第2話 奴隷市場へと続く道
照りつける太陽は、まるで生きることを否定しているかのようにじりじりと嫌な熱を持って、私の全身を、そして馬車を包み込んでいる。ラシケントはまだ春のはずだが、父が言うには、エフェスは一年中こんな真夏の陽気が続くらしい。
馬車の窓から覗く景色は、徐々に荒れた土地となり、やがて何も見えない砂漠が映し出されるだけとなった。たった一つ違うのは、馬車が通るためだけに整備された石造りの道だけが、砂漠の中に横たわる巨大な蛇のようになって、地平線の果てまで続いているという事だけ。
「この道は、かつて戦争をするためだけにあったようなものだ。そこを今、私達がこうして通っていることは、喜ばしいと思わないか」
「そうですね」
その目を見ずに返事をする。殺し合いたい奴が勝手に作った道。そこを私達が通ったから、何か良いことでもあるのか?
むしろこんな糞暑い国に、むざむざ殺されに行くような旅行をする。その事を気にした方がいい。父も法皇も正気なのだろうか。まあ、死にたいのかも知れない。私より何倍も生きている人ばかりなのだ。私がこれほど生きている事に疲れているのに、彼らならなおさらだろう。
「エンド、つまらなそうだな」
「そんなことはありません」
「お前は嘘が下手だ。いくら愚かな私とて、その程度の事は分かる」
「…………」
嘘でも笑えと言ってみたり、口答えはするなと言い続けてきたくせに、今さら何を悟ったようなことを言っているんだろう。腹立たしいにも程がある。
そう思い、ちらりと目だけで父の方を見ると、最近あまり食事をしていなかったせいか、青白い顔はどこか病人のようで、ふっくらとした頬は、平たい皿のようにくぼんでいる。
どこか幽鬼のようだ。これから町を彷徨って、そこらの人間の首元にでも噛み付けば、まさにそのまま見た目通り。その前にたぶん、私が犠牲になるけどね。
「見えてきたぞ。あれが砂漠の都、デトラだ」
父の言葉に、もう一度目線を窓の外に移した時、思わず言葉を失う。それはまるで蜃気楼、或いは夢でも見ているかのように、忽然として砂の地平に現れた。壮麗な石造りの塀はどこまでも続き、鮮やかなアラベスクに彩られた尖塔が、至る所に立っている。
まるで太陽からこぼれ落ちた宝石。その華麗さは見る者の言葉を、魂を奪い去る。
ラシケントの都も美しいが、それは自然と共存しながら、長年を掛けて築いてきたものだ。それに比べて、デトラという町は、まさに人間の手でその場に作られている。一分の隙さえ見せる事のない、完璧な芸術を見せ付けられているようだ。
「美しいだろう。まるで化け物みたいにな」
「素晴らしい……ですね……」
「私達はあんなものと戦っていたんだ。百年に渡る戦争で、彼らは一度もその首都に我々の兵を踏み入らせる事は無かった。精鋭と言われた私達ラシケントの武装神官達でさえ、その都の姿を拝むことは、外から眺めることしかできなかった。だが、外から見てさえも素晴らしい。私達の信仰心など、まるで取るに足りぬと笑われているようだ」
その言葉は、くたびれた老人のように感じて、思わず胸に嫌なものが込み上げてきた。
厳しくて、強くて、傍若無人な父が今、まるで死にそうな、搾り出すような声で、淡々と私に説明をしている。
「もうすぐ都の中に入る。ここから先は怪物の胃袋に入ったのと同じだと思い、行動するんだ」
「……もう少し、良い例え方は無いんですか……」
「あったら、私が聞きたいよ」
こちらを向いて、乾いた笑みを浮かべると、再び窓の外に視線を向ける。そのゆらりとした動きが嫌で、私は反対の窓を、ただ砂漠が広がるだけの殺風景な方を見て、そのまま口をつぐむ事にした。
やがて、馬車の列が一度止まると、軋むような音を立て、巨大な鉄の門が開く。その途端に、むっとするような何か香料の匂いがする。これが異国、エフェスの空気。それは馬車の中まで容赦なく流れ込んでくる。だが、別に不快なものではない。
よく見ると、門の向こうで老人達が何人も並び、額を地面にこすり付けるようにして香炉の前に頭を垂れている。徐々に馬車が動き始め、都の中に入ると、ずらりと並ぶ人々は全て、一方向に向かって地べたに額をこすり付けている。
