奴は言葉が足りない
(ああ……最近電話がないのはこのせいだったのか)
お昼休みに寄ったコンビニで手に取った雑誌の表紙を見つめながら、私はしばらくその場から動けなくなっていた。
私には二つ年上の幼馴染がいる。
アパートのお隣さん同士で、どっちの家も母親と子供の二人暮らし。そして母親達は高校からの大親友。
共にナースという忙しい職場に勤めていた母達は、どっちの子供も自分の子のように、二人で私達を育てた。
私が中学一年生の時、夜二人でテレビを見ている時に奴がいきなり「お願いがあるんだけど」と切り出した。
「いきなり何さ」と答えると、ながーいだんまりの後……
「次の試合で勝ったらキスさせてくれっ」
と、叫んだ。
奴は野球部に入っていた。次の試合というのは地区大会の決勝で、勝てるかどうかは五分五分というところだった。
黙ったままの私を真っ赤な顔で睨みつけながら「ダメか?」と聞く奴に、私は「勝ったらね」と答えた。
一週間後、私は奴にファーストキスをやった。
勢い良く顔を近づけた奴のせいで、私のファーストキスの思い出は「痛い」だった。
奴が県大会の決勝で負けるまで、試合で勝った夜は家でキスをした。
高校でも野球部に入った奴は、一年のうちからレギュラーに抜擢されていた。本人は何も言わなかったけど、破られた練習着やタオルをゴミ箱から見つけるたび、奴が部活内で微妙な立場にいる事がわかった。
そんな時は必ず奴が大好きな唐揚げを夕飯に出した。
嬉しそうに口いっぱいに頬張る奴を見るのが……好きだった。
高校生になって始めての公式戦の前日、また二人でテレビを見ている時に奴が「お願いがあるんだけど」と言った。
「今度は何さ」と答えると、ながーいだんまりの後……
「明日の試合に勝ったら舌を入れさせてくれっ」
と、叫んだ。
近くにあったティッシュの箱で思い切り奴の頭を引っ叩いた私を、真っ赤な顔で睨みつけながら「ダメか?」と聞く奴に、私は「勝ったらね」と答えた。
次の日の夜、半年ぶりに奴とキスをした。
ニュルッっとしたものが口の中に入ってくるのを受け入れながら、奴は何で私とキスをするんだろう?と思った。
その答えがわからないまま、私は奴が高校三年生の甲子園準決勝で負けるまで、試合で勝った夜は家でキスをした。
高校を卒業した奴はプロの選手になった。
入団するチームが決まった時、家でお祝いのプレゼントを渡した私に奴が「これも嬉しいけど、もっと欲しいものがある」と言った。
「別にいいけど私でも買えるやつにしてよね」と言った私に、ながーいだんまりの後……
「お前とセックスがしたい」
と、言った。
何も言えずに固まる私に、真剣な顔で「嫌か?」と聞く奴に、私は小さな声で「嫌じゃない」と答えた。
奴に聞いたわけじゃないけど、きっと初めて同士の私達の初体験は、痛いし恥ずかしいし決していいものじゃなかった。でも、奴の腕の中は私に心地良い温もりをくれた。
寮に入るから家を出た奴とは一年に一度くらいしか会うことは無くなった。
でも、会えば奴と私は肌を重ねた。
今年、奴は寮を出た。
奴の新居に引越しの手伝いとして呼ばれてから、月に二度はそのマンションに呼ばれるようになった。
昔と違い、抱ける女は選り取り見取りだろうに、何故奴は私を抱くのか……私はその理由が欲しくなっていた。
月に二度はあった奴からの呼び出しがなくなって三ヶ月が経った今日、私はその理由が聞けないまま、もう二度とあの腕の中で眠ることはないんだと知った……。
家に帰ると私の母と奴の母が二人でお茶を飲んでいた。
「あれ? お母さんは休みだって知ってたけど、加奈子さんも今日休みなの?」
「おかえりー、本当は夜勤だったんだけど病院に邪魔な人達が来てるらしくてね。とりあえず今日は休んだ方がいいって言われたの」
「邪魔な人達? ……ああ、なるほど」
お昼休みに買った雑誌を鞄から出して二人の前に置いた。
「加奈子さん良かったね、お嫁さんができるみたいじゃん」
