には出刃包丁が握られている。
口裂け女。日本で一番有名な、そして彼女とは別の都市伝説。
「え、あ……」
口の中の水分がなくなったように、うまく声が出ない。
でも言わなくちゃ。この都市伝説の弱点を。
早く、早く、早く……――
「ポ、ポマードッ!」
なんとか搾り出したのは、口裂け女が嫌がる言葉。
ピタリ、と口裂け女は立ち止まった。
しかし不思議そうに首をかしげる。たったそれだけ。
「なんで……」
呆然と呟いて、はたと気がつく。
なんで僕はこの出刃包丁を持ったナースを、口裂け女と思ったのか。それは、僕が子供の頃に聞いた姿と一緒だったから。
口裂け女には全国各地に様々なバリエーションがあると以前見たテレビ番組で言っていた。だから、対応策も異なる。
一気に背筋に悪寒が走る。
僕はこの口裂け女の対応策を知らない。聞いたかもしれないけど、今すぐに思い出せない。代表的なもう一つの対応策である飴も持っていない。逃げようにも足がすくんで動かない。
わなつく僕の五歩手前で口裂け女は止まり、目尻を下げる。
笑っている、とすぐに分かった。
そして、
「私、きれい?」
それを僕は聞いてしまった。どう答えたところで、襲われるのはわかっている。
死を覚悟した、その時だった。
着信メロディが鳴り響いた。
咄嗟に携帯を取り出し、液晶画面を見て、
「あ……」
光明が見えた気がした。
僕は通話ボタンを押して自分から口裂け女に近づき、携帯を差し出す。
「この人が答えてくれる」
と言いながら。
口裂け女は少し戸惑ったようにそれを受け取り、耳元に寄せる。
対応策がなければ、対応策を作ればいい。
僕はそっと目を閉じた。
見てはいけない気がしたから。
そして口裂け女の絶叫が木霊する。
次に目を開けた時、そこにはあの日見たドールそのままの少女が佇んでいた。
「ありがとう、メリーさん。その、助けてくれて」
緊張しながらお礼を言う。
すると最初は不機嫌そうに、
「むぅう、あなたはあたしの獲物なのよ。誰にも渡さないんだから」
やがて僕を指さし、
「あたしは絶対にあなたを振り向かせるんだからね!」
勝ち気で、でも向日葵のように明るく笑うメリーさんを僕は見た。