「何ですかこれは……」
「祈りだ。我々と同じで彼らにも神がある。ただ一つ違うのは、彼らは一日二回、エフェス神殿がある方角に向かって一心に祈るのだ。その間はどんな盗賊も、どんな商売人も、皆が同じように頭を下げる。まさにこの時間に到着するように言われたのだが、彼らはこれを法皇様や私に見せたかったのだろう。鉄のような団結心を持って、神の為に死ねるということを。
百年の長きに渡り、互いに戦争を繰り広げてきたが、彼らは戦争を楽しんでいた。自分達の信じる神に対し、戯曲を奉ずるために、殺し合いを見せてきただけに過ぎない。そして、もし自分達が勝てばそこで演目は終わってしまう。そうならぬように、手抜きの戦争をして、私達は互角に戦えているように見せていたに過ぎない。最初から最後まで、我々の完敗なんだ」
「お父様、それでは我らラシケントが行ってきた事は、彼らにとってはただの遊びに過ぎない、そうおっしゃるのですか?」
「ああ、所詮は酒の席の余興のようなもの。千夜一夜の夢に等しい」
あの威厳に満ちた父が、鬼と呼ばれた宰相ヨシュアとしての横顔は、もはや完全に消え失せていた。ラシケントは強い。ラシケントは勝つ。何度も叫び、国民達の士気を上げてきた。
法皇はあくまでもにこにこと静かに笑うだけで、大切な言葉のみを、薄い布に隔てられた向こうから人々に対して言うだけだった。それは法皇が若く、まだ子供だったせいでもあるが、何よりも人心を掌握するという意味で、父の才能は天才的だった。同時に、ラシケントという国と神への忠誠心は誰よりも強く、その力を惜しみなく捧げていた。
ヨシュアがいれば、後数年で戦争は終わるだろうと誰もが噂し、兵達は恐怖心をかなぐり捨てて突撃する。何度も無駄な敗北を繰り返したが、その度に、次は、次こそは! と声を大にしていた。
それが全て、遊ばれていたに過ぎなかった。全生命を賭けて成し遂げようとしていたことは、無駄な努力だったのだ。だが、父はそんな弱り切った自分の姿を見せて、どうしようというのだろう。そう思った時、父は重い口を再び開いた。
「すまない、エンド。私は最低の父親だ」
「お父様……」
今にも息絶えそうな老人のような顔の父が、さめざめと涙を流している。これほど立派な衣装に袖を通し、法皇に次ぐ地位の者しか乗れない馬車に乗っているのに、まるで道端の浮浪者のような有様だ。
「お父様、ラシケントは負けたのですか」
「いや、あくまでも和睦だよ。十年の間だけ、休戦をしようとなったのだ」
「なぜこの時期に?」
その質問に、一際疲れたような笑みを浮かべ、鼻をすすりながら父は答える。
「百年もの長きに渡り、唯一神エフェスに彼らは演舞を見せてきた。十年ほど幕間の休憩を入れた方がいいと、長老衆が決議をしたそうだ。私達はそれに従うしかできない」
「…………」
何も言えない。胸の中に込み上げてくる全てはどす黒く、赤く、混ざり合って吸い込まれていく。目の前にいるのは父じゃない。ただのくたびれた老人だ。私が恨んでいたのは、私が常々憎んでいたのは、こんな老いぼれではない。胡散臭いほどに神々しく、殺したい程に傲慢で、ラシケントの全てを自分の掌の上で転がしているとさえ思わせる、そんな怪物だったはず。
ああ、悔しい。何なんだろうこの気持ちは。私の悲劇が台無しだ。私の舞台が台無しだ。
何よりも、私の人生の全てが台無しだ―
思わず指を囓り、そこから出る血を舌の上に転がす。畜生畜生。百回唱える。
言葉にならない呪いの言葉。私は気付いてしまった。この悲劇にまだ、酔っていたいと思っていたのだ。
どうにもならないこの現実を、この私の置かれた状況を、悲劇と思いながら皮肉っぽい笑みを自分に投げかけ、この国のためという壮大な仕事に就く日を待っていた。なんて事はない、私は単なる夢見る少女で、悲劇という名の王子が迎えに来てくれるのを、ただ指折り数えて待っていたに過ぎない。
そんな黒いお姫様ごっこも今日で終わり。私の目の前には、もっと大きく、強く、どうしようもない現実と敵が立ちはだかってしまったのだ。私を守っていたはずの、私にとって最も身近な神だったはずの、父親はもうそこに居ない。壊れてしまった人形は、もう二度と元に戻らない。
