十三
すっかり忘れ去られているが、貴族は女性のほうが出生率が高い。
当然ながら教導院でも女子の比率が多いわけだが、視点が視点であるのでこれまで話の中で表現されたことはなかった。
しかし、彼女らは別に黙って身を潜めていたわけではない。
「ですから見城殿と来夏様は密かに想い合ってるのではないでしょうか?」
「まあ! 身分違いの恋というわけですね? 切ない……でも素敵……」
「けれどもこのような話も聞きましてよ? 来夏様と乾様が、見城殿を巡って恋のさや当てを繰り広げているとか。二人が互いを恋敵であるとはっきり認めたと」
「まあ、まあ! なんて耽美な! 乾様にそのような趣味があったなんて、分かってらっしゃいますね!」
「わたくしが聞きましたのは、見城殿の兄上と猿条様の姉上が悲恋の末引き離されたとか……」
「姉の叶えられなかった想い、それを知るために見城殿と接触したのね? いじらしくも悲しい乙女心ですわ」
「見城 誠志郎、なんて罪な、魔性の男……」
「ああ、この教導院で何人を惑わせるのかしら。我々も惑わされてしまうのかしら」
三人揃えば姦しい、とはよく言ったものである。
これが水面下で密やかに繰り広げられているだけであれば、どれほど実情とかけ離れていようが問題ではないのだが。
勿論、表に出てこないはずがなかった。
十三・糸は絡まり迷い行く
軍師参謀のためにある戦略戦術系の講義では、講義の一環として卓上遊技を行わせる場合がある。
戦術の基本を学ばせるためであるが、やはり遊技は遊技である。本気になるものは――
「……参りました」
結構多い。
碁盤を前に頭を下げた来夏は、対面に座する平八に語りかけた。
「やはり強いな荒岩殿。某ごときでは手も足も出ん」
賞賛の言葉に気をよくしたのか照れたのか、平八はぽりぽりと頬を掻きながら応える。
「それはまあ、碁盤の上ですので。これが本物の戦場であれば私ごとき一刀の元切り伏せられておるでしょうよ」
「謙遜だな。そもそもたどり着かせぬようにするだろう。某のような猪であればなおさらな」
思慮深い猪など脅威でしかない。平八はそう思っても口に出さないくらいの分別はあった。
先の仕合の後、松之丞は来夏をいたく気に入り、時折錬金学講義にも顔を出して何かにつけて言葉を交わすようになった。そうなると平八も無視しているわけにも行かず、内心気が進まないまま言葉を交わすようにするしかない。
非常に失礼な話だが、最初は物狂いの類だと思っていた平八である。だが、実際言葉を交わしてみればこの少女、思った以上に聡明だ。
領国を創るという話も、聞いてみれば確かに荒唐無稽な話ではない。賭は賭であるが全く勝算のない世迷い言とも言えなかった。花島教官のような図抜けた職人と手を組めば大きな力ともなるし、他にも有能な人材を集められれば夢ではない話だ。一攫千金立身出世を願う者はいくらでもいるし、賭ける価値のある博打と言っても良いだろう。
何よりこの少女にはそれが可能だと思わせるような『なにか』がある。所謂御輿的存在というやつであろうか。他者を引きつけてやまないような魅力、それに気付けば心惑わされずにはいられない。
危険だとも思う。平穏な世であってもこのような異端は一歩間違えれば毒物となりうる。ましてや不穏な空気が流れている現状では、大きな乱れの元となる可能性があった。いや、実際すでに彼女が元で騒動が起こっている。
もしかしたら、それが分かっているから彼女は松之丞に接触したのかも知れない。彼が自分を気に入ると計算した上で。松之丞であれば例え敵であったとしても自身が気に入った人間であれば力を貸すことをいとわないだろう。最近になって平八は主候補の美点であり欠点であるそういった面に気付いた。
強かだ。平八は渋みのような物を感じる。この少女かなりの難物、敵に回したくはないが味方にしても良いものか。言葉を交わしながらも彼は思考を巡らせる。
「(まずはこの女がどこの誰に付け狙われているか、それを知る必要がある。できれば大事にはしたくないが……)」
荒岩 平八は聡明な少年であった。そして来夏や誠志郎も年齢に比して大人びており、彼らほどではないが松之丞も受けた教育のおかげでそれなりにわきまえている。
が、彼らは本来思春期に入り始めた少年少女であり、周囲も同じく。
聡明すぎたがゆえ、彼らは見る者が見れば自分たちがどう見えるか気付くのが遅れた。
それは茶席でのことだった。
「千里様は殿方の好みなどありまして?」
席を同じくした令嬢の一人が、千里に尋ねる。
話の流れとしてはおかしくない。その席で今の話題は色恋沙汰に対するものだった。年頃の少女たちであれば珍しくもないことだろう。
もっとも貴族の、しかも上級のものたちの場合自由恋愛という物とはほとんど縁がない。良くも悪くも彼女らは家の道具として扱われる場合が多い。教導院内の出会い付き合いにも色々と暗黙の了解がある。普通利のある相手でなければ見向きもされないのだ。
だからこそ彼女らは恋に恋することしかできない。このような席で語られる色恋沙汰は、結局の所浮世離れした妄想に近かった。
ゆえに、発想が突飛な物となることも時折ある。
表面上は大人しく過ごし、内心ではどうやって誠志郎の鼻をあかすか、そればかりを考えていると言ってよかった。そんな千里であるから一瞬反応が遅れた。彼女は咄嗟に微笑みを取り繕い、問いに答える。
