九
かりかり、かりかり。
「…………」
堅い何かを囓る音。
教導院の一角、人目につかない裏庭の隅で、下働きの姿をした男が俯きながら自身の爪を噛んでいた。
その目はどこか遠くを見ているように焦点が合っていない。一見すれば心を病んだ人間にも見えたが。
「……ちっ!」
舌打ちと共に突如瞳の焦点が戻り、男は忌々しげな表情となった。
「勘のいい……式ごしの視線に感づくか」
懐から無線機のようなものを取り出して電源を切る。装札口から 複雑な術式回路が刻まれた札を取り出しへし折り、そこで何かを呟けば札は一瞬で燃え上がりあっという間に消し炭と化した。
思い通りに行かないことばかりだ。本来孤立させ、精神的に不安定にさせるはずだった『目標』は最初から孤高を保ち仕掛けに気づきもしない。逆に持ち上げて調子に乗らせ目標と亀裂を生じさせるはずだった『腰巾着』は自身の評価をあまり気にしていない。どちらかと言えば恐縮しているようだ。普通ならば自身を売り込むための鳴り物が増えたと喜ぶところだろうに。
あいつらはおかしいと、今更ながらに思う。しかも子供にしてはやたらと勘がよく、遠方からの式神による監視に気付くほどだ。どうにも手をこまねいていたが。
「まあいい、きっかけは掴んだ。ならば用意していた手を使うさ」
く、と唇を歪める男。腰巾着に舞い込んだ妙な誘い。乗るにしても反るにしても利用できる。
かり、と爪を噛む音が微かに響いた。
九・泥沼への誘い
不意に視線を彼方に向けた来夏の様子に、誠志郎はきょとんとした顔で問いを放つ。
「来夏様、いかがしました?」
「いや……誰かのぞき見している輩がいたようだが」
「ああ、またですか」
何でもなさそうに言う誠志郎の態度に、来夏はすう、と目を細める。
「ふむ、気付いていたか」
「というか最近あちこちから見られてるんですけど」
「人気者はつらいな?」
からかうように言う来夏の言葉に、人ごとではないんだけどなあと肩を落とす誠志郎。
そんな彼らの前に、玄米茶が入れられた湯飲みが差し出される。
「見ているだけなら特に害はなかったんですけどね。……ま、どうぞ」
笑顔ながらも少し困ったような気配を滲ませた幸之助から湯飲みを受け取り、誠志郎は一口飲んでから溜息を吐く。
「本当に……なんでこうなったんだか」
そんな誠志郎の様子を見て、部屋の主である鉋はくく、と笑い声を漏らす。
「因果応報と言う奴ではないかな? 君の行動が正しく評価され始めているということだろうさ。……しかし今回のは、ちと様子がおかしいね」
誠志郎が持ち込んだ相談事。それは勿論降って湧いたような茶会への誘いの事である。
普通なら、このような身分の差があり過ぎる誘いなどあり得ない。主催――茶席の座主が侯爵令嬢であるというのであれば、招かれるのは最低でも伯爵級。例えばその伯爵級の人物から目をかけられ座主に引き合わせ紹介するために誘われる、と言うことならあるだろう。逆に座主の立場でどうしてもというのであれば、適度な位の人物に話を通し、間接的に誘いをかけるようにするのが一般的だ。使者越しとは言え直接的に過ぎる前代未聞の話だった。
どう考えても何か事情がある。しかも結構厄介なのがだ。まるっきり愛想がないどころか完全に無感情を押し通した使者の様子から最低でも歓迎されていないだろう事は伺えた。
どちらにしろ誠志郎の選択肢は二つ、誘いに応じるか応じないか。いや、正確に言えば選択の余地すらない。
「誘いに応じるしかないんじゃないかな?」
「ですよねえ……」
再びの、溜息。
何しろ相手は天上人といってもいい、その誘いをどうして断ることができようか。下っ端の男爵次男風情が逆らえるはずもない。改めてその事実を叩き付けられ、誠志郎は暗澹たる気持ちにならざるを得なかった。
そんな彼の姿を見て、助け船のつもりか鉋が口を開く。
「いくしかない、となれば腹据えて進むしかないだろうさ。その、なんといったか、茶道の名人に指南してもらったのだろう? それなりの技術はあるのではないかね?」
どこから聞きかじったのかは知らないが、誠志郎が厳原 仙波の手ほどきを受けたということは耳にしているらしい。それが本格的な物ならよかったんですけどねと、誠志郎は疲れた様子で応える。
「厳原師からはたいしたことは教わっていないんですよ。師は父の気の置けない友人で、羽を伸ばすために北之浜に来てましたから」
むしろ積極的に茶の作法を教えるつもりはなく、恥をかかない最低限のこつを伝えるに止まっていたという。
