第8話 ラスト・ディナーをあなたと
その日、バドルの屋敷の前は阿鼻叫喚の地獄となっていた。大使館前に以前来ていた人数、その倍以上の人達が、手に手に小刀やナイフを持って、祈りの言葉を叫びながら自ら首を掻き切っている。門前では使用人のホルンが、まるで人形のように固まったまま動こうともせず、彼らの返り血を浴びている。
降り注ぐ血の雨と、積み重なっていく死体達。その中で、氷のような視線を投げかける彼女の姿は、死出の旅路を誘う死神のようにも見える。
こちらが言葉を失い、ぼんやりとしていると、私達に気付いたホルンは、小さくお辞儀をした。だが、すぐに前に向き直ると、事の成り行きをじっと見守っている。
彼らの蛮行を、悲しい結末を、止める事などできはしない。彼らはただ、夏の終わりの虫けらのように死んでいく。やがて全てが終わった時、ホルンは死体を避けながらこちらに歩いてきた。もちろん服も髪もその顔も、人々の血にべっとりと濡れている。
「バドル様にご用事でしょうか」
「そうなんですけど……えっと……大変ですね……」
「ここのところ毎日こんな感じです。とは言え、デトラ全体の人口から考えれば、それほど問題はありません」
「その言いぐさ、ひどくないですか?」
少し冷たすぎる物言いに、思わず反論する。だが、ホルンは淡々と言い返す。
「我が国では、一年を通じてだいたい三千人ほどの自殺者が出ます。誰かが死ねと言ったわけではないのに、勝手に死んでいくのです。彼らもまた、そんな有象無象に過ぎません」
「あなたの大切なご主人様のバドルが自殺しても、あなたはそんな風に言うの?」
「バドル様が自殺なさろうとすれば、それは止めるでしょう。しかし、彼らは私にとっては何の関係も無い、名も知らぬただの市井。そんなものに、いちいち命を説いて自殺を止めろと?」
ああ、色々おかしいとは思っていたけれど、この国に生きている人々はみんな、おかしいのかも知れない。けれど、ひょっとすると私の方がおかしいのではないだろうか。
そんな風に考えて、首を横に振る。多分私は間違っていない。正しいんだ。そう思おう。
「私はこれから掃除をせねばなりません。申し訳ありませんが、奥のバドル様の部屋に案内するには、その後着替えたりと時間が掛かります。宜しければ、先にお二人だけ行って下さい」
「分かりました。カル、行くわよ」
「はい」
心の中で小さく祈りの言葉を呟きながら、できるだけ下を見ないようにして、屋敷の前にたどり着く。扉を開けて中に入ると、いつも通りそこには噴水が湧いており、瀟洒な邸内に涼しい風が吹いている。
「どれほど水不足だと騒いでても、ここに噴水がある間はまだ大丈夫ね」
「単にエフェスとしての意地だと思いますが」
「ま、その話もここまでにしましょう」
こくりとカルは頷き、静かな廊下をゆっくりと歩く。
どこで誰が見ているとも知れない。
今のところ、周囲に気配は感じないが、エフェスがもしラシケントのこの要求についてまで、筒抜けで知っていたなら、奇襲を掛けて私達を暗殺し、その首を送りつけて宣戦布告とすることも考えられる。
暗殺者がいちいち殺気を放っている事など、まず無いとは思うが、ほんの一瞬の油断が命取りとなることだろう。
だが、想像していたような事態は無く、普通にバドルの部屋の前にたどり着く事ができた。
扉をノックして、短い返事を確認すると、できるだけ静かに開けて挨拶をする。
豪華なアラベスクが施された部屋の奥の長椅子で、横になったまま、水煙草を吸うバドルが、面倒くさそうにこちらを見た。
「ダムの件について、報告に上がりました。是非長老衆であるバドル様にお話をしたいと思い、伺いましたところ、屋敷の入り口で少々揉めていた模様でしたので、私共だけ奥に通された次第です」