「いえ、わたくしはまだそのような事に興味は」
柔らかくも素っ気ない応え。語外に問うてくれるなと意志を乗せたつもりであったが、相手はやはりとでもいわんばかりの意味深な笑みを浮かべる。
その反応に僅かながら訝しがる千里。次にかけられた言葉は、彼女の予想範疇外であった。
「それはそれは。確かに気になる殿方がすでにおられれば、他に意識は向けられぬでしょう」
「…………え?」
何を言われているか分からなかった。最低でも、千里の中で心当たりはなかったから。
だがそう思っていたのは本人だけであったらしい。恋に恋するものたちの間では、まるっきり見方が違った。
「お話は聞いております、姉君のことは。叶わなかった悲恋……その想いを継ぎ、姉君と同じ愛の修羅の道を踏破しようとするその心意気、我々感服いたしておりますのよ」
「……………………はぁ!?」
理解が追いつかなかった。誠志郎のことだと気付いた後は何を言っているのだと別大陸の人間を見るような目になる。
しかし、実際おかしいのは千里のほうだ。そもそもが千里の姉、千明が慈水に熱を上げ追いかけ回すという行動が前代未聞、慣例と礼節から外れたものであり、さらにそのことで誠志郎を逆恨みするなど生ぬるく言っても常識を逸しているとしか言いようがない。まともな貴族であれば想像もしない行動である。
だから周りは理解できない。できないから自身の考えでその行動原理を補おうとする。それが恋に恋する思春期の少女たちであるならば――
「幸いにして千里様は三女、かの殿方は次男と聞きます。彼がふさわしき働きさえすれば、降嫁も許されるやも知れませぬ」
「まあ、では物語のような恋が成就する可能性があると?」
「千里様、私たち応援いたしますわ。姉君が果たせなかった夢、是非とも叶えてくださいまし」
「はあああああああ!?」
こういった考えになるのも、致し方ないことなのかも知れない。
知れないが、千里にとっては寝耳に水の話であるわけで。
「あ、あの? わたくしはそのような事を考えているわけではありませんが……」
引きつった笑顔になりながらも溶紙に包んだ柔らかな否定の言葉を返そうとする。しかし周りはみなまで言うなといった感じで、千里の心情を汲もうとしない。
「分かっております。忍ぶ恋だとおっしゃりたいのですね?」
「一見無理難題と思える茶会への誘いも、彼がこなせると見越してのことでしょう? 信頼がなければ出来ることではありませんわ」
「あれほどの剣の腕、千里様の後ろ盾があれば近衛左翼に新風を吹かせることも出来ますでしょう」
「それに皆様聞いておられますか? 彼は経済や錬金学にも造詣が深くなおかつ勤勉であるとか。きっと領国の運営にも大きな力となって下さいますわよ」
「他の家の者が図々しくも空気を読めず彼を欲しているとも聞きます。我々が影に日向に千里様の力となって有象無象を寄せ付けぬようにせねば」
「い、いえあの、皆様少し落ち着いて……」
集っているのは猿条家と親しかったり近づこうとするものばかりである。それが原因というわけではないが、彼女らは純粋に善意で話を進めているのだ。
千里の本心を無視して、己らの妄想する事実しか目に入れず、勝手な未来を想像して。
そんな彼女らに、千里の言葉など耳にはいるはずもなかった。
ある意味自業自得ではあるが、誰も狙っていない方向に話が進んでいくのは千里の責任ばかりとは言えない。
派手に机の上の物がぶちまけられ、陶器が悲鳴のような音を立てながら砕け散る。
荒く息を吐く千里の表情は憤怒。彼女がこれほど感情を露わにしたのは自分が仕えてから初めてではなかろうか。控えていた那波は驚きを隠せない。
派手に部屋の中で当たり散らす。庶民ではとても手が届かないような日用品が次々と砕け散り、一通り暴れ回った千里は大きく肩を上下させながら怨嗟の言葉を吐く。
「見城、誠志郎っ! どこまでも忌々しい……っ!」
相も変わらずの八つ当たりである。が、誠志郎憎しで行った行動がこのような結果を生むなどと誰が予測するか。非難や批判は覚悟していた千里であるが、まさかこのような方向に話を持って行かれるとは思っていなかった。今彼女を支配している感情は怒りや憎悪と言った物だけでなく、困惑混乱が占める所も多い。
一体何があったのか、そそくさと部屋を片づける那波には分からぬ。分からぬがこれはまずいと感じた。
以前より迷走している感があった千里であるが、これほどの感情の発露だ。これまで以上におかしな事を思いつき実行してしまうやも知れぬ。いや、恐らくは『やる』であろう。止めねばならない。那波はもはや決死の覚悟を持って主に声をかけた。
「落ち着いて下さいまし。何事かは存じませんが、まずは周りをよくごらん下さい」
その声に、はたと我を取り戻す千里。言われるままに周囲を見回した後、今度は泣きそうな顔になって肩を落とした。
「……情けない……っ!」
なぜこうも思い通りにいかないのか。生涯初めての挫折に、彼女の心は散り々と乱される。
そもそも世の中とは思い通りにいくことの方が少ない。そう悟るには彼女は若すぎたし恵まれすぎていた。我を忘れて周囲に当たり散らすほどのなど、それこそ物心つくかつかないかの幼少のころ以来であろう。
那波は片づける手を止めて、千里に向き直る。