厳原のような芸術や礼法等の道に邁進し、極め貴族にすら指南するような人間は文化人、あるいは芸人と称されていたが、それ以外にもこう呼ばれ、あるいは自称していた。【好奇者】と。
歌舞伎者という言い回しに近い、蔑称とも言える呼び方である。好きが困じて奇矯に走る者という意味だが、実際普段は済ました顔をしていても私事では結構『崩れる』者も多かった。厳原 仙波はそんな人間の一人である。
実のところ、誠志郎が見てきた厳原はほとんど私事をさらけ出した姿だ。言われなければ高名な文化人だとは気付かなかったに違いない。そして彼とのつきあいも茶の師事というよりは父の友人の相手をしていたというのが基本であったわけで。
「……まあ要するにですね、上級貴族の、しかも公爵令嬢なんていう存在を唸らせる礼法なんて、とてもじゃないが自信ありません。兄上ならともかく」
そもそもそんな才能があったら厳原から弟子入りを誘われたであろう。他人を心酔させるような技術など持たないとなれば、ただ恥をかきに行くだけのようなものだ。
そして、付け焼き刃で何とかなるようなものでもない。
「恥かき覚悟で行くしかないと言うことか。……ふむ、生憎そっち方面は最低限のことしか学ばなかったからなあ、某では役に立てないか」
腕を組んでむむむと唸る来夏。もとより彼女に期待はしていないし、頼れたとしても付け焼き刃以上のことは出来そうにないが。
これはもう恥をかきにいくしかない。誠志郎は腹を決めるしかなかった。
それはいいのだが。
「……しかしなぜ、自分は猿条のご令嬢から誘われたのでしょうね? 心当たりが全くないのですけれど」
首をかしげる。まったくもって寝耳に水の話だった。例えば自分に興味を持ったからとしても、先述したとおりもっとちゃんとしたやり方というものがある。今回の強引なやり方には何の意味があるのか。
ふむと考え込んでいた来夏が、不意に茶化すような笑みを浮かべこう言う。
「惚れられたか?」
「……まさか」
少し引きつった表情で即座に否定する誠志郎。身分違いの色恋沙汰など、創作の中でしかあり得ない。そう思うし、そうならないよう上級貴族の子女は前もって教育を受けているはずだ。もちろん実際にはどうだかわかりはしないが、全く接点がないし噂話程度で強引に誘いをかけるほどの興味を持ちはしないだろう。
であればどういうことだと考え込む誠志郎に、半ば面白がってあれこれ意見を述べる来夏と鉋。
そのような光景を見ながら幸之助は密やかに考える。
「(少し調べてみる必要があるな……)」
教導院敷地内、上級貴族用寮。
下級貴族のような集合住宅状だけではなく、最早一つの屋敷と言ってもよい規模の宿舎まで揃ったその一角。奥まったところにある最上級の宿舎に、猿状 千里は一時の居を構えていた。
彼女は今、座敷の一つで机に向かいなにやら書き物をしている。
書いているのはどうやら手紙のようだ。時節の挨拶から始まり近況を綴るその文体を見るからに、自身の家族に宛てたものらしい。
真剣な表情で筆を進め……ふとその手が止まる。そのまましばらく彼女は難しい表情で何かを考えていた。
しばらくそのまま思いにふける。と、横合いから湯飲みが差し出され机に置かれる。
「筆が進まないのでしたら、一息入れたらいかがでしょう」
声をかけるのは千里の侍従、那波。「……そうするわ」と応え、千里は茶を口にする。
玉露が喉から全身に広がっていくような感覚。彼女はほう、と息を吐く。
開け放たれた窓から聞こえる鳥の声。初夏の風が優しげに吹き抜ける。しばらくそう言った雰囲気に身を任せていた千里に、那波は感情のこもらない声をかけた。
「やはりお止めになる気はないのですね?」
その言葉に、千里は眉を顰め不機嫌さを表す。
「当然よ。今更何を」
「何度も申しますが、姫のなされようとしていることは逆恨みの自己満足。天下の政を司る一角猿条の紋を背負うものとして、相応の行為とは思われません」
「それでも、よ。例え家名に泥を塗る事になろうとも、許すつもりはない。いえ、私が許せないのよ」
ぐ、と湯飲みを持つ手に力を込める。非力な彼女の腕では軋ませる事すら出来はしないが、気持ち的には粉々に砕いてしまいたいような、どろどろとしたものがわだかまっている。
千里にも分かっている。己のやろうとしていることが、ただの八つ当たりであると。その程度のことが分からない暗愚ではない。
だがしかし。
