二
「失敗した、とな?」
薄暗がりの御簾が向こう、尊大な声が不機嫌に放たれる。下座で平伏した人物は床に頭をこすりつけながら、恐る恐る報告を続ける。
「は、なにぶんはしっこい小娘だったようで、我らが手勢の策をくぐり抜けたとか」
「ふん、大言壮語の割には情けない。……それで、まさか諦めたなどと言うつもりはあるまいな?」
「は、それが……未だ逃亡先が不明でありまして、目下全力で捜索中でございます。運がよくば海の藻屑となっておりますれば、今しばらくのご猶予を」
「ぬ? 逃亡先など斥候を放って追わせればよかろうが」
訝しげに問う上座の声。平伏したままの人物は、背中に冷や汗を流しながら非常に言いにくそうな様子で答える。
「それが、その……報告によれば、目標はどうも……空を飛んで逃げた、とか……」
「………………は?」
沈黙する謁見の間。流れる何とも言いようがない空気。
ややあって、御簾向こうの人物が震え出す。そして怒号が響き渡った。
「戯けが! 機殻鎧が空を飛ぶわけがなかろう! 言い逃れも大概にせぬかあああ!!」
常識的に考えれば非常に正しい、真っ当な主張であった。
が、実はその戯けた話が事実だったりするから、世の中分からない。
二・袖擦りあって捕まって
北之浜城。その敷地内にある格納庫。通常は領主用の躯体のみ――というか北之浜には領主の機殻鎧しかない――が収められているそこが、俄に活気づいていた。
最早夜も遅いというのに灯りが煌々と灯され、人々が忙しなく走り回っている。そこで、ゆっくりと城門が開いていった。
大型の牽引車。それに牽引された荷台に積まれているのは泥だらけの機殻鎧。そろりそろりと運び込まれるそれを腕組みで眺める兼定の隣で、不機嫌そうな顔をした巌のような小男がぶっきらぼうに言う。
「こりゃまた派手にやらかしたものじゃい。坊の言っていたこともあながち法螺話でもなさそうだ」
「聞いたときには何をと思ったぞ」
小男――城付きの鍛冶職人頭は、がりがりと頭をかきながら兼定の言葉に応じる。
「ふん、理論上なら機殻鎧を飛ばす事もできるわい。実際にやってのけるヤツがいるとは思わなんだが」
「……その屁理屈、聞かせてもらおうか」
興味を持ったか兼定が頭に問う。頭は仏頂面のまま淡々とその『方法』を説いた。
聞き終えた兼定は眉を顰める。
「無茶苦茶だな」
「本来飛ばぬ物を飛ばすのだ、無茶もあろうよ。そのおかげでほれ、例の姫様目を覚まさんだろう」
「気の使いすぎで衰弱か。よくぞ保ったものだ」
「躯体の増幅能力もかなりのものだが、相当の胆力だぞあの姫様。……それはそれとして、この躯体どうする。見たところかなりの衝撃で機能のいくつかがやられておる。まああんな想定外の衝撃食らったらこうもなるだろうが」
「無論直してもらう。俺の【雷震】の予備部品があるだろう、それを使え」
「良いのか? 骨格からすると確かに同じ【防人型】系列だろうが……」
「構わん。むしろ放置しておいたら後でどのような難癖をつけられるか。かかった修理代くらいは請求させてもらうとするさ」
そもそも自分たちは何もしていない、相手がこちらの領地に飛び込んできただけだ。文字通りに。しかし世の中にはそんな理屈に耳を貸さない困った人種も存在する。鹿野島守がそうだとは限らないが、難癖をつけられるような扱いは慎むべきだろう。何しろ相手は領国持ちの大貴族、北之浜ごとき吹けば飛ぶような小領地などその気になればあっさり潰せる。まあ親である門崎守が黙っているとは思わないが力関係では確実にあちらが上、手段は幾らでもあった。
つまりは北之浜の総力を挙げてあの姫様を手厚く扱わないといけなくなるわけで。
「(幾ら飛ぶのであろうなあ。俺の手持ちで何とか収まってくれればいいのだが)」
兼定は心の中で密かに涙した。
心地よく揺さぶられる。
背負われているのだ、とぼんやりだが分かる。視界はなんだかふわふわと定まらない。というより瞼もまともに開かなかった。
誰かの声がする。しかしそれは遠くで囁いているようで内容は聞き取れない。
しかと働くのは嗅覚、それのみ。
感じるのは何か香料のような、さわやかな香り。そして。
微かな鋼と火薬の匂い。
意識が浮かび上がり、ゆっくりと瞼が開いた。
ぼんやりとした視界が徐々に形を取り戻す。まず目にはいるのは天井。遠くから微かに聞こえる喧噪は、朝市か何かなのだろうか。いや、日差しから判断するにその時間は過ぎている。いかんな、鍛錬の刻限に遅れているではないか……とそこでやっと思考が追いつく。
「(ここは……どこだ?)」
たしか自分はと思い返しながら身を起こす。が、くらりと目眩。どうにも身体がふらつき、力が入らない。全体的に気怠げな感じがするのはやはり無茶をしすぎたからだろう。
「(気を限界まで振り絞った代償か……海を渡り切れたのは僥倖というべきだろうな)」
だが無茶をしたかいはあった。無事……とは言い難いが、とにもかくにもこうして生きて朝日を拝むことができた。あとはここの家人と一刻も早く面会し、伝えなければならない事が……。