「素晴らしいな。町の建物一つとっても、我が国よりも遥かに優れている。この国の文化は、ラシケントより五十年は先に進んでいるだろう」
「五十年後のエフェスはどうなってるの」
「さあて、百年は先に進んでるんじゃないかね」
その場でそっと立ち上がり、静かに父の胸ぐらを掴んだ。
「殺してよ」
「…………」
「私を殺してよ! ねえ! 殺してよお父様!」
「すまない……」
これ以上何を言っても無駄だ。そう悟った瞬間、もう一度馬車の椅子に座り直す。どれほど声を荒げても、どれほど無礼をしたとしても、もう二度と元には戻らない。私と父との関係は、たった今終止符が打たれてしまったのだ。
窓の外には人の群。彼らは一方向に向かって頭を下げ、古代エフェス語に由来する、祈りの言葉を歌い上げている。馬車は止まる事も無く、大きな往来を抜けて、徐々に神殿に向かって進んでいく。
もし彼らが何らかの号令を受けて、私達の一団を襲えば、あっという間に制圧されてしまうだろう。だが、それは無い。そこにあるのは礼儀とか常識ではなく、単なる慈悲と哀れみだ。
この旅が始まった時、自分は市場に連れて行かれる牛のようだと思ったが、まさにその通りだった。これから私達は売られ、食われてしまうのだ。様々な意味で、名実共に。
「私は……負けないわ……」
「負けないって、どうするんだエンド」
「決まってるじゃない、勝つのよ! 勝てばいいのよ! こんな奴らに負けるような、私はそんな安い女じゃない!」
「勝てれば、いいなあ」
自嘲気味なその笑いに、思わず手を振り上げる。父もまた諦めたように目を閉じたが、頬を叩いても痛いだけで、何の結果も得られはしない。私は無力だ。お花摘みに出るくらいしか出来ない、ただの年端も往かぬ少女なのだ。
その無力さが悲しくて、恨めしくて、涙が頬をこぼれ落ちる。
心だけが中途半端に大人になっているのに、その体も地位も子供のまま。震える拳を振り上げたまま、下ろす場所さえ無い。ただ静かにそれを下ろして、座り直してじっと俯く。
がらがらと鳴る馬車の車輪と、古代エフェス語で歌い上げられる祈りの言葉。
永遠にも感じられるような、長い時間が過ぎた後、私は馬車から降りるように促され、初めて異国の地に降り立つ。
窓から見ていたよりも世界はずっと肉々しくて、意味もなく足下の石畳をこつこつと叩いてみては、何となく納得したような気持ちになって、次に目の前にある光景をつぶさに観察する。
巨大な石造りの神殿には、こんな砂漠の国にも関わらず、いくつもの大輪の花が咲き乱れ、宮殿内の至る所には水が流れ、それが涼しい音をさせている。
色々な場所をくまなく見ているうちに、いつの間にか父は離れ、法皇様の元に駆け寄って、馬車から降りる手伝いをしていた。そういえば、我が国の法皇様は幼いと聞いている。だが、まだ父が手助けをせねばならないようなものなのか?
そう思い、少しだけ離れた場所からラシケント法皇が降りてくるのを観察していると、いかにも立派な服装をした、同い年くらいの男の子が降りてきた。さらりとした髪をなびかせて、少しだけ潤んだような大きな目。だが、別に神々しいとか、特別なものは感じない。むしろ、昨日までの父の方がよほどオーラを放っているだろう。
「うんしょっと……ヨシュア、ありがとう。大丈夫、一人で降りれるよ」
「いけませんメフィウス様! 私が手を引いて参りますゆえ、どうか慌てず、ゆっくりと」
「くすくす、大げさだなあヨシュアは」
「ええ、メフィウス様が笑っておられる間は、このヨシュアは安心なのでございます」
見れば見るほど、何だか不安になってくる。神々しいとか、威厳があるとか、それはさすがに無いとしても、いかにも高そうで仕立ての良い、最高位の僧衣を着ている事以外は、正直に言って、その辺で転んで、頭を打つだけで死んでしまうんじゃないか。そんな目に余る弱さが伝わってきて、なんだか見ている方がイライラする。
お前法皇だろ? もっとシャキッとしろよ。メシ食ったか? 歯ァ磨いたか? 宿題は済ませたか? これから大切な仕事があるのに、そんな事で大丈夫か?