「形式的な挨拶などいらぬよ。それより、ダム建設について、どうせ飲めないような条件を持ってきた、と言ったところじゃないのかね」
いきなり図星を突かれ、どう答えてよいものか返答に困る。すると、バドルはにたりと笑いながら、そこに座れと促した。
「ラシケントの政府としては、ダム建設中止に対して、どういう条件を提示するつもりかね」
「えーっと……その……ですね……」
「先に言っておこう。ワシらはダム建設を中止しても、びた一文払うつもりは無い」
「え……」
「お前達が勝手に我が国を苦しめるようなダムを造り、我が国では見ての通り供物となる為の自殺が頻発している状態だ。むしろ、我々は賠償金をもらってもいいくらいだと思わぬか?」
「左様ですね……はい……」
「で、まあそれはこちらの主張だ。お前達ラシケントは何を望んでいる?」
バドルの笑顔はとても眩しい。どうせこちらが無理無茶を言おうとしているのを見越して、それでも私に言わせようとしている。いいよ畜生。言ってやるから耳の穴かっぽじってよく聞いてくれ。怒ったところで私は関係ないんだからね?
「えーっとですね、大変申し上げにくいのですが、ダム開発の為に起債した建設国債の全額を、マーシャ金貨三百万枚の即時弁済及び、その後は水源管理費用として、年間十万枚のマーシャ金貨をラシケントに支払う事が、我々としての答えとなります」
「はっはっは、吹っ掛けおったな! 言っているのは誰だ? 宰相のルアドか?」
「私はあくまでもラシケントの意思を伝える、伝書鳩のようなものです」
「では伝書鳩殿、あなたの意見を聞こう。今回のラシケントの要求は是か、否か?」
「是も否も何も、伝書鳩が意見を持つなどあってはなりません。もし私の伝書鳩がそんな事を言おうものなら―」
「言おうものなら?」
「その場でくびり殺してしまうでしょう」
だらだらと嫌な汗が背中を伝いながらも、私は精一杯の皮肉を込めて返してやった。
これが正解。そうでしょうバドル?
「はははっ、ラシケントにはなかなか有能な伝書鳩がいるようですな!」
「ご理解頂けたようで何よりです」
「では伝書鳩殿に、良いことを一つ教えてあげましょう。明日の朝、我々は正式にラシケントに対して宣戦布告することが長老会議にて決定しました。もちろん私は反対したのですが、穏健派は私と最長老様しか居ない。後の七人が反対すれば、それはもう覆るはずもありません。
本日の話し合い次第で、ダム建設の中止が無条件に行われるようであれば、私としては再度長老衆に召集を掛け、休戦の延長をするつもりでしたが、もはやそれも無理なようです。
そして、宣戦布告と同時にあなたの大使館はデトラに駐留している千人の軍勢が囲い込む事でしょう。その前にお逃げなさい。有能な伝書鳩殿がくびり殺されるのは、私としても本意ではない」
水煙草の煙を吹かしながら、バドルは淡々と語る。もはや衝突は避けられないということらしい。だが、一つだけ気になる事がある。
「もし、私が今日中に逃げ出したとしたら、あなたが責任を問われるのではないですか?」
「長老衆としての椅子が無くなるだろうが、別に固執する理由も無い」
ぷかりと煙が宙に浮く。
なるほど、食えない老人だと思っていたが、そうでもないらしい。
「私は伝書鳩ですが、あなたは長老衆の一人です。あなたは穏健派として今まで、我が国とエフェスが戦争になることの害を誰よりも理解し、この国の中枢に休戦の延長を訴えて来ました。