などと考えていると廊下の方に気配。一瞬で寝間着に乱れがないかを確認し、呼吸を整え姿勢を正す。
まだ意識を取り戻さないと思われていたのか、「失礼しますね」と小さく声が響き、そろりと襖が開かれた。
現れた人物――ふくよかな、微笑を絶やさぬ婦人は、一礼して部屋の中を確認し……「あら、お目覚めになったのですね」と微笑みながら声をかけてきた。
少女は布団の上で居住まいを正し、一礼する。
「大変お世話になりました。ご面倒をおかけしたようでまことに申し訳ない」
す、と流れるように滑らかな少女の動きに婦人は内心ほう、と感嘆の声を上げる。
目覚めたとはいえまだ身体は完全には回復していないはずだ。しかし少女の挙動は危なげなく見た目には衰弱を感じさせない。流石というべきかしらなどと思いながらいえいえおほほなどと婦人は対応していた。
少女は頭を下げたまま、涼やかな声で婦人に名乗る。
「申し遅れました。某は鹿野島守鹿野島 岩斬が四女、【鹿野島 来夏】と申します」
「これはご丁寧に。私はこちら門崎領旗下北之浜領主見城 兼定が妻、【はつり】と申します」
婦人――はつりの言葉に、布団の上の少女、来夏ははっと顔を上げ反応する。
「見城 兼定殿? 【無鎧流】と機殻鎧雷震の使い手たるあの!?」
「あら、ご存じで?」
意外に思う、いやそうでもないのか。確かに兼定は知る人ぞ知る剣の使い手だ。しかし若い頃ならともかく今では領地を荒らす魔獣くらいにしかその腕を振るっていない。それに最近の有名どころとは違い、派手な大技を多用するのをよしとしない性格なので若い世代からは受けが悪かった。評価するのは実戦の空気を知る玄人肌の人間ばかりだ。
つまりはこの少女もその域にあるかよほどの好き者であるか。どちらにしろただのやんちゃな姫君ではなさそうだ。はつりはそう判断する。先の挙動からしても相当にできるようであるし。自身もまた武芸の心得がある彼女は来夏に対する評価を少し上げた。
と、少しの間惚けていたようであった来夏が表情を真剣な物とし、再び頭を下げる。
「失礼しました。失礼ついでに急ぎ兼……ご領主殿にお取り次ぎを願えませんでしょうか。早急にお伝えしたき事がございますゆえ」
「それはいいのだけれど、お体の方は? 丸三日寝込んでいらしたのに」
「某の事は後回しに願います。一刻を争うとはもうしませんが民に累が及ぶやも知れませんので……」
そこまで言ったとき、ぐううとなにやら音が響いた。
音の源は無論、来夏の腹。
「……何か軽い物でもお持ちしましょうか」
「某の事は後回しに願います」
凛とした佇まいを崩さぬまま、きっぱりと応える来夏。
しかし微かに頬が赤く染まっていたのは間違いない。
城下の町は、朝から大にぎわいであった。
三日前の騒動。それは正に青天の霹靂と言って良い。何しろ前代未聞にもほどがある。誰が空から機殻鎧が降ってくるなどと思うか。事情を知るものも己の正気を疑い、知らず聞き及んだ者たちは眉に唾を塗る。ともかく町はその話題でもちきり。町で唯一の瓦版屋は連日おもしろおかしく号外を刷り、噂話は電光の速度で広がる。話題の少ない田舎領地であるからこそ、文字通り降ってわいた騒動に人々は浮き足立っていた。
「だからといって、見に来たところで何があるわけでもないのだがな?」
「そこをなんとか、面白い話とか進展とか聞かせて下さいよぉ」
休憩に入り手ぬぐいで汗をぬぐう鍛冶職人頭に懇願する人物。町唯一の瓦版屋【甚平】。本来の仕事である印刷業の片手間に取材から編集、印刷に配布までこなす。本来の仕事が滞り気味なのは言うまでもない。
頭は溜息を吐いて、甚平に向かい言う。
「そもそも話題のお姫様は寝っぱなしだといういうのに、動きがあるわけがなかろうが」
「いやそれは分かってるんすけどね、それでもなんか聞かせろって人が多くて」
甚平は親指で背後を指す。格納庫前の城門、そこに隠れてのぞき込む……黒山の人だかり。
こいつらみんな暇なのか。頭は内心呆れるが他にたいした娯楽もない田舎だ、仕方がないのかも知れないと思い直す。別に仕事の邪魔になってるわけでもないから放置していてもかまうまい、下手に手を出して印象を悪くする事もないだろうという思惑もあった。
親方は頭をかきつつ、ふむと鼻を鳴らす。
「儂が言えるのは躯体の修繕状況だけじゃの」
「ほうほう、たしか冷却経路がかなり逝かれていたとか聞きましたが」
「過負荷がかかっていた上にあの衝撃だ、無理もない。……本来であれば防人型系列はかなり衝撃に強いのだがな」
「ああ、【次元流】の。【超音速突撃】を使うからっすね」
次元流。西南部防人の中でも選りすぐりである鹿野島守直轄兵団が使用する剣戦術。その神髄は高速にして高威力の斬撃、それを生み出す空間湾曲術にある。
歩法と空間湾曲を組み合わせ一足にして半町(約50メートル)を詰めるとすら言われる高速移動術【縮地】。空間の断層すら発生させ事実上防御不可能とされる【二の太刀いらずの逸刀】。それら諸々極むれば次元すらも断つと、鹿野島剣士は豪語する。ゆえに名乗るのだ、次元流と。