「またかの男爵家次男ですか。……あのような羽虫にいつまでも拘るから腹ただしい思いをすることになるのです」
たかだか木っ端と、誠志郎を貶めるような物言いで千里を宥める。実際教導院に入る際に彼の名を見つけ、そして関わってからろくな目に遭っていないように見える。それは自業自得であったり一方的な思いこみであったりするが、不快な思いをしていることには違いない。疫病神のように思えてならない那波であった。
彼女の説得を聞き、ひとまずは落ち着いたように見える千里だが、溜飲が下がったわけではない。さりとてこのまま誠志郎に関われば周りはまた勝手に推測し話をでっち上げ、望まぬ方向へ持っていこうとするだろう。
しかし何もしないと言うのもどうか。それはそれでまた周りは話を膨らませるような気がするし、何よりこのまま黙って引き下がったのでは腹の虫が治まらない。
進退窮まる、さりとて手だてはなし。いらただしげに唇を噛む千里であったが。
「……いえ、ならばこういう手があるわね」
何かを思いついたらしくまなじりを鋭く変える。それを見た那波はまた嫌な予感に囚われた。
冷静になったように見えて、実の所どろどろと溶岩のような念に囚われたままである千里からの言葉を聞き、那波は眉を顰める。
確かに誠志郎とは直接関わらない。だからといって千里の考えが妙案であるとはとても思えなかった。
しかし結局言い負かされる。決して千里は弁の立つ人間ではないが、やはり主となればそれを立てねばなるまいという意識がある。
結局己は押しと意志が弱いのかと、那波は後々まで悩んだ。
さて、一部の女子は妄想逞しいお花畑を咲かせまくっていたわけだが、一方男子の方はと言えば。
「そんで、見城殿はどこに仕える気よ」
「……気が早い話だねえ」
集った一人に問われて、誠志郎は苦笑を浮かべた。
最近では誠志郎の周りにこうやって人が集まることも珍しくない。名も顔も大きく売れ、その上で実力は確か。色々と噂はあったが接してみれば人当たりもよく穏やか。となれば話をしてみようと考える人間も増える。
かてて加えて上級貴族からの接触もあり、どうにも気に入られている様子であった。近づいておこぼれに預かろうと考える人間も多い。前からその気はあったが、最早周囲に躊躇いはないようであった。
「確かに伝手は沢山出来たけど、まだどうこう言える段階じゃあないよ」
実際伝手が増えたからといって、それがすぐ仕官などに繋がるわけではない。家柄、品格、その他諸々。問われる部分は幾らでもあるし、これから見せ証明しなければならないことは山とある。だが実際、誠志郎が選べるかも知れない選択肢は多い。
公爵家や辺境伯家の後ろ盾、そうでなくとも一声あれば仕官の口には事欠かさない。かてて加えてあの腕前だ、武門なら欲しがるところも多いだろう。軍などの宮仕えになるには腕がかちすぎる面があるが、人格的にはむしろ周囲に合わせられそうだし、成長すればどこかの指南役等にも向いているかも知れない。
そして文官としての能力もそこそこあるとなれば、それこそ喉から手が出るほどに望むところも多い。慢性的な文官不足は地方であればどこでも頭を抱える問題でもあるし、場所さえ選ばなければいくらでも仕えるところはある。
「それにあの方々が後ろ盾になってくれるか、という保証はどこにもないし」
「またまたあ、見城殿を巡る恋のさや当て、きいておるぜよ」
からかうような口調で言う級友の言葉に、内心うんざりする誠志郎。
女子の間で密やかに語られていた噂は、そろそろ男子にも浸透し誠志郎の耳にも入ってきている。だが聞けば聞くほど荒唐無稽で現実離れした話だと感じていた。
聞こえている話だけで大まかにこのような物だ。
猿条家の令嬢が誠志郎に一方的に心を寄せている。強引な茶会への誘いはその証だ。
鹿野島の令嬢もまた誠志郎に惚れている。自分の物だ譲らぬと確かに言ったという話がある。
乾家の御曹司もそうらしい。誠志郎を巡る恋敵だと確かに言ったという話がある。
上記の三者だけでなく誠志郎に目をつけ始めた女子も多い。そろそろ水面下で取り合いが始まるはずだ。
などなど。
今までのようにまさかなどと流しはしないが、事実とここまでかけ離れる物かと呆れはする。
最低でも誠志郎からすれば千里からも来夏からも恋愛感情的な物を感じたことはない。誠志郎本人がまだ精神的に未成熟でそういった機微に疎いと言うところもあろうが、貴族における恋愛のいろは、常識。それくらいは言い含められている。それに照らし合わせて考えれば双方共に色恋沙汰的な意味で『狙われている』とは考えにくかった。
はっきり言って共に形は違えど『非常識』である。家の格が近しいものであれば分からないでもない行動であるが、正直こっちの腰が引けるような行動だ。
来夏はまだいい。彼女はあけすけで、自身の感情を隠そうともしない。本人を直に見れば誠志郎に対して恋愛感情などまだないと知れる。問題は千里で、彼女が何を考えているのか誠志郎はまるで理解できないでいた。
偶然か周囲の意図か、この時点で誠志郎は慈水と千明の話をまだ知らなかった。ゆえに余計千里の思考が読めない。もし知れば変な同情心を持ってしまうやもと幸之助などは懸念を持っていたが、せいぜい何でそうなると首をかしげて悩むくらいであろう。
「箸にも棒にもかからない男爵子息、しかも次男ごときに本気で入れ込むはずもないでしょ? 話創りすぎだよあの噂」