「……太陽は陰り、珠玉はその輝きを失った。それがあるいは自業自得といえども、私はそんな光景は見たくなかった。これは私の我が儘。愚かな娘と言われようとも引くつもりはないわ」
主の言葉に、従者はこれは止められぬと諦観する。人としても女としても未辱、しかしながらその覇気と強い意志は紛れもなく上級貴族のもの。問題はそれを向ける方向が見当違いであると言うことだ。
例え己が命をかけたとして止まるか。いや命をかけるにしては割が合わなさすぎる。これが主の命が関わってくるなら必死にもなるが。
ふう、と密かに那波は息を吐く。件の少年には馬に轢かれたとでも思ってもらうしかあるまい。無事事が済めば何らかの詫びを入れよう。そう考える一方で、那波はそもそもの原因となった事態を思い返していた。
八年ほど前のことになる。
とある公爵令嬢が教導院に学徒として訪れた。それ事態は全く持って普通のことで、特筆することなど何もない。最上級の貴族と言うことで丁重に扱われたが、それだけだ。
だが、彼女が一人の学徒を見初めたことから問題が起こる。
その少年は入学してから三年目の、順調にいけば当年で卒院する下級貴族――男爵家の長男であった。確かにすらりとした体躯、穏やかで慇懃な物腰、そしてそれなりに見目麗しいとなれば異性の目を引くだろう。実際彼は異性からかなりの人気があった。ただ長男、家の跡取りとあって接触してくる人間は限られていたし、目をつけた女性たちが互いに牽制や足の引っ張り合いなどして踏み込んだ関係になるものはいなかった。
そして、偶然少年を見かけた少女は恋に落ちる。一目惚れであった。普通であれば、あまりの身分の差にその思いを諦めるだろう。一時の戯れと割り切るのであれば、裏で手を回し回りくどい手段を使って、密やかに間接的に接触を図ろうとするだろう。
だが、少女はそんな常識を踏み越えた。直接少年のもとに乗り込んで接触を図ったのだ。これには少年はおろか周囲も驚愕した。礼節も慣例も一足飛びに乗り越えたこのような行動は前代未聞。常識を弁えているのであれば横紙破りどころではないと分かろうものを、貴族の頂点に近い立場の人間がやってのけたのだ。騒ぎにならないはずがない。
勿論少女の周囲はおろか教導院のお偉い方も、行動を控えるよう懇願した。しかし恋は盲目ということか、少女は留まろうとはしない。むしろ障害があることによって余計に執念を燃やし少年に入れ込み始める。
幸いにして、少年の方はわきまえていた。互いの立場、現状を冷静に把握し、のらりくらりと少女の猛攻を回避して、周囲の期待通りに無事教導院を巣立っていった。(その代わりと言っては何だが、周囲の女性からは完全に敬遠され、婚約どころか色恋沙汰に発展することもなかったようだ)関係者たちは諸手をあげて喜んだが……それですまないのは少女の方だった。
意気消沈というのも生やさしい落ち込みよう。まるで灯が消えたかのように精気を失い、幽鬼のごとき様相で日々を送る。確かに本気であったに違いない。が、それほどまでか。周囲はなんとか励まそうと様々な手を尽くすが芳しくなく、時間が傷をいやすこともせず、少女は失意のまま教導院を去った。その傷は未だに癒されておらず、かつての少女は見合いの話も受けずにふさぎ込んでいるという。
そんな散々周囲を引っかき回した挙げ句勝手に一人で落ち込んで去っていった少女の名を【猿条 千明】、災難を受けなおかつそれを乗り切った少年の名を【見城 真一郎】といった。
「(つまり姉の仇とでもいうつもりかね。……逆恨みもいいところじゃないか)」
過去の事情を知る者たちの口を様々な手管で割らせ話の根幹は見えた。それに少々の頭痛を覚えて幸之助は俯き加減で額を指で押さえる。
創作であれば珍しくもない身分違いの恋。だが現実にそれが成就することなどありえない。あったとしても、それは不幸を呼ぶ要因にしかならない。見城の長男はそれを即座に理解し適切に行動をした。だが猿条の次女は未だそれを理解しておらず引きずっている。
責も非も、猿条の娘にしかない。それが分かっていて事に及んだのであれば愚物としか言いようがない。地位があってなおかつ愚鈍であるというのであれば、関わってはいけない類の人間である。
ゆえに。
「(状況によっては誠志郎君とのつきあい方、考えなきゃあねえ)」
かなりあっさりと、誠志郎を切り捨てることすら想定に入れる。