それを部隊規模の機殻鎧で用いるのが超音速突撃。千五百貫(約6トン)を軽く越える鋼鉄の固まりが超音速で踏み込み防御不能の攻撃を放つのである。正面から食らって無事で済む物はまず存在しないと言っていい。
しかし当然ながらその使用は使い手に、そして躯体に相応の負荷を与える。それが故に次元流を学ぶ者は極限まで己の肉体と気を鍛え上げ、躯体は可能な限りの強度と耐久性を持たされていた。攻も無双ならば防もまた無双。次元流の使い手が駆る機殻鎧防人型に、損傷をあたえることは困難であると言わざるを得ない。
その程度のことは端くれとはいえ情報を取り扱う者、甚平も知識は持っている。だからこそ理解していた。空から降ってきたあの躯体に、想像を絶する負荷がかかっていたのだと。
「まあ実際、さほど衝撃による損傷酷くないのだがな」
しかしてあっさり前言を覆すような頭の言葉に「は?」と抜けた声を上げる。
頭はそこで初めてにやりと唇をゆがめた。
「骨格と装甲にはほとんど歪みはない。激しく負担を受けていたのは動力と駆動系、気の増幅経路、そして冷却機構。落下の衝撃は、つまり限界まで酷使された機能の一番弱い部分に最後のとどめが刺されたということよ。これがどういうことか分かるか?」
「は、はあ?」
疑問符を頭の回りに浮かべて眉を寄せる甚平。彼には確かに機殻鎧の知識があったが、流石に専門家ほど詳しいわけではない。頭の言っていることがさっぱりと理解できないでいた。まあ無理もなかろうと頭は思う。本来であれば全力戦闘を長時間行った後のような痛み具合だ。それに匹敵する『何か』というものは素人には想像しがたいだろう。
もっとも儂とて想像の域を超えんのだがと、頭は内心苦笑。「まあ後は自分で考えるのだな」と適当に煙に巻き、首をかしげる甚平に背を向ける。おそらくは自身の思いついた方法で間違っていないと思う。というかそれしか方法がない。原理は複雑なものではない、それなりに気を行使し次元流などの技をある程度習得していれば真似事くらいは可能だろう。やってのけようと思うかどうかは別として。第一普通の人間であれば躯体はともかく気力が持たない。やってのけた人間がおかしいのだ。
「(だが……)」
やってのけたであろう人間が、いる。それはつまり機殻鎧で空を飛ぶ技法が編み出されたということ。まあそう簡単に真似はできないであろうが、知り渡れば間違いなく後に続こうとする者、研究する者が出てくる。それで技法が確立されるなり同様の技術が生まれるなりすれば。
「(戦術そのものが、根底から変わるぞ)」
もちろん頭の懸念は、未来に置いて現実となる。
応接の間に置いて、兼定と慈水、そして来夏が対峙していた。
絵になる。湯あみし身なりを整えた来夏はぴしゃんと背筋を伸ばし、威風堂々と座している。見惚れるような美少女ぶり……というよりは、ほれぼれするような男ぶりと言った方が適切と思われた。
頬に一粒米がくっついていなければ。
……見なかったことにしよう。兼定と慈水はそれを意識外に放り投げた。指摘したらどんな反応があるか分からない。地雷を踏み抜く趣味はないのだ二人とも。
「お初にお目にかかる。当北之浜が領主、見城 兼定にござる。そしてこちらが」
「文官長を勤めております見城 慈水と申します。お見知りおきを」
「鹿野島 来夏でございます。ご迷惑をかけた上お時間を割いていただきありがたく、感謝の極み。……【西界道の鎌鼬】、お会いできて光栄です」
頭を下げる来夏の言葉に、内心うくくと呻く兼定。まさかここでやんちゃしていた若い頃の通り名が出てくるとは思わなかった。当時ならともかくこの年になって呼ばわれれば恥ずかしくも思う。
これは自業自得ですねと慈水は心の中だけでくすりと笑う。地味に目立たずを信条とする慈水は名こそ知られていないがその分余計なしがらみがない。未来に置いてはともかく今現在引き合いに出されて恥ずかしく思う過去などなかった。
まあそれはそれとして、兼定は気を取り直しこほんと咳払いを一つ。来夏に語りかける。
「それで、早速ではありますが……なんでも取り急ぎ伝えねばならない事があるとか?」
「は、では門崎守様にお伝えしたき事がございます。この地より対岸、西南部の【福成】から【永原】へと続く街道にて、【暴竜】が複数出没しております。急ぎ福成守様にお知らせくださるように、と」
「む」
「(ふむ?)」
来夏の言葉に兼定は眉を顰め、慈水は思案顔になる。暴竜。大陸の南方域で古代から生息し続けている大型爬虫類――【古竜】の一種である。大型で肉食。動きは鈍い方になるがそれも中型小型のものに比較すればの話。一般人が駆ける速度よりはよほど早く動き、なによりも並の機殻鎧を軽く上回る体力と持久力を誇っていた。一対一なら苦戦は必至である。