誠志郎だけでなく、大抵の男子の意見がこれであった。
夢見がちな一部の女子とは違い、彼らや下級貴族の女子などは以外と現実的である意味冷徹である。教導院で恋愛関係は将来的な物にも繋がるのだから。自身の立場、将来性、そういったものも考慮に入れ付き合いは考えねばならない。
完全に遊びでの付き合い、そういったものもあるにはあるだろう。が、そういったものは裏ではともかく表向きでは当然忌避されるしいい目では見られない。だから逆に千里や来夏のようなそれと分かる派手な接触は恋愛感情からの物とは考えにくい、そう言った考えになってくる。
結局、多くの者にとって噂は噂でしかなかった。口に上ってもそれはたちの悪い冗談以上の物にはならない。松之丞? 男色など少数派にもほどがある。それこそ一部の夢物語でしかないだろう。
が、全てが全て単なる噂かと言えばそういうわけでもなく。
「で、そこらの女子からの売り込みはどうよ?」
「……そこらへんは黙秘させて頂きたく」
済まして応えているように見える誠志郎の後頭部に大汗が流れているのを、周囲の者は見逃さなかった。
誠志郎に目をつけ始めた女子は多い。これは誇張でも何でもなかったりする。
文武両道、品行方正。これだけでも優良商品である上に、公爵家や辺境伯家の子女と友好的な関係にある。かてて加えて次男であるというところが良い。嫡子と違い婿にも取れるのだから。買い手は、幾らでもあった。
例えばこれが慈水の時のように、千里が感情を露わにし誠志郎を追いかけ回す、などという状態であったらば周囲の女子は関わり合いになるまいとしたであろうが、現段階では目をつけられているというのは分かっていても、精々が上級貴族様の変わった火遊びくらいにしか思われていない。本気で恋愛感情だと思っているのは妄想逞しい一部にしか過ぎないし、ましてや本当は逆恨みで行動しているなどと誰が思うか。周囲の女子を止める事情にはなろうはずもない。
そして、さすがの誠志郎もそろそろ自分の価値に気付き始めたわけで。
「(もの凄く面倒くさい立場だったんだ自分。兄上が許嫁の一人も連れてこなかったのはこういう理由もあったのかな、嫡子だったとしても油断も隙もない状況じゃないか)」
下手をすれば浮かれ騒ぐような状況であっても誠志郎は相変わらずで、流れる冷や汗を止めることも出来なかった。
兄より劣っている自分がこれだけ注視されているのだ。言葉を濁し魔境とすら断言するほどのこと、慈水が在籍していた当時はさぞ凄まじいことになっていたのだろうと勝手に思う。
無知からくる勘違いである。妙に縁が絡んでいる現状は慈水の時よりさらに酷い。後の世で誠志郎――鋼刃を評する一説に『良縁、悪縁。双方に恵まれた』との記述があるが、その鱗片はすでにこの時点で露わとなっていた。
その上で、さらに事態を複雑にする縁が待ちかまえていた。
無鎧流春川道場。
剣術道場というよりは帝都東部匠合会有力者の寄り合い所となりつつあるそこに、今日もまた客が訪れていた。
が、どうにもいつもと様子が違う。
「この者を、当道場に通わせたい」
そう言って神妙に頭を下げるのは、子豆家前党首子豆 浜一。
彼の斜め後ろに控え、緊張した趣で頭を下げる少年。誠志郎より一つか二つほど年下に見えるその少年は、浜一に促され言葉を発する。
「……【子豆 雪彦】と申します。どうかよしなに」
緊張してか、堅い。が、ぎこちなさの中に何か違和感を五郎左は感じ取る。その勘を遮るかのように、浜一は言葉を重ねた。
「子豆家の流れを汲むものにござる。以前より剣術に興味を持っておりましてな、儂が知る中でもっとも『ためになる』道場に、と」
「は、光栄な話ですが……よろしいので? 子豆家は【大羊】家と並び皇家の直従を務める家。武門と関わりにならぬが慣例ではないかと」
いわば皇家の使用人、執事とも言える二つの家は政の調整と雑務を一手に引き受ける代わりに軍務武門に関することは他の公爵家に任せていた。自然武を学ぶ機会も理由も全くと言っていいほど無い。
確実に何か裏がある。『道場の周囲に潜む複数の気配』は護衛なのだろうが、異様に緊張している様子が伺えた。
心当たりはないでもなかった。しかし「まさか」と言う思いもある。それほどに無茶苦茶なことではあったが……目の前の御仁が『それ』をやりかねない気質の持ち主であることを思い出し、五郎左の背筋に怖気のようなものが奔る。
もしやという思いを乗せ、睨み付けるような恨みがましい目で浜一を見れば、彼は得たりといわんばかりの笑みをにやりと浮かべてみせる。五郎左は自身の勘が正鵠を射たと確信した。
「……お戯れが過ぎますぞ」
真剣な声でたしなめようとするが、浜一はいたずらげな笑顔のまま。しかし目には真剣な光を湛えていた。
「そういった家の中にも一人は武に通じる者がいたほうが良い、というのが現頭首様の考えでしてな。武門――軍部を疎かにせぬという主張も要る、ということにござるよ先生」
「御前議会、いえ公爵家の間で色々あるとは聞いておりますが……それならば、真影でもよろしかったのでは? 指南役をないがしろにと言われるやも知れませぬ」
「……真影は最早武とは言えん。まことに長けたものは脇に押しのけられ、見てくれと謀略でのし上がろうとするものばかりよ。あれではただの貴族と変わらん」