はっきりと言ってしまえば、この時点で幸之助にとって大切な人間とは花島 鉋ただ一人であり、それ以外は鉋に累を及ぼさなければどうでもいいと考えていた。ゆえに友誼を交わした人間をあっさり切り捨てるという発想ができるのだ。同時に、そうなれば鉋は悲しむとまではいかないが失望するであろうと言うことも理解できる。だから幸之助は切り捨てるという手段を最後のものとした。
さてそれならば、己が得た情報を誠志郎に伝えるのかどうか、ということなのだが。
「(……言わない方が、いいだろうなあ)」
微妙に人が良さげなあの少年のことだ、背景を知ってしまえば逆恨みと分かった上で同情しかねない。上級貴族に対してそれは悪手だ。やもすれば自尊心を逆撫でし、状況が悪化することもありうる。下手を打てば最悪物理的に首が飛ぶ。
つらいだろうが、ここは自力で乗り越えて……とも言っていられない。なにせ相手は見当違いの逆恨みで、しかも権力にものを言わせて人に恥をかかせようとたくらむような相手だ。たとえこの場を乗り切ったとて、その後ますます恨みを募らせちょっかいをかけてきかねない。そうなれば鉋に累が及ぶやもしれぬ。
手を打つしかないだろうなと、幸之助は判断する。彼に権力はない。だが当てはある。
目には目を、上級貴族には上級貴族を。
その話を聞いた五郎左は、苦笑を浮かべてこう言った。
「因果よな」
かつて真一郎――慈水に降りかかった災厄の事は知っている。なにしろ本人に相談を受けたのだ。一年近くもの間、てんやわんやとしていたのは今でもはっきりと覚えている。慈水が卒院し教導院を去ったことで騒ぎは収まったと思っていたが、まさかこんな形でぶり返すとは。奇縁とはこううものなのだろうなあと、しみじみ思う五郎左であった。
しかし猿条の娘というのは、揃いも揃って自分に酔う性なのか。確か長女は婿を取っていたはずだが、そのあたりについて詳しいことは分からない。が、次女の場合は本人がわきまえ行動していれば避けられた話であるし、今回のことはどう考えても逆恨みで八つ当たりとしか見えない。上級貴族としての自覚と矜持があればまず行わない、自身の思いを、意志を押し通す事が優先という自己中心的な行動である。
世も末かと思う。権力を笠に着て横暴を働くものなどいつの時代もいるが、天下の政を司る公爵家の令嬢まで愚行に走るか。これが成人し、もしも政に関わって横暴ぶりを発揮したら……そう考えればぞっとする。女性だからと言って油断は出来ない。伴侶を裏から操る女傑などいくらでもいるし、これから先、政の場に女性が進出しないとは言い切れないのだから。
「せんせー、お茶が入りましたよー」
「……おう」
考えにふけっていた五郎左に、茶を入れたなずなが声をかけてくる。茶菓子の入った器と急須、湯飲みを運びながら、なずなは重ねて声をかけた。
「難しい顔して、一体何を考えていたんですか? 誠志郎ちゃんも道場に籠もりっきりですし」
誠志郎を弟のように思っているなずなは、彼を子供扱いする傾向にある。時折ちゃん付けで呼ぶのはその証と言えた。それはともかくとして、五郎左は彼女から受け取った湯飲みに口を付けてから応える。
「なに、教導院でちょっとした揉め事よ。助言はしておいたが……さて、どうなるか」
誠志郎からもたらされた相談には乗った。が、裏の事情は告げていない。五郎左もまた幸之助と同じく誠志郎の性格に危惧を覚えたらしい。
道場の真ん中で静かに座し精神を統一しているように見える誠志郎は、すでに最悪己一人が恥をかけばいいと一種の開き直りとも言える心持ちだが……果たしてそれで済むだろうか。七、八年もうじうじしている次女の事を考えれば、三女もまた執念深い性格をしているやもしれぬ。いや、そう考えておいた方が良い。
「(気は進まんが、手を打っておくか。……『あの方』に借りは作っておきたくはないのだがなあ)」
兄弟揃って面倒な事よ等と思いながらも、どこか楽しそうな表情となる五郎左。
そんな彼をなずなが不思議そうな顔で見ていた。
そして無情に時は流れ、当日。
上級貴族用区域の一角、茶席用の庵に誠志郎の姿はあった。
「お初にお目にかかります。某が見城 誠志郎にございます」
獣脅しの音を背に、座して両の拳をつき頭を下げる。格好は糊をきかせた制服姿。脇差しは腰に差しているが袱紗に包まれ封が施されている。武門の者であるという主張と敵対する意志はないという事の双方を示した証だ。同時に自らこの場にふさわしくない者であるというささやかな主張をしているともいえた。茶の席に得物を持ち込むなど無粋、そうとる者もいるが、逆にそう思わせることによって己の立場は無粋な下位の者であると示しているとも取れる。面倒なことだがこれも一種の様式だ。自分自身は武人のつもりはないのだけれどもなあと、内心思っていても顔には出さないくらいの分別が、誠志郎にもあった。