だがその危険性故に積極的に駆逐は行われ、特に街道近辺は複数の機殻鎧からなる警邏隊が頻繁に巡回しており、それなりの安全性が確保されていたはずだ。一体でも見かけることがあるとすれば、それは凄く運が悪いといった部類になる。それが複数? どう考えても異常だ。
「……承りましょう。慈水、急ぎ電信を飛ばせ」
「は、それでは」
一礼し席を辞する慈水。その動きに武の匂いを感じ取った来夏は、流石兼定殿の血筋かと思うにとどめ、思考を切り替える。
「痛み入ります。某の手で片を付けられればよかったのですが、生憎とこの未熟、二体を屠ることしかできませなんだ」
十三の齢でそれができれば十分だろう、という言葉は飲み込んでおく。この娘は誇り高い、下手な慰めはしない方がよかろうと兼定は判断した。
慈水……いや、誠志郎とどちらが強いかな、ふと思う。そして内心頭を振った。
「(いかんな、戦闘種族ともいえる西威大将軍の娘と己が子を比べてなんとする)」
武人としての己が鎌首をもたげてくるのを飲み込み、兼定は来夏に言う。
「それで逃亡を、と……にしても随分と大胆な方法でしたな。空に向かって縮地を行うなど」
「気付かれましたか。……【空歩】と組み合わせれば、なんとかなるものですな」
空歩。読んで時のごとく空中を歩む……ような三次元機動を可能とする術である。正確には大気を圧縮しそれを足場とすることで立体的な動きを可能とする歩法であり、通常は高いところを飛び越えるとか飛び降りるとか言う場合などで補助的に使用されていた。(前回誠志郎が大木から飛び降りる時にも一瞬であるが使用している)無論それを戦術に取り入れ高度な立体戦闘を可能とする強者もいるが、そのような人物でも長時間空中にとどまるなど不可能に近い。それ以上に縮地と組み合わせるなどと誰が考えるものか。
が、確かにそれを組み合わせれば空を駆ける事も不可能ではない。言われてみれば簡単な話ではあるが、まず思いついたとしても普通は躊躇する。安全性など無いも同然なのだから当然であろう。
しかしなんというか、来夏は晴れ晴れとした顔でこう宣う。
「実の所、昨年には思いつき幾度か試してみたのですよ。生身ではありましたが。機殻鎧の気力増幅を可能な限り上げればかなりの距離が出せるという目算はしておりました」
いやはや、兼定は内心舌を巻く。剛毅な姫様だ、多分家人は気が気ではなかったろうに。
その上で冷静に計算を巡らす頭もあるようだ。機殻鎧が備える気の増幅機構、これは動力から発生する電力を利用して周囲の気を活性化、それを躯体と同調させる事によって機師の気を増幅し躯体の各種能力を向上させるというものだが、躯体の駆動にも使われる電力を使用するのだ、当然ながら出力を上げれば躯体の稼働率は落ちる。そうなればいくら増強しても元の木阿弥、意味はない。ゆえにほとんどの場合気の増幅は余剰電力で補助的に行うものだ。
おそらく主機機関の出力制限を外し、躯体出力および増幅機構を限界まで酷使したのだろう。相当な負荷が躯体と機師にかかったはずだ。その中で冷静に出力比などの躯体制御、術の使用、飛行関係の各種計算を行うなど正気の沙汰とは思えない。よくぞやり遂げたものぞと感嘆するやら呆れるやら。
それにしても――
「そこまでせずとも、暴竜の囲みを抜け近場の領地に逃げ込めば良かったのでは?」
その兼定の問いに、来夏はこう答える。
「ある程度の備えはあるとはいえ、暴竜数匹を防げる小領地など数えるほどもありますまい。下手なことをすれば民に余計な累がおよびましょう。それに、どうやらきゃつら某に狙いを定めていた様子。目的がなければ余計な騒ぎなど起こさぬでしょう」
「(! 気付いていたか)」
にいと笑みを浮かべる来夏の表情に、目を鋭くする兼定。そもそも暴竜は凶暴な生物であるが、自身を打ち倒せる存在――機殻鎧にむやみやたらと襲いかかるほどほどのものではない。それに暴竜は普通単独で行動し、群れを作る事などまれだ。何より西南部の北端とも言える福成付近に出没するのも珍しい。考えれば考えるほど、来夏を襲った状況は不自然な点が浮かび上がる。
明らかに何者かの意図が絡んでいると、見城親子、来夏双方にそう判断したのだ。だがこれは下手をすると大事になる。何しろ襲われたのは鹿野島守が娘、これが知れればかの大領主がどう動くか、そしてどれだけの騒動が巻き起こるか。想像に難くない。
しかしながら来夏は堂々としたもので。
「国元にいたころから不埒に及ばんとする者はおりました。故にこのようなことは覚悟の上。ここで某が朽ち、またそれで屋台骨が揺るぐようであれば、某も鹿野島もその程度ということでしょう」
もっとも容易く討たれるつもりはございませぬがと笑う。さすがは大領主の娘ということか、豪快に大雑把。自身の命がかかっていたというのにかんらと笑い飛ばすか。
この娘、思っていた以上に『難物』だと、兼定は内心溜息。ただの我が儘な小娘であればまだ扱いやすかった。しかしこのお姫様、剛胆な行動を行いながらも周囲に気を配る配慮も見せている。自身の行動による影響力、それを自覚しているのだろう。人格面で優れている、とは言わないがそうそう嫌う人間もおるまい。特に武門たる鹿野島では好まれる傾向にあるはずだ。ただの歌舞伎者な姫様ではない。