ここで初めて感情を露わにする浜一。嫌悪感を隠さず吐き捨てる様子から、真影流となにやらよほどのことがあったのだろう。最低でも緊張で堅くなっている少年を預ける気にはならないらしい。
五郎左は大きく溜息。飄々としているように見えながら頑固で芯の入っているこの御仁が易々と前言を撤回するはずもない。手習い程度であれば大事にはならぬよなと、半ば諦め気味で話を受けるしかなかった。元の表情に戻った浜一に向かい、確認するように言う。
「お引き受けいたしますが……大したことはできませぬぞ?」
「なに、手習い程度で結構。幸いこちらにはこの者と近しい年頃の門下生もおられる。よき稽古相手となっていただければ」
はっとした表情になる五郎左。浜一の思惑に、気付いたようである。
「大胆というか、なにもそこまで……」
「こちらにも思惑あってのこと。近しき歳の者であったことこそ僥倖」
すまして応える浜一に、色々思いを巡らせながらも頭を下げるしかない五郎左であった。
そして誠志郎が呼び出され引き合わされる運びとなる。
「よいか誠志郎。くれぐれも、く・れ・ぐ・れ・も! 礼を欠くような真似をするではないぞ?」
「は、はいっ!」
鬼気迫る表情で言い含める五郎左。迫力に押されこくこく頷く誠志郎。くすりと笑みを浮かべる浜一は、そっと少年の背中を押し促した。
「子豆 雪彦だ。よろしゅうたのむ」
「は、こちらこそ」
居住まいを正して頭を下げる少年二人。浜一はその光景を微笑ましく見つめ、五郎左は複雑な表情であった。
ともかく初回は顔見せに過ぎない。細かい話を纏めた後、浜一たちは道場を後にする。
帰り、送迎の籠車の中。対面で座っている少年に向かって浜一は問う。
「して、いかがでしたかな。春川道場は」
少年の態度は先とあまり変わらず。しかしどことなく威厳が備わったようにも思える。
「雰囲気はよい。あとはどう教えてくれるかだろうな。そのあたりは期待させてもらうぞ大伯父殿?」
少年と浜一は間違いなく親戚である。浜一の妹、その娘が嫁ぎ先で産んだのが少年だ。
ただし嫁いだ先は現皇帝の後宮であるが。
皇帝継承権第三位。ただし妾腹の子であるためそれも名ばかりで、いずれは皇族の『予備』として大公家に組み込まれる予定の少年。その立場ゆえいままで表に顔を出すことはなく、皇家関係者や十二公爵家の人間くらいしかその顔を知らない。
彼はやっと緊張から解放されたとぼやきながら息を吐く。
「しかしあれが知る人ぞ知る名人か、帝都中の剣客たちが一目置き、大伯父殿が真影をさしおいて勧めるわけだ。……【仙人】や【天人】の類ではあるまいな?」
「相変わらずよくお見えになる『目』で。それはともかく今のところかの御仁人に相違ありますまい。将来的には分かりかねまするが」
帝都最強の男、その強さを見抜く目。異能に近しい感覚を持つ少年は、籠の鳥でなければさぞかし優れた人物になるやも知れないと、そう関係者からは思われていた。
本人はその事実をどう思っているのか、明確な言葉を口にしたことはない。口に出来る立場ではないとも言えるが。
「暇つぶしの憂さ晴らしと思っていたが、存外面白いことになりそうだ。汝の計略に乗り、暫し戯れさせてもらうぞ大伯父殿」
「御意」
楽しそうでありながらも、どこか諦観を含んだ笑みを浮かべる少年。その将来に飼い殺し以外の道はないと悟っているのだろう。
今は、まだ。
現皇帝第三皇子【雪割皇子】。
後に皇家と大陸を二つに割る男である。
その話を耳にしたとき、平八は噴き出した。
「よりにもよってそう来るか……」
頭痛を堪えるかのように額を抑える。取り巻きから聞き出した新たな話はこうだ。
松之丞は来夏を将来の伴侶にと考えている、あるいは平八にあてがおうとしている。と。
冗談ではないと思う。たしかに来夏は松之丞のお気に入りではあるが、どちらかと言えば強敵と書いて友人と呼ぶような間柄だ。さらに言えば平八は好きこのんでではなく渋々と言葉を交わしている。それを顔や態度に出すほど間抜けではなかったが。
「(想像力が旺盛な連中が多いな。あり得ないことだと考えれば分かる……)」
そこまで思って、自身の思考になにやら引っかかりを覚える。
現状を鑑み、深く思考して、平八は驚愕の事実に気付く。
「(あ、あれ? おかしい事じゃない!?)」
十二公爵家の中で武門である乾家と、国防の要である辺境伯鹿野島家。婚姻関係を結んでもおかしくない間柄である。互いの立場を考えても結びつきを強くしておくことは好ましい。
もし来夏の出自――後妻の娘である事が重箱の隅をつつくような連中にやいのやいの言われるようであれば、有力な配下のもとへ嫁がせるという手もある。例えば将来の軍師と目されているような人物の元とか。
そして、そのような前例はいくらでもあった。
かわいそうなくらい青くなり、だらだらと脂汗を流す。話を持ち込んできた松之丞の取り巻きたちは思わず一歩引いた。
恐ろしいのは話が広まることではない。与太話であるうちなら別にどういう話が広まってもかまいはしないのだ。問題はそれが事実になってしまった場合だ。
松之丞が嫁に取るのはまだ良い。だがもしも万が一自分にあてがわれてしまったとしたら……いや彼女の目的から言っても嫁入りするとは考えにくくしかし貴族の婚姻とは往々にして本人の意志を無視することは多々あることだしそうでなくともお互いの関係を良好に維持しようとして妥協し人身御供的に乾家からそれなりの人材を婿に出すと言うことも考えられるあれ俺の運命風前の灯火かもしかして。