あなたは伝書鳩のように、死んでも代わりが居るような、安いものではないでしょう。あなたには義務があります。我が国とエフェスが、最悪の事態になったとしても、その被害を最小限に食い止め、再び和平を結ぶという義務が」
「つまり、明日の正式な宣戦布告が降りるまで逃げない。そうおっしゃるのかね?」
「私はここで何も聞きませんでした。明日もいつも通りに仕事をして、宣戦布告の報せを正式に聞いた後に、エフェスを後にさせていただきます」
私の言葉を聞いて、バドルはしばし考えるように天井を見上げた後、煙草をやめてこちらに向き直る。
「デトラの門番達に、もし明日お前達が来たら、どんな姿でも通すように手配しておこう」
「ありがとうございます」
「千人に及ぶ我が国の軍勢を相手に、生きて我が国を出る事ができるのならば、それはきっとエフェス神が導いているのだろう。まだお前達には、為すべき事があるのだと」
「どうでしょう。私はエフェスもソーリアも信じてない、不信心者ですから」
「信じようと信じまいと、良いことも悪いことも、神は人をお導きになるのだ。あなたにエフェス神のご加護のあらんことを」
「ありがとうございます。それでは、私共は失礼いたします」
深々とお辞儀をすると、バドルもまた、初めて立ち上がり、私達を見送ってくれた。
どうせ今日ここで殺されるかと思っていたんだ。明日に寿命が延びただけでも、僥倖と思うべきだろう。
砂漠の匂い、アラベスクの邸内、陽射しを防ぐ鎧戸、美しいサボテンの花と果実、全て見納めになるのだろう。私は死ぬ。明日死ぬ。それまでは精一杯生きてみよう。
入り口に向かう途中、ホルンに会った。既に着替えており、血の匂いもしない。
この生意気な使用人の姿を見るのも今日が最後。そう思うと、何だかもの悲しい。
「何です? じっと見て、私の顔に何か付いてますか?」
「元気でね」
「え?」
「何でもないですよ。それじゃ」
ああ、悟りを開くってこんな感じかな。初代メフィウス・ソーリアはポラント山で苦行の果てに神託を受けたと言うけど、死を間近にすると、老若男女関係無く、みんなこういう気持ちになるような気がする。
ただ、悟りとは別として、ダム建設はエフェスに対する明らかな挑発行為だ。こんなくだらない利権をめぐって、私は死ぬかも知れない。ならばせめて、どういう経緯でこんな話が持ち上がったのかくらい、死ぬ前に知っておきたいけれど、多分無理な話だろう。
一発くらいブン殴ってやりたかった。クソくだらない事を考えやがった悪の元凶に、エンド・ガーウィン様の鉄拳制裁。思うだけでやれないむなしさ。乾いた笑いも出やしない。
屋敷から外に出ると、まだ血の跡が生々しく残っている。明日は我が身。私も屍。
「ねえカル、今夜はうまいもの食べに行くわよ」
「うまいもの?」
「カニとか、カニとか」
「カニ、好きだったんですか?」
「うん」
「まあ、とりあえず今夜は何でも付き合いますよ」
「よーし、それじゃカル君のおごりね!」
「どうせ明日で死ぬかも知れませんけど、まあたまにはいいでしょう」
「やった! カニだあ!」
ぴょんと飛びはね、カルの背中に覆いかぶさる。すると、少しだけバランスを崩し、よろけて壁に軽くぶつかる。
「あうっ」
「いきなり載っかってくるからですよ。大丈夫ですか?」
「死ぬかも知れない前なんだから、たまにはこう、乙女チックな思い出を作りたいと思うのも、致し方ないと思わない?」
「まだ死ぬかどうか分からないでしょう」
「どーせ死ぬよ」
そう言いながら、カルの肩に頬を擦りつける。うむ、こんな甘々な事ができるのも、死を覚悟した私ならではだ。普段だと、さすがにこっ恥ずかしくて出来たもんじゃない。
「やけに甘えん坊になりましたねえ。まあいいんですけど」