口に出して言いたい衝動を必死で堪えて、父と法皇のやり取りをじっと見る。
「ようこそ我が神殿においで下さいました。私の名前はロラン・スタント。五代目エフェス最長老であり、エフェス長老衆の筆頭を務めております。
ラシケント法皇、メフィウス・ソーリア四世殿。心からご来賓を歓迎致します」
神殿の奥から靴音をさせながら、これまた同い年くらいの子供が姿を現した。けれど、こちらはラシケント法皇の外見、典型的なラシケント人の特徴である金髪碧眼とは対照的に、白い髪と浅黒い肌の、どこか活発な印象を与える健康的な子供だ。
どうでもいいけれど、これがお互いのトップ同士の一騎打ち勝負だったとしても、ラシケント側は一〇〇%負けていただろう。相手の少年、血色が良過ぎ。
「わざわざ神殿入り口までのお迎え、痛み入ります」
「これより先は神域につき、私とメフィウス殿、二人だけになります。他の従者の皆さんは、どうか我が国の観光でも楽しんで下さい」
そう言って、まるで弟の手でも引くように、ロランはメフィウスの手を取り、奥へ行こうと歩き出す。父のヨシュアもこれをただ、呆然と見ている事しかできない。
磨き上げられた玉のような扉をくぐる時、ロランはちらりとこちらを見て、大丈夫だとでも言いたげに、軽い笑みを浮かべた。だが、自分としてはどちらかというと、我が国を代表する法皇を強引に密室に連れ込まれ、挙げ句の果てに捨て笑いなどされて、かなりイライラとした心境になる。
これは何にも代え難い屈辱。我がラシケントという国家に対する、明確な侮辱と挑戦だ。
「エンド、この国ではもはや私達が厄介ごとに巻き込まれるような事は無い。安心して観光にでも行ってきなさい。私はまだ、ここで法皇様をお待ちしている」
「法皇様、ねえ……」
その様を付けるメフィウスとか言う、私と同い年くらいのガキに、好き放題に扱われてるお父様はいったい何なの? 喉まで出かかった言葉を呑み込み、精一杯の笑みで答える。見えてしまったのだ。父の拳から、ぽたりと血がしたたり落ちたのを。
本当は誰より、この場であのロランとか言う奴をくびり殺してやりたい。かつての父ならば、一刀のもとにあの若い最長老とやらをぶち殺し、高らかに勝利を宣言しただろう。例えこの国から生きて帰る事ができないとしても、やったはずだ。
少し前までなら、ラシケントとエフェスの戦力はほぼ互角と思っていた。法皇のメフィウス・ソーリア四世は幼くとも、その周囲を固める者達は忠義心もあり、誰もが国のために命を捨てる事は惜しくない。もしメフィウス四世がこの戦いで亡くなったとしても、神の国に召されただけで、すぐに五世は擁立される。もちろん自分の代わりなどは、掃いて捨てる程居る。そして二国の戦いは、新しい舞台へと移るだけだ。
笑いながら胸を張り、賛美歌を歌いながら死んでいくだろう。体中に矢と槍と刀傷を受けてなお、声の涸れるまでラシケント万歳と叫び続けた事だろう。
父が言う全ての言葉は、脳裏にすらすらと浮かんでくる。この狂犬じみた父親は、救いようの無い狂信者は、それでも私の誇りだったのだ。今その手から流れる血涙を見て、改めてそう確信する。だからこそ私は今、とても悔しい。
懐に隠していた小刀の刀身に指を当て、ゆっくりと引く。
「くうっ」
「何をしている……エンド……?」
「気持ちは同じです。お父様」
「エンド……我が娘……お前は……お前こそは……私の……ラシケントの誇りッ!」
父は跪き、私を強く抱きしめる。そして血の出る私の指を、自分の血で濡れた指に絡ませた。
時間が止まったように、私の周りの音が消えていく。世界は色を失っていく。今私がいるこの場所は、まるで冷たい墓石の下だ。いつでも私の心臓を握りつぶすことができる、巨大な手のひらの上に立っている。
もし私に力があったなら、もし私に知恵があったなら、こんな奴らはねじ伏せてやるのに。一人残らずくびり殺して、川魚共の餌にするのだ。