脂汗を流し続ける平八。その身はかたかたと震え出す。その耳には「あ、荒岩殿!?」と声を上げて狼狽える取り巻きの言葉も届かない。
その日、平八はぶっ倒れた。
「いやはや、放っておくと話がとんでもない方向に行くものですなあ」
言って茶を啜る来夏。その態度はまるっきり他人事であった。
いいのかそれでと幸之助などは思うが、鉋は「姫らしい」といつもの不敵な笑顔でそう零すのみだ。
「知らない人間は勝手なことばかりいうものだからな。口に戸を立てられぬ以上話はいくらでも広がるものさ」
「然り。一々気にしていては身が保ちませぬ」
済ました顔で言う二人。お互い言い意味でも悪い意味でも目立つ存在だ。他人にああだこうだ言われた経験は枚挙に暇がない。要するに、慣れていた。
「しかし、人の色恋沙汰でこうも盛り上がるとはね。貴族の子女とは暇なことだ」
「実際は色恋沙汰ですらないのですが」
くく、と苦笑を浮かべる二人。確かに一見色恋沙汰とは無縁のようにも思える女傑たちである。
と、鉋が興味本位か、こんな問いを口にした。
「やつがれはともかく、姫の心を射止めるような殿方はどのような人物なのだろうね? 是非とも見てみたいと思うよ」
一瞬ちらりと幸之助の方を見るのは惚気なのだろうか。応える来夏は済ましたままで。
「幸之助殿ほどの殿方なれば確かに他は必要ありますまいが……そうですな、某であるならば」
ず、と茶を一口含む。
「己より強い者……とは少し違いますかな。某の野望を塗り替えるような人物、某に望むこと以上を見せてくれるような者、でしょうか」
「それはまた、高い壁だ」
単純に腕っ節を見せつけるとか言うより遙かに難しい。領国をつくるなどという野望を越えるような何かを成し遂げようとする者など、早々いるものではなかった。
「誠志郎君や乾家の御曹司ですらまだまだ、と言ったところかな?」
「心強い戦友か好敵手にはなるでしょうが」
我が琴線に触れるには未だ役者不足、茶目っ気たっぷりにそう言い放つ。詮無き噂も色恋沙汰も、未だ彼女を揺るがすには至らないようだ。
それに現在、彼女はそれどころではない。
「今は殿方より『こちら』の方が気になりますれば」
ちらりと視線を斜め上に向ける。薄暗がりの中佇むのは、赤銅の装甲を持つ機殻鎧。改修が終わった轟雷だ。
外観にそれほど大きな変更はない。両肩の装甲が内部に火器を内装したため大型化し、飛駆器と電磁動輪を装備した足周りが目立つ程度だ。
しかし操縦系は伏龍と同じように大幅な変更が行われ、自動姿勢制御や配置を背面動力下へ横置きに変更した烈火増強機構なども備えており、性能的には別物と言っていい。無論伏龍から得られた経験と試乗した幸之助や誠志郎の意見を元に改修を行っているので無理なく安定した仕上がりになっている。
幸之助による調整も終わり、あとは来夏が実際搭乗して最終調整を行うのみだ。そうなれば次は匠合会に乗り込み戦闘系の依頼をこなして実戦を積み重ねていくことになる。その記録は次なる躯体――完全なる新規設計の機殻鎧の開発、その礎となるだろう。
それが成功すればいよいよ匠に手が届く。鉋の野望に大手をかけることとなる……のであるが。
あることが脳裏を掠める鉋。自身が揺らいだわけでも不安に思ったわけでもない。だが。
ふと、聞いてみたくなった。
「姫、つかぬ事を一つ聞いてもよろしいか?」
「? なんなりと」
また恋愛関係のことであろうかと考えていた来夏であるが、鉋の問いは完全に予想外のものであった。
「貴女は、さんぜるまんという人物を知っておられるか?」
以前平八から向けられた問い。それをそっくりそのまま投げかける。なぜそんなことをと思いながらも、来夏はう~んと唸りながら応えた。
「おとぎ話の仙人、でしたか。帝国黎明期から時折現れ、他大陸の文化技術を持ち込み広めたり要人に助言を行ったりと、多彩な人物であったと。もっともその才の多さ、神出鬼没な行動から複数の人間がそう名乗っていた、そういう名をもつ一族であったなど色々な説があったと記憶していますが」
「ほう、博学であるな」
「こう見えて書物を読むのは好きな方ですので。……して、なぜそのような事を?」
「さんぜるまんは実在する。おそらく、な」
すう、と鉋の目が細くなる。
仙人、あるいは魔人と称される存在。通常人間は体内を含めた周囲の気を制御することは出来ても、取り込んで直接力とすることは出来ない。しかし、胆力が異常に優れていたり術を極めようとしたりする者の中にはまれに【仙骨】と呼ばれる一種の術式回路が体内に生じることがある。それを制御し内練――周囲の気を取り込み自身の力として変換することが出来るようになれば、身体能力の大幅な向上はおろか生命力の活性化により若返り、不老化現象すら起こすことが可能だ。特に術師としては限定的ながら天候気象すら制御することもできるほどに、桁違いの能力を手にすることが出来る。それが仙人だ。
が、実際理屈の上ではと注釈がつく。仙骨が生じる、という段階まで至った者は確認されているが、内練を極め仙人まで届いた者は皆無に等しいと言われていた。大概はその前に寿命を迎えている。