「それじゃ、エレノア通りのカニ料理専門店クラブ・アストリアに行くのよ!」
「あのー、おんぶしたままいくんですか?」
「当然。これは大使命令」
「えー……」
「ごーごーっ!」
大きくて、溶けてしまいそうな夕陽が照らしている。血のような深紅の光。
明日もう一度見れるかな――
*
その日の寝覚めは最悪だった。夢とは言え、宰相のルアドに命乞いをして、無事にラシケントへ帰るという、最低に胸くその悪いものだ。思わず起きた瞬間、そばにあった水差しの中身を頭からひっかぶって、あれが夢だったと確認する。
「冗談じゃないわ……」
飲み過ぎたせいもあって、頭ががんがんする。ついでに指先がカニくさい。
髪を束ねて、姿見の前で化粧を整え、一番最高級の絹でできた大使服に袖を通す。
今日で終わりだ。私の全ては無に還る。
「おはようございます。エンドさん、起きてますか?」
「おはよー。少し寝過ぎちゃったみたいだね、ごめんごめん」
「昨日あんなにもお酒を飲んでましたから、まだ寝てるかなと思いました。とりあえず、テーブルの上に僕が作った酔い覚まし用の、ハーブを混ぜたお米のスープを置いておきますね」
「おお、気が利くねえカル君。君はいい! いいよー、うん!」
「最後の食卓が、僕の手作りスープだなんて悲しいですねえ」
「まあいいじゃないの。そんなことより、大切なのは今日もいつも通りに過ごす事」
「はい、準備は全て終わってます。椅子に座れば、すぐにでも仕事ができますよ」
鎧戸を開けて、部屋に朝の空気を取り入れるカル。
今日も晴天。雲一つ無い蒼穹は、私の死を祝福している。
熱いのが苦手な私は、少しふーふーしながらスープを食べて、ぼけている頭をすっきりさせるため、ニガヨモギの汁を混ぜた水を飲み干す。
「先に仕事してますから、食べ終わったら執務室に来て下さいね」
「はーい。よろしく」
小さく手を振り、残ったスープをゆっくりと味わう。
そう言えば、死ぬ前にやり残した事は何だろう? まず、まだ読み終わってない本があるね。それから、今年こそは女らしくなろうと思って始めた、編み物も初歩で止まってる。他には、料理上手になろうと思って、レシピを手に入れたけれど、結局まだ作ってない肉団子のスープ。 あと、エフェス産で最高級の紫砂蚕の絹を使った服も、自分へのご褒美として買おうと貯金してたけど、まだ買ってない。
けれど、本当にしたいことがある。私は海というものを見てみたい。一番大好きなカル君と一緒に、でっかくてしょっぱくて、空の青とも青水晶の色とも違う、果てしなく広がる群青色の世界。それはどんな芸術にも勝る光景だと、父は生前に言っていた。
いつかお前にも見せてやると言って、まだ無邪気だった頃の私は笑って、約束をしたんだ。それから結局、約束は果たされないまま、父は急な病気で亡くなった。
「海、見てみたかったなあ」
誰に言うともなく呟く。
ちらりと窓の外を見ても、空と土壁と石の世界。ところどころにサボテンの花が咲いているだけ。静かで、たまに吹き抜ける風の音だけが耳に届く。けれど、それももうすぐ終わりだ。千を数えるエフェスの精鋭達が、大使館を取り囲む事だろう。
剣術なんかもろくに習ってない私じゃあ、最初に組み合った相手に殺されてしまうだろう。あまりにも呆気なく私は死ぬ。いつの間にか、蟻の集団に運ばれている虫けらのように。
「さて、そろそろ働くかな!」
空になったスープ皿を水場に置いて、執務室のドアを開ける。すると、既に書類棚と格闘しているカルの姿があった。こんなに悲しい事が起こる日でも、いつも通りの私達。
にっこり笑い、改めて挨拶を交わす。さあ、今日も一日頑張ろう。