「本日はお招き頂きありがとうございます。このような場に参席の機会を与えて頂き、感謝の極み」
頭を下げたまま、心にもないことを口にする。それが分かっているのかいないのか、座主は柔らかく微笑みながら応えた。
「よくぞおいで下さりました。座主を勤めます猿条 千里と申します。本日は無理を聞いて頂きありがたく。感謝いたします」
同じく心にもない言葉が返される。いや、よくぞ参ったというのは本心であった。ただし罠を仕掛けて待ち受ける猟師の心境であったが。
千里の目論見は周囲の予想と大差ない。誠志郎を笑い者にする算段だ。例え薫陶の内容がどのようなものだったとしても、一流の文化人に学んだその腕が看板ほどのものではないとすれば、物笑いの種には十分だ。そしてその作法が看板以上のものだったとしても……今回の席に招いた誠志郎以外の者たちは、上級貴族の子女の中でも茶の道に通じている者たちで、なおかつ自尊心の高い者ばかりだ。下級貴族の次男ごときが自身よりも作法に長じていると見れば、自尊心を刺激し対抗心や嫉妬を生じさせる者もいるであろう。教導院内で上級貴族にそのような形で目を付けられれば……過ごしにくいことこの上ない。どちらに転がっても、誠志郎の肩身は狭くなる。それが千里の狙いだった。
幼稚である。策ともいえぬ、ずさんで穴だらけの企み。だが千里はそれが上手くいくと思い込んでいた。
彼女にとって誠志郎は憎い仇の身内。その評価はとてつもなく低かった。実情がどうであろうとも千里にはそれが見えていない。姉を深く傷つけた外道の身内である愚物、としか思っていない。
一方的な憎悪と思いこみが目を曇らせている。そして彼女は今まで大きな失敗をしたという経験がない。蝶よ花よと育てられ、周囲の補佐や手助けなどが過剰なまでに与えられつつ生きてきた。願ったことは必ず通じ、叶わなかった望みはない。だから自分の行うことは必ず成功すると思っている。
座に出席している者たちと挨拶を交わしている誠志郎の姿を見ながらほくそ笑む。千里は誠志郎が『上手く切り抜ける』なんてことは想像もしていない。
一通り面通しが済めば、いよいよ茶を点て振る舞う段に移る。釜が火にかけられ、控えていた那波が桐箱から茶器を取り出し、主へと差し渡す。その茶器を見た参列者の一人が呟くように言う。
「【虹鮑焼】とは……」
鮑の類似種である貝類の一部には、殻の裏側が碧を基調とした虹を思わせる光沢を持つ美しい様相になっているものがある。その貝殻を模倣した焼き物があった。それが虹鮑焼だ。
貝殻それ自体も希少であり高価で取引されているが、虹鮑焼の茶器は比べものにならないほどの価値を持つ。さすがに領一つの価値を持つ名器とまではいかないが、帝都で一般的な貴族の屋敷程度の価値はある。いくら公爵令嬢とは言え子供が持つものではない。
それを見た誠志郎の表情が、微かに変化した。目敏い参列者がそれに気づき、少し興味を引かれたのか問いかける。
「おや、見城殿はあれをご存じで?」
誠志郎は神妙に応える。
「は、一度厳原師が所有していたものを目にしたことがありまして」
しめた、千里は内心の笑みを深める。実家から無理を言って借り受けたかいがあった。この茶器を見知っているならその価値も分かるであろう。下級貴族では滅多に手にお目にかかれないような代物だ、扱いも慎重にならなざるをえず、作法に対する集中力も削がれるであろう。失態も起こしやすくなると言うもの。
しかし誠志郎の内心は、千里の想像していたものとはかなりの隔たりがあった。
「(厳原先生あれどんぶり代わりにして酒飲んだり茶漬け食ってたりしたんだよなあ……)」
下手をすれば中古の機殻鎧が購入できてしまう値段の茶器をぞんざいに扱っていた好奇者の姿を思い返して、複雑な気持ちになる誠志郎。価値は分かるし厳原のようにぞんざいに扱う度胸はないが、遠慮や気後れなどとはほど遠い心境である。ある意味薫陶が効いているとも言えた。
そして、宴が始まる。
茶を点てる亭主は無論千里。名器に恥じぬ堂に入った作法で器を満たす。
順に茶が振る舞われ、参列者たちは非の打ち所のない作法で茶を味わう。顕示欲などで参加した者も多いが、上級貴族でもなかなかお目にかかれない名器で振る舞われる茶だ。それに内心戦々恐々とする者もあれば、名器の鮮やかさに心を奪われそうになる者もいる。それを表に出さないのはさすがと言うところか。
