少女は海からやってきた。
「あっ、イルカ座」
イルカ座は夏の大三角のすぐ近くにある星座だ。大三角ほど強い光を発していないから、僕らの街の光に遮られてあまり見えないのだ。
だけど、この浜辺からはよく見える。
浜辺は街とは違い車の騒音も電灯の明かりもない。あるのは波の清らかな音と星のきらめきだけだ。
砂浜は熱を帯びている僕から体温を吸収してくれる。冷んやりした地面はとても気持ちよく、寝転がると夢の世界に旅立ってしまいそうになる。
ここに来たのは体ではなく頭を冷やすためだ。些細なことで親と喧嘩した。思春期なら誰でもすることだ。
大人というのは傲慢である。自分の方が経験が豊富だからといって、自分の言うことが正しく、子どもの言うことが間違っていると決めつけるのである。
しかも、子どもの言うことを聞いてくれないくせに、子どもが親の言うことを聞かないと、親は怒り出すのだ。これほど理不尽なことがあるだろうか? 本当に腹が立つ。
おっと、冷えてきた頭をまた熱してしまった。どうやら昼間の灼熱の太陽は僕の頭の中にお引越ししたようだ。
僕は仰向けになりもう一度夜空を見渡す。星が綺麗だと知ってはいたが分かっていなかった。こうして見ると一つ一つの輝きが尊く愛おしく感じてしまう。
僕は今やっと気づいた。眩しい光より瞬く光のほうが美しいということを。太陽のような暑苦しい光と対照的な星の静かな光は僕に安らぎをくれるのだと。
僕は手を伸ばす。あの光に触れたい。そう思ったのだ。触れることができないことは分かっている。でも、そう思ってしまうほどの魅力があるのだ。
機嫌が悪い今誰にも会いたくない。あの星に行けたら誰にも会わなくて済むのに……。
「何してるの?」
突然の質問に僕は驚いた。あれ? さっきまで周りに人なんていなかったよな?
疑問を抱きながら上半身を起こすと……目の前に一人の少女が立っていた。
「ねぇ、何してるの?」
何って……。
「ちょっと月光浴をしてたんだよ」
残念ながら不審者の応答にまともに応える気はなかった。
少女は、雨が降ってないにも関わらず全身ずぶ濡れで、髪をかき上げながら僕の前にいる。濡れてるから白いワンピースが服の役目をしていなく、服の下が丸見えだ(もちろんブラジャーもパンツも着用している)。
その姿は、しがない男子高校生には刺激的だった。
こんな人物はまともではない。そんな人間に対してまともな会話をしろというのは僕にとって無理難題である。
彼女は僕の答えに「へえ」とだけ言って返してきた。
今度は僕の番だ。
「お前は、どこから来たんだ?」
初対面の相手に「お前」はどうかと思うが、「君」なんて二人称を使い慣れていないのだから仕方ない。
彼女は「あっち」と言って僕の目の前、五十メートル先の方向を指す。
つまり、海だ。
「………………」
なるほどどうやら彼女もまともな会話をしたくないらしい。残念なことに僕らの言葉のキャッチボールは変化球しか使えないらしい。
「月光浴、気持ちいい?」
「気持ちいいよ。すごく。一人きりだったらきっと最高だ」
言葉に皮肉を詰め込んどいた。しかし彼女はまた「へえ」と言うだけだった。もしかしたら僕の球の変化がすごすぎてキャッチできなかったのかもしれない。
月が、僕を見下ろす少女と被ってしまい、見えなくなった。でも、月に匹敵するかもしれない、美しさを彼女は持っていた。
美人なんじゃない存在が美しいのだ。
だから月見ができなくても彼女が見れれば僕は満足なのだ。
しばらく彼女を眺めていたら、彼女が一言
「この世界って素晴らしい?」
と聞いてきた。
僕は答える。
「全然。こんなに汚い世の中なんて他にはないと思うよ」
他に別の世界があるかどうかは知らないが。
このキャッチボールで初めてストレートを投げた。さて、彼女はどんな球でくるのかな?
「じゃあ、おいでよ」
彼女は右手の人差し指を天高く上げた。なんだ? サッカーのパフォーマンスの何かか?
そんなことを思っていたら、騒音が聞こえた。その騒音はますます大きくなる。
この砂浜で騒音をたてるのは一つしかない。そう……波である。
大きな波の影が僕らを覆う。高さは十メートルくらいだろうか。
まずいまずいまずい!
このままじゃ飲み込まれる!
僕は立ち上がり逃げようとするが逃げられなかった……。
彼女が僕に抱きついてきたのだ。
「おい! やめろ! 離せ!」
僕は、必死に逃げようとするも、波はもう僕らに向かって襲いかかってきている。
もう……ダメだ……!
そう思ったとき、彼女が僕の耳元で囁いた。
「しっかり捕まってね。そうしないと危ないよ」
この時の僕は冷静じゃなかった。
彼女の言う通りに、彼女にしがみついた。
といっても、はたから見たらただ僕が彼女に抱きついただけである。
高波は僕たちを覆った。
そして僕はこの世界にさよならを告げた。