その大胆な行動には常に何らかの理由が存在するのだろう。そのほとんどが、どれだけはた迷惑でも正当な部分があるのだ。今回のように。しかも自分たちのような立場であれば非難することもできなければ無下に扱うこともできない。いやはやまったくと、分からぬように肩を落とす兼定であった。と、そこで襖ごしに声がかかる。
「……ただいま戻りました」
再び部屋に戻り座する慈水。そして来夏に一礼し報告を行う。
「門崎にしかと伝えました。……失礼ながら、国元の方にはよろいしいので?」
その問いに来夏は頷いた。
「一度門を出た時より常時戦場と心得ておりますれば、この程度一々知らせるべきものではないかと。お心遣いはありがたく」
「分かりました、ではそのように。……ところで貴女様の躯体ですが」
「! そういえばすっかり忘れておりました。可能な限り減速したつもりでしたが……どのように?」
身を乗り出す来夏に慈水は穏やかな態度のまま応える。
「躯体全体に負荷がかかっていたようですが……ほとんどの部分は消耗品の交換で済みました。冷却系の経路は全損に近かったのですが、当方にて修復。以前より強化されておりますが無理は禁物かと。あと骨格、装甲に置いてはほぼ問題なし、しかしながら装甲は歪みや傷が残っております。できるだけ目立たぬようにしましたし駆動には問題はないと思いますが」
「これはまた十二分な処置、感謝いたします。……金子の方はそれなりにございますれば。足りぬとあればそこらで大型魔獣の五、六匹も狩りその報奨金を充てましょう」
来夏の言葉に対し、顔には出さないが焦りを覚える見城親子。金を出すと言い出すのは予想の範疇だったが魔獣を狩るとかいきなり宣うとは。二人の腹づもりとしてもかかった修理費ぐらいは回収するつもりだったが、それはあくまで鹿野島領に訴えてのこと。いくら金子があるからと言って年端もいかない娘に請求するものか。ましてや魔獣狩りを勧めるなど言語道断である。たしかにただの歌舞伎者ではない。とんでもない歌舞伎者だった。
いや、理に訴えれば弁えてくれるはずだ。多分。思い直して説得を始める二人。
「いえ、お気持ちだけで結構。客人に無理を押しつけては見城 兼定の名が廃るというもの。お気遣いなされますな」
「そも此度の修復に使ったのはほぼ死蔵されていたような予備部品ばかりです。入れ替えの良い口実となりましたので、むしろありがたいことかと」
鹿野島領への請求は後でこっそりするとしよう。まかり間違ってもこのお姫様に悟られるわけにはいかない。何をやらかすか分かったものではないし。図らずも見城親子の心は一つであった。
しかし勿論それで納得するような来夏ではない。彼女は怒ったような、あるいは困ったような表情で二人に訴える。
「それではこちらの気が済みませぬ。命を救われご迷惑をおかけしそれでいて何もなさぬでは、それこそ父をはじめとした一族郎党の顔に泥を塗るようなもの。小娘の戯れ言と思われましょうが、どうかお礼をさせてはもらえないでしょうか」
深々と頭を下げる。どうにも困ったと今度こそ顔に出してこっそり溜息を吐く兼定。この様子だとお姫様はてこでも動くまい。さりとて素直に謝礼を受け取るというのもどうか。いくら金があるとはいえそれは元々帝都へ向かうためのものだろう。それを受け取ってしまえばこの娘、路銀を稼ぐため本気で魔獣狩りとか始めかねない。それ自体は構わないと言うか放っておいても逞しく生き抜きそうだが、そうなるだろうと分かっていて放り出すわけにもいかない。さてどうしたものだとかなり本気で考え込み始める兼定の隣でふうむと顎に手を当て考え込んでいた慈水が、ふと何かを思いついたようで再び穏やかな笑みを浮かべ、口を開く。
「それではこのような趣向はいかがでしょう?」
北之浜城は今までにない喧噪に満ちている。
開かれた正門。その内に開けた広場では、現在急速に酒宴の準備が整いつつあった。
その光景を見ながら、兼定はむうと唸る。
「此度のことで骨を折ってくれた城下の者たちを労うため酒宴を行う、か。その費用を捻出させることで礼とさせるというのはどうなのだろうな?」
「いやいやなかなかに良い考えではないかの? お姫様を納得させ、なおかつ躯体の修繕費にくらべれば遙かに少額の金を出させるだけで済ませる。……若もなかなかできるようになった」
「……お主は酒が飲めればそれでよいのだろうが」
上機嫌な頭の言葉に呆れた様子で応える兼定。と、そこに未だ逗留を続けていた文五郎が現れる。
「ご注文の酒と食料、その他諸々搬入を終えました。いやいや、ここでの臨時収入はありがたいことで」
「ご苦労であったな。急な話で良くやってくれた」
「なにたまたま買い上げたものが余分にあっただけのこと。労力はかかっておりません。……頭、予備部品の手配も滞りなく。ついでというわけではないのですが良い酒があるのですけど……」