順に滞りなく会は進み、いよいよ誠志郎の番となる。
周囲の視線が突き刺さる中、茶を喫する誠志郎だが。
「「「「「(………………)」」」」」
作法が完璧なわけではない。芸術のような美しさがあるわけではない。
だが迷いがない。洗練された動作ではないが無駄がなく、やもすれば機械的にも思えるがなんというか……違和感がなかった。
まるで場の光景に溶け込んでいるような、自然な作法。見惚れるものは何もないが、文句の付けようもない。一連の流れが滞りなく行われて。
こん、と獣脅しが響くと同時に深々と頭が下げられた。
「結構なお手前でございました」
「……いえ、不調法でお恥ずかしい限りでした」
言葉が交わされ、周囲からほう、と安堵とも何ともつかない微かな息が漏れる。一瞬だけ千里が苦々しく表情を変えたが、それに気付く者はほとんどいなかった。
周囲の反応を感じながら、誠志郎は心の中で安堵する。
「(やれやれ、何とか上手くごまかせたかな?)」
実際、誠志郎が持つ技術は大したものではない。細かな作法の誤りなどいくつかあった。それを見とがめられなかったのは、細かい失態に気をとられず流れるように一連の作法をこなしたこと、そして己の気配を周囲に溶け込ませたこと。それが原因だ。
動作の基点としたのは獣脅しの音。一定の拍子で刻まれ座の全員の耳に入るそれに合わせて全ての動作を行う。同時に気の流れを制御し自身の気配を希薄にした。これにより周囲からは印象が薄く感じ取られ、なおかつ作法に乱れがないように見せることが出来る。これで作法の誤りなどに気付きにくくなるのだ。
上手く見せるのではなく、違和感が感じ取れなくなる技術。褒め称えられはしないがどのような席に呼ばれてもごまかしがきくそれが、厳原から学んだ『恥をかかないこつ』であった。
これがただ茶道を習っていただけならばこうも簡単にはいかない。気の流れ、気配を制する武人としての鍛錬があったからこそのものだ。だからこそ厳原もこつを教える気になったのであろう。
この茶会において誠志郎の評価は大まかに二つに分かれた。なんだそれほど大したことはないではないかという、ある意味正しい見方をしている者と、自身の技術を押さえ参加したものたちに恥をかかせない気配りが出来るのかという、微妙に買いかぶった見方をしている者だ。どちらにしろ必要以上に誠志郎を侮る者もいないし、敵視するほど機嫌を損ねた者もいない。むしろ僅かではあるが株を上げた感があった。
最低でも表面上は穏やかに茶会は終わりを迎える。和気藹々と言葉を交わし、名器で味わった茶の余韻を噛みしめながら座を辞する参加者たち。中には誠志郎を囲み、積極的に話しかけている者もいる。
少し困ったような顔をしながらも、丁寧に応対している誠志郎。
その姿を見ている千里は、周囲に分からぬようぎりりと奥歯を噛みしめた。
さてその日の夕方である。
春川道場に一人の来客があった。
「……これはこれは、まさかこちらにおいでなさるとは思いませなんだ」
珍しく神妙な顔で頭を下げる五郎左。対峙しているのは高齢の男性である。
痩せてはいるが不健康な様相ではなく、それなりに精力に満ちていることが伺える。男性はかかかと笑い声を上げ、上機嫌に応えた。
「なに、先生から相談事とは珍しいことですのでな。矢も楯もたまらずまかりこした次第」
からかうように言う男性の様子に「まこと恐れ多いことで……」と恐縮する一方の五郎左の様子を影から目を丸くして見ているなずな。
「(せんせがあすこまでへりくだる相手って……)」
横柄とまでは言わないが近隣匠合会の会長すらも気安く呼びつける(ように見える)人物である。その五郎左に頭を下げさせる老人は一体何者なのか。
もっとも当の本人は。
「隠居にそう気を遣うものではありませんぞ? それに周りはこの老人になんやかんやとつまらぬ話を持ちかけてきて、このところ窮屈しておった。気晴らしにはちょうどよろしかろう。……ま、一献傾けながらお話を聞きましょうぞ」
茶目っ気たっぷりに指で杯を傾ける仕草をする。偉ぶるところのない気さくな様子であった。
それで緊張がほぐれたというわけではないだろうが、五郎左は「これは気付きませんで」と苦笑を浮かべ、なずなに声をかける。
「これ、又三に捌いてもらった鰻があったであろう。あれを白焼きにしておくれ。粉山椒と山葵、豆油をつけてな。それと冷や酒を銚子で頼む」
「あい、分かりましたよう」