しかしやはり不老や天をも操る力というものは魅力的らしく、多くの術師が未だそれに挑んでいる。陰陽寮ではそれを研究する専門部署があるほどだ。ただ一般の人間はそこまで知るものは少なかった。まさしくおとぎ話の住人でしかない。
「俄には信じられぬ話……と言いたいところですが、確証がおありで?」
「推測と状況証拠といったところか。所詮は眉唾物の話にしかならないな」
「……よければ、お聞かせ願えないでしょうか」
「なに簡単なことさ。最低でも公爵家以上の者と陰陽寮のお歴々はその存在を確信している。証拠らしきものを突きつけられたよ」
以前交わされた平八との会話を思い出す。
「表沙汰に出るものではありませぬが、政府の公式記録にその存在が、しかと」
暗に機密資料の存在を明かし、それに目を通したことがあると言っているようなものだがそれは置く。そもそも確証がないのに賢者気取りの陰陽寮が専門部署まで創って研究しはしないだろう。
その上で平八はこう言う。帝国の歴史上の要所、そこに必ずさんぜるまんの影があると。
「大陸平定、中央大陸の侵攻、大結界の形成。技術で言えば銃火器、術式回路、酒精分解式発動機、内燃機関、そして……機殻鎧。それら全ての事柄、その関係に必ず名が刻まれておりました。陰陽寮が調べた形跡もあります。彼らの手をくぐり抜けるなどなまなかなことではないかと」
はっきりと名が記されていないのにはいくつか理由がある。まずさんぜるまんは歴史の基点に直接関わっていない。大概は助言者として当事者たちにきっかけを与えただけに過ぎなかった。それだけで様々な状況やものを産み出す当事者たちの才に注視され、結果さんぜるまんの存在そのものは目立たなくなる。
そしてあとは調査した陰陽寮の面子というものだろう。調べましたが詳細は分かりませんというのは彼らの自尊心から言っても認めたくない事実である。しかし相手は未だ届かぬ極みの先にいる存在、容易い相手ではないと言うのもまた事実であった。
結局その存在は誤魔化される。それもまたさんぜるまんの計算の上であったとすれば……と邪推してしまうのもやむかたない。
長くなったが、とにかく帝国の歴史上重要な部分には常にさんぜるまんの影があった。であるならば逆に考えると。
歴史を変えそうな図抜けた技術が生じたところには、彼が関わっている可能性があるのではなかろうか。
平八はそう推測したのだ。そして、歴史を変えそうな技術を産み出したものは目の前にいた。以前から抱いていた疑問を解決する手がかりになるやも。そう言う思いがあった。
果たして鉋には――
「心当たりがあるのさ」
来夏に言いながら思い浮かべるのは、飄々とした白髪の男の姿。
どういった伝手なのかは知らないが鉋の故郷にしばらくの間居座っていた男。当時護衛を務めていた幸之助を引きずり回しながら、奇抜な発想による道具機構を作り上げては周囲の人間からたしなめられていた日々。そんな彼女にちょっとした助言を与え、自信をつけさせてくれた人物。
故郷を飛び出し母方の姓を名乗っている鉋の今現在を作ったと言っても過言ではないその男の行動は、さんぜるまんのそれと酷似していた。
「この道を志したのは間違いなく己の意志だ。だが上手く乗せられたような気がしてあまりぞっとせんな。……その上で聞こう。姫に心当たりは?」
自分と同じように新しい技術を産み出した、自分とは違う形の『天才』に問う。
来夏が思い浮かべるのは、血にまみれながらも笑みを浮かべる姉とも慕った人物。自分が今の自分になったきっかけと言えばそこだ。おとぎ話の仙人の影などない。
「あいにく某にはそのような出会いはありませんでしたな」
すました表情は崩れていないが、どこか苦みを感じているような気配が口調から漏れている。鉋は「そうか」と気付かないふりをした。
「ま、この話は置いておくか。どのみち賽は投げられ丁半差し出してるところだ、今更引っ込められんしする気もなかろうお互い。これから先、忙しくなる。些末ごとをいつまでも気にしている場合でもないしな」
「ですな。まずはこの躯体使いこなせるようにならねば……」
思考を切り替えた二人は、轟雷の運用について話を詰めていく。
彼女らは過去を振り返りはしても立ち止まることはない。がむしゃらに前に進んでいく。
その目に迷いはないように見えた。
一部で盛り上がり、院内に広まっている色恋沙汰の噂。
そこに新たな話が一つ加わることになった。
ざわめく群衆。遠巻きに見守られる中、堂々と歩むのは猿条 千里。
そしてその隣に並んで歩く伊上 力丸。端的に言って異様な光景であった。
貴族の場合並んで歩くということは、同格か近しい立場だとお互いが認めている証しである。だが現状、公爵家令嬢と子爵家子息ではあり得ない光景であった。よほどの事情でもない限りは。
が、最低でも千里にとってはよほどの状況なのである。何しろ(一方的な)怨敵と噂とはいえ恋仲などと。虫唾が奔るでは済まない。
しかしなまなかな手段では噂を払拭することは出来ないだろう。そこで彼女は考えた。ぬぐうことが出来ないのであれば上塗りすればいいのだと。
取り巻きではだめだ。必要なのは地位ではなく、誠志郎の存在をかき消すような心理的な衝撃。そういった人間の心当たりは、一つしかない。力丸に白羽の矢が立つのは千里にとって当然の帰結であった。