その雑誌の表紙には『山崎 翔太結婚間近?!』という文字が載っていた。中も読んだけど、どうやら奴は一緒に写真に写っているグラビアアイドルと、有名な海外ブランドの宝飾店で婚約指輪を買ったらしい。
私が置いた雑誌を見て母が「まぁまぁ凄いわぁ」と嬉しそうに加奈子さんに写真を見せていた。
「なーにこれ、もっとちゃんとした写真撮りなさいよ。実物以上にブサイクじゃない」
「大丈夫、翔太君はいい男よ」
「そーお?」
雑誌を見ながら楽しそうに話している母達を背に、キッチンに立って冷蔵庫の中身を確認する。一人分増えたから材料の確認をしなきゃ、んー……。
「二人とも夕飯は回鍋肉とエビマヨ、あとはあんかけチャーハンでいいー?」
返事を待たずに冷蔵庫から物を出していると、ハモった声で返事をしてきた。
「今日ご飯いらなーい」
「……え?」
手にキャベツを持ったままキッチンから顔を出すと、母達は鞄を持って立ち上がっていた。
「何、どっか行くの?」
「今日は加奈ちゃんとホテルでディナーを食べてくるね。そのまま泊ってくるから心配しないでいいからね」
「はぁ?! ホテルのディナー食べるなら私も連れてってよっ」
「私だって連れてってあげたいけど……」
ピンポーン
部屋に響いた滅多に鳴らない音に一瞬体がビクついた。こんな時間に宅配便でも来たのか? と、玄関を開けると……そこには奴が立っていた。
予想外のことに固まる私の横を通って母達が外に出て行く。
「それじゃあ行ってきま〜す」
と、また仲良く声を合わせて出かけて行った。
ドアを閉めて中に入ってきた奴が、何時ものように無表情で私を見ている。
「ただいま」
「……ここは私の家であんたの家じゃない」
「怒っているのか?」
「なんで」
「写真とられたから」
「ああ、結婚するんだって? オメデトウ」
「……卒業制作は終わったのか?」
「は?」
「卒業制作が大変だって言っていただろう?」
私は高校を卒業した後調理師学校に通っている、といっても来週無事卒業することが決まっているけど……。最後に奴と会った時は一番の追い込みで忙しかった。毎日学校に泊まり込んでみんなで作業をしたりして、楽しかったけどしんどかった。だから奴にちょっと愚痴を言ったけど、その事を言ってるんだろうか?
「そんなのとっくに終わってるよ」
「卒業出来るのか?」
「当たり前でしょっ、何、卒業祝いでもくれるの?」
「……手」
「は?」
「手、出せ」
「何、ホントにくれるの?」
言われた通りに手を出すと、奴はこっちじゃないと逆の手……私の左手をとった。
そのまま薬指に光る石のついた物を通す。
奴がずっと握り締めていたのか熱いほどの温度を持ったそれに、心臓が跳ねた。
「卒業したら嫁に来い」
「何を……言ってるの……?」
「嫁に……」
「そうじゃなくてっ!
だってあの記事は?!
グラビアアイドルと結婚するんでしょ?!」
「あれは、この指輪を買って外に出たらあの女がいて、写真に撮られた。
売名行為に俺を使ったんだろ」
「付き合ってないの?」
「写真を撮られた時に初めて会った」
その言葉を聞いた途端足から力が抜けた。
奴に握られている腕だけ残して床にへたり込んだ私に、同じようにしゃがみ込んだ奴が聞いた。
「響子、返事は?」
「あんた……私の事どう思ってるの?」
「……そんなの言わなくてもわかるだろ」
「わからないわよっ」
叫んだ口を奴の口で塞がれた。我が物顔で押し入ってくる舌を噛んでやると、顔を顰めながら顔を離していく。
「響子……」
不機嫌そうな奴の頭を力いっぱい叩いた。
「お前な……」
「次の試合に勝ったらっ!
……そうしたら嫁に行ってあげるっ、でも負けたらこんな指輪質屋に持って行ってやるんだからっ!」
「わかった」
不敵に笑う奴の顔が滲む。
もう一度顔を近付けた奴が、唇が触れる瞬間言った「愛してる」の言葉を、私は一生忘れないだろう……。
一年後、真っ白なドレスを着て……、神様の前で奴とキスをした……。
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