返事をして台所に向かうなずなであったが、その背にさらなる声がかかった。
「そうそう、そっちが終わってからでいい、後で誠志郎を呼んできてはくれんか」
「誠志郎ちゃんをですか? はあ……?」
道場に訪れた剣客たちなら、夕食や酒の席を共にさせたことはある。が、剣客でもなさそうなこの老人に誠志郎を引き合わせる意味とはなんなのだろうか。青田買いをさせるつもりでもあるまいしと、首を捻りながら台所へ向かうなずなであった。
酒と会話が交わされ始めしばらくして、誠志郎が現れる。
「お呼びでしょうか?」
「おお、来たか。早速だがこちらの御仁はな……」
「春川先生の友人である隠居のじじいじゃ。ま、よろしゅうな」
紹介しようとした五郎左を制し、悪戯げな顔で宣う老人。その影でこの御仁はと額を抑える五郎左。
怪訝な顔をする誠志郎に対し、老人は人好きするような笑みを浮かべて語りかけた。
「たまさか先生の元を訪れたら、なんぞ教導院で難儀した居候がいるとの話を耳にしたのでな。昨今の若い者の動向にも興味があることであるし、このじじいにちと話を聞かせてはもらえぬか?」
「は、はあ……」
困惑して五郎左のほうを見れば、好きにせいとばかりに手を振られた。困惑は解けないが、五郎左の態度と楽しそうに話を待つ老人の様子に無言を貫くわけにも行かず、誠志郎は自身に降りかかった災難のことを語り出す。
この目の前の老人が、十二公爵家筆頭【子豆】家の先代頭首にして、御前議会のご意見番である【老】の代表を務める人物、【子豆 浜一】であるということに、誠志郎は全く気がついていなかった。
平八は困惑していた。
いきり立っている目の前の主候補の姿に。
「許せぬ話だ、そうは思わんか?」
「し、然り。(どこのあほだァ! このぼんくらに余計な話吹き込んだのは!)」
適当に相づちをうちながら、平八は内心で憤慨する。こうなるだろうと思って件の話を耳に入れないよう配慮していたというのに。
件の話とは、勿論誠志郎が千里に無理矢理茶会に誘われた件だ。千里に敵愾心を持つ松之丞であれば必ず反応する。そこから何か行動を起こせば己が巻き込まれるのは必須。そんな馬鹿馬鹿しい諍いなどに巻き込まれるのはごめんだ。だからこそ話を伏せていたのだが。
「貴族の風上にも置けぬ横暴よ。このようなことがまかり通るのであれば、きゃつだけではなく貴族全体の誇りも権威も地に落ち、犬畜生と変わらぬと揶揄されるであろう。猿娘にはそれが分からぬと見える」
あんただって大して変わらねーよなどという本心を心の底に押し込み、平八は冷静さを取り繕って口を開く。
「お怒りはごもっとも。ですが今軽々しく動かれてはなりませぬ。動けばそれこそ猿条の令嬢と同じ穴の狢、くれぐれもご自重下さいますよう」
「分かっておるわ。俺とて事を無用に大きくしたいわけではない」
おや、と平八は意外に思う。てっきり怒りのまま暴走しようとするかと思っていたのだが。
「何しろ件の男爵次男は平穏無事に切り抜けたというではないか。俺が横やりを入れればそやつの苦労を無にするというもの。そのような愚行できるはずもあるまいよ。……まあ次があれば遠慮なく割り込ませてもらうが」
ぎょ、と目を剥く平八。今回はともかく次回は絶対に介入する気満々の松之丞であった。それどころか次にまた何かが起こると予測すらしている。いや確かに平八もこのままで済むのかと思ってはいたが、ここまで断言できる自信は何なのだろうか。
疑問に思い、つい口を開く。
「恐れながら、猿条の令嬢がまた事を起こすと確信しておられるようですが?」
「応よ、あの猿娘がこれで済ますはずがなかろう。恐らくは今頃歯ぎしりしながら次はどう難癖を付けようかと企んでおるわ。あれはそういう女だ」
根拠はない、だが異様に説得力のある言葉だった。
思いこみの激しさが説得力をもたらしているのか。そんな気もしたがかのお姫様が再び面倒を起こすのは確かに思える。言われてみれば確かにそう言う類の人間だろう、彼女は。
だとすればどうやってこのぼんくらを止めるか。いや、止めるのは無理かも知れない。ならばどう状況を軟着陸させるか。
そう平八が考える横で、主候補は不意に楽しそうな笑みを浮かべた。
「しかし……見城 誠志郎とやら、思った以上に面白い男のようだ。一度直に顔を合わせてみたいものよ」
幸か不幸か、その呟きが平八に耳に入ることはなかった。彼は彼で自身の考えに没頭していたから。
「(情報がいるな。動くのが前提であれば、動くときに少しでも有利であった方が良い。大義名分があれ