対する力丸の方であるが、彼は最早千里は当てに出来ぬと思っていた。
何しろ大きな口を叩いて敗北したのだ。正式にと言うわけではないが上手くいけば千里から後押しをと交わされていた密約はご破算、相手にもされないであろうと自ら関わりを断とうとした。
周囲はわりと先の仕合を評価し、力丸の株はかなり上がっていると言っていい。だが本人はそんなものに目もくれなかった。敗北が、その事実だけが彼の心に巣くっている。周囲の賞賛など慰めにもならない。
そんなおりに千里から声をかけられた。最早己に用はなかろうにと気が進まないまま話を聞けば、誠志郎に対抗するため側付きとなってほしいと言われる。
一も二もなく話に乗った。色恋沙汰などに一切興味のない力丸であるが、千里が未だ誠志郎にこだわり絡んでいくつもりならばその側にいる価値がある。絡んでいくうちにまた誠志郎と競う機会があるやも知れないからだ。
奴と再び刃を交え勝つためならばなんでもする。かなり無茶な千里の申し入れを承諾し肩を並べて歩く力丸の頭の中には、見当違いの復讐心で占められていた。
執念深い二人である。ある意味お似合いと言えばお似合いであった。外観だけで言っても千里はまごう無き美少女であるし力丸も独特の雰囲気はあるものの顔の作り自体は端正と言ってよく見てくれは悪くない。そんな二人の行動に対する周囲の反応は様々で、大概のものはまた何か奇矯をやらかしていると呆れ気味であったし、一部のお花畑な令嬢達は見初めて乗り換えただとか失恋しその心の隙間を埋めるためだとか他の男と接近し誠志郎の危機感を煽るためだとか色々と妄想を炸裂させている。
だが、全く別な考えを持つものたちも現れ始めていた。
「……良いご身分ね。公爵令嬢ともなれば男はよりどりみどりってわけ?」
「しかも最近名が売れている二人に真っ先に粉をかけるとか、上級貴族が聞いて呆れる尻の軽さだわ」
物陰から千里達の様子を伺う複数の視線。下級貴族の女子達であった。
彼女らの視線には険があり、言葉には毒が含まれている。当然だろう、なにしろ極上の『獲物』をかっさらわれたのだから。
貴族の子女は大概教導院で伴侶を見つけると前にも示したが、男子と女子の場合では状況が違う。
貴族は基本女子の方が多いのだ。つまり一組ずつのつがいが出来たとしても、必ず『余り』が出ることになるのである。
運良く年代の違う相手と婚約を結べる……などというのは奇跡に近い。なにしろどの年代の状況は似たり寄ったりなのだ。運悪くあぶれたものは有力な家臣やあるいは大店の商人の子などを婿に迎えたり降嫁する事となる。それだけでも家の格が下がったと影で後ろ指を指される事もあるが、もっと酷い場合――次女三女があぶれた時には、そこそこ歳のいった有力貴族などのの妾にということになりかねない。
好きこのんで脂ぎった中年の妾になりたいと思うものはなかなかいない。家の教育で覚悟を決めているものも多いが、できれば同年代でと思うのが正直なところであろう。ゆえに、水面下での鎬の削り合いは熾烈を極める。
そして当然のことだが、誠志郎を巡っての動きもあった。色恋沙汰などという可愛いものではない、彼女らにとっては死活問題なのだ。だが来夏はともかく千里が絡むという状況がよろしくない。天下の政を牛耳る公爵家、その横紙破りは少女達の動きを鈍らせた。
頭角を現し千里からの無理難題を無難に乗り越え、やっと手を出せる出せるくらいに落ち着いた時点で今回の事態だ。人格的に問題のありそうな力丸であるが、向上心の表れともとれるし有望株には違いない。それが名と顔が売れた途端これとは。誠志郎と千里の確執とも言えない事情を知らなければ、破廉恥にも威光でごり押しし将来有望な者に手を出しまくっているようにも見える。
少女達は大した力もない下級貴族の子女である。千里に対して何かできるわけではない。精々がこそこそ陰口をたたく程度であろう。
だがその数は多い。そして彼女らの意見に同調する者は、さらに千里に反発心を持つ者は、それなりに存在するのだ。
微かな亀裂はゆっくりと広がっていく。
その隙間から、どろりとした何かが溢れ始めていた。
それは全てを腐らせる臭水か、全てを焼き尽くす灼熱の溶岩か。
次回予告
不穏な気配は濃くなっていく。
そんな中でも誠志郎は切磋琢磨を忘れない。己を鍛え、そして知らずのうちに皇子を導く。
来夏は高みを目指す。新たな刃を持って、己の価値を示さんとする。
歩みを進めようと、変わろうとする者がある。その一方で良くも悪くも変わろうとしない者もある。
誰彼構わず時は無情に過ぎていくのだが、さて。
次回『鍛えし刃鋼に映すもの』
切磋琢磨の砲火を散らす。
ガンダム新作キター!!
わりとガンダム以外はどうでもいい自分に気がついたが超合金ジェネシックガオガイガーは買いだ結局ロボ系節操なし緋松です毎度。
学園ラブコメだとでも思うてか! てなノリでちょっと捻った感じを狙ってみました。
大分前から分かっていると思いますが緋松はツンデレ(言葉を含む暴力系)ヤンデレ等が大嫌いです。千里の扱いが悪くなるのは当然の帰結自分で産み出しておいてそれか。
ともかくこれで現状の派閥的なものはできあがりつつあります。これが将来的にどのような影響を与えるのか、こうご期待?
このフレーズもそろそろなんとかしなきゃなあと思いつつ次回もよろしゅうに。