「買おう、いくらだ」
「後でやれ後で。……それで文五郎、例の話だが」
「は、確かに承りました」
「すまんな、面倒をかける」
「なんぞ起これば手前の商いにも影響が出ます故。お気になさいますな」
にこやかに応対する文五郎。善意に甘えているなと思う。本来であればもう出立し門崎あたりで次の商売を行っているはずの彼が未だ留まっているのは、今回の騒動にて何か手助けできることはないかと考えたからだろう。勿論恩を売り次の商売の足がかりにするという打算はある。しかしここで留まっているよりさっさと次に行ったほうがよほど良い商売になるはずだ。やはり好意で残っていると言うところも大きい。
いずれ借りを返さねばなあと思う兼定であるが、なかなかにその機会は訪れない。もっとも文五郎から言わせれば若い頃に受けた恩を返しているだけと言うことになるのだが。気が合うだけあってこの二人、どこか似ているのかも知れない。
ともあれ準備は滞りなく進み、酒宴は開かれる。
上座にて立つ兼定が、集う一同――領内の有力者および今回の事件で働いてくれた者たちやその家族など、約数百人――に告げた。
「皆の者、急なことであったがよく働いてくれた。その労を労らわんと、鹿野島の姫君が一席設けてくださった。失礼にならない程度に日頃の憂さを晴らし、明日からの活力として欲しい。……では姫、皆に一言お願いできますかな?」
「某がですか? ……それでは僭越ながら」
話を振られ一瞬戸惑うが慣れているのだろうか、すんなりと受け入れ立つ来夏。
「お初にお目にかかる。某は鹿野島守鹿野島岩斬が娘、来夏と申します。お集まりの皆様にまずは謝罪と感謝を。多大なるご迷惑をお掛けした上、ここまでしてくださりまことにありがたく。御礼もろくにできませぬが、せめて今宵はゆるりとお楽しみ下さい」
深々と頭を下げる来夏の姿に、大人たちはなかなかできることではないなあとすこし感服し、娘たちはどこかほうっとした顔で来夏を見つめている。周囲の若衆にはない凛とした出で立ち、立ち振る舞い。それらが心の琴線にふれたらしい。
そして宴が始まる。始まってしまえばただの酒宴、酒が回り人々は陽気に酌み交わす。女房衆や娘たちはくるくると動き世話したり酌をしたりと忙しい。子供たちはごちそうを前に大はしゃぎ。きゃいきゃいと騒ぎながら掻き込む。
そして端っこで。
「…………」
「…………」
茣蓙の上に正座でお預け食らっている馬鹿二人。
吾一と網元の息子【太助】である。
何でこうなっているかは今更言うまでもない。周囲の人間もま、しょうがないよねと適当に流している。
まあやんちゃして自業自得な小僧どもはおいておくとして、上座に近い位置で誠志郎は少し困っていた。
なぜならば。
「貴公のおかげで助かりもうした。御礼を申し上げます」
主賓であるお姫様が、自分に対して深々と頭を下げているからだ。
なぜ誠志郎が救護活動を行ったことが分かるのだ。本人だけでなく傍にいる兼定や慈水もぎくりと動きを強張らせる。誠志郎自身も挨拶程度にとどめて目立たぬようにしておこうと考えていた矢先のことだった。
「いえ、大したことをしたわけでは……」
ごにょごにょ言いつつ頭を下げ返す誠志郎。一体何でと内心混乱しているが、それを表に出さない程度には自制できる。それを見越したのか、来夏はにっこりとしてやったりとでも言いたげな笑みを浮かべた。
「なぜ分かった、と?」
「……良くお分かりで」
無理に否定すると話がややこしくなりそうだと判断した誠志郎は白旗を揚げる。内心はらはらと父および兄が見守る中、来夏は笑顔のまま語る。
「まずは衣服に付いた香、虫除けと香り付けのものでしょう。ご兄弟で使われているものがそれぞれ違うようで。それに、お腰のものから伝わる鋼の匂い。よほどの鍛練を積んでいるようですな、幾度も繰り返し抜刀している証かと」
ぎょっとして一瞬右脇に置いた脇差しを見る。別に鍛錬を隠しているわけではないが、それで伝わるものなのか。恐るべき嗅覚であった。
と言うより意識があったのか、完全に昏倒していたものだとばかり思っていたのに。そんな考えを読んでいたかのように、来夏は続ける。
「おぼろげながら覚えております。その匂い、気配。某を背負って下さったのでしょう? おかげでこの場にいられる。ありがたいことです」
再び頭を下げる。過剰なまでに向けられる感謝の念に、戸惑うしかない誠志郎。そんな彼には来夏から勧められる杯を拒むことはできなかった。
当時は元服前の未成年であっても酒宴があれば酒を勧められるのは当たり前。特に武門の家柄であれば、己の気を律する鍛錬となるとむしろ推奨される傾向にあった。実際気を制御し内蔵機能を強化すれば酒精の分解は進み酔いにくくはなる。が、それは全く酔わなくなるということではない。制御が未熟であれば多少酒に強いといった程度のことだ。