ばなおいいが……幸い貴族の流儀から逸脱したのは向こうだ。やりようはある。……それはそれとして、このぼんくらに情報を流した存在も気になる。こちらの取り巻き衆を経てのことだろうが……探ってみないとな)」
鳳の雛も動き出す。それがこの先吉と出るか凶と出るかは――
まだ分からない。
松之丞の予想は、実に正鵠を射ていた。
周囲が暗く見えるような障気。それを放つ主の背を見てどうしたものだかと那波は考えを巡らす。
那波にしてみれば、今回の件は実に無難で穏当に終わったと、そう思える。それが一番難しかった――なにしろ座を用意した本人がそうし向けたのだ――のだが、かの男爵家三男、見事に乗り越えた。個人的には素直に賞賛してもいい。
だが千里はそれで済むはずがない。的はずれな憎悪は解消されず、それどころかますます燃えたぎっている。先の言葉を自ら否定するようだが、男爵三男は上手くやりすぎた。もう少し周囲から侮られるよう手を抜いてくれれば、主の溜飲も少しは下がったであろうに。
とにもかくにも、現状の流れは余り良くない。入寮時にやらかした乾家嫡男との衝突。あれは向こうが引いてくれたおかげで事なきを得たが、その代わりに相手の株を上げこちらは下がった。今回の件でも快く思わないものはいくらでもいるだろう。ただ公爵家令嬢という立場が周囲の干渉を寄せ付けないだけだ。だがこれ以上下手になにか事を起こせば、さすがに教導院側も危機感を覚えるだろう。彼らとて八年前の蒸し返しなど御免被るであろうから。教導院からの干渉があれば、千里の立場は悪くなる一方だ。そうなる前になんとか留めなければならない。
一度本家に連絡を取るべきだろうか。だが娘に甘い現頭首と、娘にも厳しいが敵対する存在には容赦ない奥方がどう動くか。なにしろ二度にわたって娘に関わることになるのだ、放っておけば二の舞に……と考えてもおかしくない。下手をすればかの男爵家に圧力をかけ叩き潰そうとするかも知れない。まさか天下の猿条がとは思うが、有力貴族だから物わかりがよいというわけではないのだ。
幸いにして自尊心からか千里は現状を実家に知らせてはいなかった。だが情報などいずれ漏れ出るものである。それまでに事態が収まっていればまだしも、今の千里の精神状態を鑑みれば望みは薄いと言わざるを得ない。彼女はまだ、懲りていないのだから。
気晴らしに寮の周りを散策に、と連れ出しはしたが、千里は俯き加減で何かをぶつぶつ呟いている。「……今度は歌詠みで……でも口実が……」「……周囲にいる人間を買収して……」など端から漏れ出る言葉は結構洒落になっていない。さすがにいい加減諭すべきかと考えていた那波だが。
「っ!? 何者です!」
異様な気配。それを感知した那波は主の前に割って入り、袖の下で隠し持っている懐刀をいつでも抜けるよう構えた。
視線の先、気配の源。そこには教導院の制服を纏った一人の少年が、跪き頭を垂れている。
その少年は頭を垂れたまま、口を開いた。
「散策の妨げとなりましたこと、誠に申し訳ございません。某、北東部北海守護役皆藤家旗下子爵伊上が一子、伊上 力丸と申すもので――」
そこで顔を上げた少年――力丸の瞳に、なにか怖気のようなものを感じて那波は警戒心を強める。しかし。
「――無鎧流最強と謳われる剣客、春川 五郎左が内弟子、見城 誠志郎と雌雄を決したい、そう望んでおります」
その言葉に背後の千里がぴくりと反応したのを、那波は確かに感じ取った。
次回予告
様々な人々が動き出し、歯車はゆっくりと回り始めた。
そんな中、鉋は伏龍の一次改修を終えた。その試動を頼まれた誠志郎は再びその胸郭に身を収める。
数多の瞳が注視する中起動する伏龍、その新たなる能力とは。
次回『龍起、再び』
切磋琢磨の砲火を交わす。
茶の作法とかその他礼法とか筆者が知ってるわけないじゃない。
というわけでその辺は創作で独自設定となっております緋松です。
また話が進みませんでした。しかしどんどこフラグが立っております。主人公も知らないうちに(笑)果たしてそれが生きる日が来るのか!?
……立てるだけ立てて倒れないように頑張ろうと思う今日この頃です。
そして慈水兄さん実は女難の卦ありまくりという設定が今更。まさかそれが巡り巡って弟に降りかかるとは思うめえ。誠志郎君は乗り切れるのでしょうか。がんばれ。(他人事か)
さて次回は久々に機殻鎧が動きます。今度は一体どのような新機軸が詰め込まれているのか、こうご期待!?
そゆわけでまた~。