誠志郎はどうなのかと言えば、全くの未熟というわけではないが図抜けた能力を持っているわけでもない。普通の成人男性とほぼ大差ない程度のものであった。控えめにしていてもそれなりに酔いは回る。
今回関わらなかった者や時間がとれなかった者などもちょくちょく顔を出し宴はたけなわ。兼定や慈水も対応に追われ、来夏の相手もおろそかになりがちとなる。自然来夏の相手は誠志郎が主に勤めることとなっていく。
そしてこの二人、実は結構話が合った。共に武に通じ、鉄騎や機殻鎧などにも造詣が深い。特に誠志郎など同世代の子供たちに慕われてこそいたものの、趣味や特技の面で対等な者は居ない状態である。魔獣や賊などに相対する必要もまれにあるため、若衆や子供の中で素質のありそうな者はそれなりの鍛錬を受ける。が、まがりなりにも武門の端くれである兼定の教育を直に学んでいる誠志郎とは格段の差があった。深く入り込んだところまでの話などできようもない。結局のところ酔いの勢いもあったのだろうが、誠志郎は自身でも以外と思うほどに来夏とうち解け対話にのめり込んでいた。
そうしている最中、話の流れでこのような問いが放たれるのは当然の成り行きだったのかもしれない。
「なぜ来夏殿はそこまで強さを求められます?」
談話している間に浮かんだ疑問。誠志郎はこう感じたのだ。この少女、鹿野島 来夏は実に貪欲であると。
ともかく興味ある事柄を片っ端から学び身にしようという意志を感じさせる。歩みを緩めず高みを目指す欲。何が彼女をそうさせるのか。その疑問に対して返ってきた答えは、全く予想だにしない言葉であった。
「領を作りたいのだよ、某は」
「…………は?」
その時の己の顔は酷く間抜けなものだったであろうと、誠志郎は後にそうこぼしたと言う。ともかくぽかんと惚けるしかない誠志郎の様子を見て、来夏は悪戯が成功したかのような笑みを浮かべ、語りを続ける。
「女性で領主になった例はあれども領を作った前例はない、そう言いたいのだろう?」
来夏の言うことは確かである。しかし女性領主というものは男性後継者が居なくなり、他に名代を務められそうな人物が居ない場合などの緊急避難的な処置であり、通常の手段で領主を継ぐことはまずない。(女性武官なども存在する関係上、爵位を授かることはある)
が、それを分かっていてなお、お姫様は堂々と宣った。
「ならば某が最初の例になればいい。それだけのことだ」
言うだけでできるのならば苦労はない。だが。
なぜだろう、このお姫様ならやってのけそうな気がするのは。
そして、彼女にはそれなりの算段と自信があった。
「荒唐無稽な話ではないさ。本土北東、そして北東部などはまだ領の定まっていない空白地帯も多く存在する。【大結界】に護られているとはいえ、中央大陸の脅威が消え去ったわけではない以上開拓は急務。だが人手はあってもそれを指揮する頭が足りない状況だ。そこにつけいる隙がある。もちろん開拓には多大なる苦労もあるだろうが、十分な投資および資材を投入できれば人は集まる。頭に収まることができれば戯言ではなくなるさ。そのためにはまあ、己がそれだけの金と人材をつぎ込んで成せる人物であると示さねばならないわけだが」
だから色々とやっておるのさと、彼女は彼方を見据え杯を傾ける。実に絵になるその姿を見ながら誠志郎は思う。
本当に変わった御仁だと。
しかし。
その生き方、思考に惹かれる何かがあるのは確かだと、強く感じてもいた。
夜も更け、宴は一応の幕となる。
幾人かが片づけの終わった広間の隅や厨房の端、あるいは外の酒屋で深酒する者たちもいるが、概ね素直に帰宅し明日に備えているようだ。
一回り城の周囲を巡りそれを確認した慈水は、うんと頷いた。
「さて、後は警邏の当番に任して、私も休むとしますかね」
むむうと身体を伸ばし、部屋に戻ろうとする慈水。その目が不意に鋭いものへと変わる。
「しかし……暴竜を複数、ですか」
思い返すのは来夏を襲った事件。使われたのは恐らく【使役の術】。これは特殊な薬物や術を組み合わせ、知能の低い獣や魔獣を思い通りに操る技である。もちろんこれは対象の能力や大きさなど、様々な条件によって難易度が変わる。暴竜ほどのものになると、並の術師なら数人がかりでかからねばならない。
だが、今回はそれが複数。相応の数の術者を用意するか、高位の者を当たらせるかしなければ成せるものではない。どちらにしろそれだけの人材を投入できるような力を持つ存在など、慈水の心当たりには一つしかなかった。
「(……【陰陽寮】)」
【皇帝近衛師団】と対を成す、皇帝直下の術師組織。その軍事的政治的影響力は計り知れないが、逆にそれを維持するため有力な存在からの依頼を、かなり無茶なものでも受けざるを得ない時があるという。今回のこともその類のものなのだろうが。
「(有力地方領主の親族の暗殺、それを狙ったのは分かる。しかしあんな分かりやすく派手な手段でということは……陰陽寮自体は乗り気ではないか、金で動く質の悪い下級の者をかき集めたかということになる)」
どちらにしろ陰陽寮の総意ではない。あちらも一枚岩ではないだろうというのは予測できるが……事が露見しても構わないと言うような、この杜撰さは酷いものだ。陰陽寮の術師とて留め針から錐まであるが、露骨なまでに裏が見える質の悪さだった。
「(あるいは依頼した何者かが相当に考えなしで、派手な手段を使って見せしめなどと馬鹿げた事を考えたか……信じたくはありませんが)」
可能性が皆無ではないと気づき溜息を吐く慈水。自分も兼定もできうる限りの手は打ったが、後は状況に任せるしかない。しかし状況はどう動くか全く予想もつかなかった。
どうにかしたいがどうしようもない。頭を悩ませても解決するものではないと十分に理解しているのだが。
と、悩む慈水の感覚に、何かの気配が感じ取られた。
裏庭から立ち上る気。それは確かに弟のものであった。
誠志郎は毎日のように寝る前――だけでなく時間があれば鍛錬を行っている。時折どこかで暢気に寝ているように見えるのは、鍛錬の後に十二分な休息を取るのが大事だと教わり学んでいるからである。ともかく宴会のおかげで就寝時間が遅れ、このような夜中に寝る前の一汗をかこうとしているようだが。
「(乱れているというわけではありませんが……いつもと様子が違うようですね)」
少しに気になったので裏庭へと向かう慈水。気配を消して物陰から様子を伺ってみれば、裏庭の中央で丸太のような木刀を構えている誠志郎の姿がある。いつもであれば無心にそれを振るっているはずだったが、なぜか構えたまま微動だにしない。
と、ゆっくりと構えが変わる。今まではどうやら呼吸を整えていただけだったらしい。ゆらりと持ち上げられた木刀は――
そのまま肩に担がれた。
「(あれは次元流の……!)」
担ぎ太刀。そう呼ばれる独特の構え。次元流の基礎であり最終奥義とも言える技、二の太刀いらずの逸刀を繰り出すためのもの。誠志郎がそれを教わったわけはないし、どこかで学んだこともない。あれはただの真似事。模倣に過ぎないだろう。
しかし。
基本の理屈は理解しているはずだ。
高めた気により身体能力を増幅。半身の構えから一気に、踏み出す。軸足をバネのように使い加速。いや、跳ぶ。得物の重量、身体の捻り、腕の振り、込めた気。その全てを寄り合わせ――
たたき込む。
二丈(約6メートル)を一気に駆け、一閃。僅かに遅れて大気を断つ音が鳴る。太刀の先が一瞬だけ音速を超えたのだ。
振り抜いた姿勢のまま暫し残心。そしてふうっと息を吐き、誠志郎は構えを解いた。本物の逸刀とは比べものにならぬ稚拙な技。しかし何か得るものがあったのか、誠志郎はどこか得心した表情で一つ頷いた。
「これなら……いけるかな?」
呟いて木刀を置く。そして振り返り、無手のまま低く構えた。何をするつもりかと訝しげに見る慈水の視線の先で、誠志郎は気を練り上げ術を構成する。
そして。
「空歩励起……発動!」
飛び上がり、空歩の術を発動させる。普段なら使わぬ術式符を用いたのは集中力を高め術の構成を確実化させるためだろう。目をこらせば認識できるほどに圧縮された大気の足場。それを踏み込むと同時に――
「縮地励起っ、発動っ!」
最大加速。ばしりと音を立て大気の足場が弾け飛び、誠志郎の身体は高く舞った。
一息にも満たぬ飛翔、天に弓を描いて着地。勢いを殺すため滑りつつ姿勢を整える。裏庭の端から端、わずか四丈ほどの距離であったが。
誠志郎は確かに、空を駆けた。
「……なるほど、できるものだね」
にい、と誠志郎の口元が歪み、見ていた慈水があっちゃあとか零しながら額を抑える。弟は気付いているのだろうか、今自分の浮かべている笑みが、あの歌舞伎者なお姫様のそれと似通っていることに。
「(これは、捕まってしまいましたか。ちょっとどころじゃなく厄介ですね)」
ある意味恐れていたことが現実となり、慈水は溜息を吐く。が、仕方のないことだとは思う。確かにあのお姫様は、慈水の目から見てもぎらぎらと人を引きつける輝きを放っているのだから。
もしかしたら弟は、とんでもなく苦難の道に踏み込んでしまったのかもしれない。誠志郎の行く末を案じて、慈水は深く肩を落とすしかしようがなかった。
そして、彼の懸念は大当たりすることとなる。
次回予告
短い逗留の後来夏は北之浜を発ち、それに併せて誠志郎もまた出立する。
まずは門崎、そして帝都に向かう鉄道を使い未知なる土地へと旅立つ。
そしてそこで、新たな出会いが二人を待っていた。
次回、『旅は道連れただし強制』
乱世に刃鋼の疾風奔る。
今年最後の更新だと天下太平で言ったな、あれは嘘だ。
歌舞伎と書いてロックと読むのは正式設定。そもそも成り立ちからして間違っていないんじゃないね?と開き直る緋松です。
さて色々な意味で話が動き始めました。ただもうこの時点で筆者が疲れ始めていますのでどこまでいけるか分かりません。最低でも更新速度に期待はしないように。
でわでわ今度こそ、皆様良いお年を。来年もどうか一つよろしくお願いします。
……クリスマス? うんそのなんだ、色々あらあね。