子供だから考える。残酷でくだらない妄想。父にできないことが、私にできるはずがない。
「少し、観光に行ってきます」
「ああ、夕方にはここに戻っておいで」
「かしこまりました」
きびすを返して神殿の前を離れる。ここにいたら頭がおかしくなりそうだ。ちらりと見た、磨かれた床に映る自分の顔は、とても嘘臭く感じる。周囲の兵隊や、法皇と父の従者達に、私の顔はどんな風に見えているだろう。
少しだけそんな事を考えたが、できるだけ何も考えないようにして、神殿が見えない場所まで黙々と歩く。呼吸を止めて、唇を噛みしめ、この国の全てを目に焼き付けやろうと思い、辺りを見回す。だが、そこで私は意外にも毒気を抜かれる事になった。
往来を歩く人々は誰もが綺麗な衣装に身を包み、城下町となっている一帯のバザールには物が溢れている。果物、野菜、肉、川魚、あらゆるものがうずたかく積まれ、荷車が忙しく往来を行き交っている。
あの異様な祈りの光景は一変して、今は本当に豊かな砂漠の都市がそこには広がっていた。
マーシャ銀貨で近くの果物屋から赤いベラの実を買い、しゃくしゃくと囓りながら、町並みを改めて観察する。ラシケントのように壮麗で美しい町並みとは違い、どこか荒々しいながらも、力強さを感じる石造りの建築物。
人の数はラシケントより遥かに多く、人々に活気がある。しかし、祈りの時間となれば誰もが同じ方向に向かって頭を下げ、一糸乱れぬ統率を取る。
ああ、この国は強い。我々より遥かに強い。だからいつか―
「叩きつぶして、地べたに這いつくばらせてやる」
彼らの平和が憎らしい。豊かさが妬ましい。私達の国があれほど攻め上がって、何千何万という犠牲を出して、百年に渡って国がボロボロになりながらも、勝利を信じて真剣だった。
疲弊しきったラシケントは、今や経済不況に見舞われ、そんな中で十年に及ぶ和平を持ちかけられたことを、渡りに船とばかりに喜び、ラシケントは勝利への一歩を踏み出した。エフェスの側から膝を屈したと、お祭りムードになったものだ。
それが全て幻想だった。国民に不安を与えない為の嘘だった。目の前に広がる、このあまりにも豊かな町の光景こそ、その全てを物語っている。
「十年、か……」
私はまだ幼い。十年後の事なんて、まるで想像ができない。そもそも、十年後と言えば王宮で何らかの仕事をしているはずだが、軍事に携わる事は無いだろう。私は女なのだ。
何だか腑に落ちないが、それはもはや仕方がない。軍事に携わらなくても、何かしら戦う事はできるはずだ。その時こそ、あの生意気なロランとかいう奴に膝を折らせてやるのだ。
「さて、それはいいけど、困ったなあ」
ぼんやりと歩いていたせいで、ふと気が付くと道に迷っていた。できるだけ分かりやすい道を選んで歩こうとしていたが、多すぎる人波に揉まれ、気が付けばよく分からない方向に歩いていた。こんな外国の見知らぬ土地で、いきなり人に道を聞くというのが地味に勇気がいる。
多分歩いていればどこかにぶつかって、どうにかなるだろう。
気持ちを切り替えて、さらにずんずん奥に歩いていくうちに、何だか人気が無い方に来てしまった。よく分からないけど、泣きそうになったら負けた気がするので、極めて冷静な振りをする。
「落ち着いてるよ! 落ち着いてるからね!」
口に出して言うとさらに虚しい。何をやっているんだろう。いくら子供だからって、これは無いんじゃないか。
と、その時、通りの向こうに変なものを見つけた。上半身が裸の男性と、ほとんど薄着の女性達がずらりと並んでいる。誰もが手や足に枷を着け、ぼんやりと虚空を眺めているだけ。
中には座り込んでいる者もおり、ほとんどの人間はやせこけて、骨と皮ばかりになっている。彼らは私の方を見ると、さもつまらないものを見たとでも言うように、気にも止めず目線を戻す。
「お嬢さん、外国人。ラシケント人かな?」
ふと声がした方に振り返ると、悪趣味な宝石類をじゃらじゃらと体中に飾り付けた、いかにも悪徳商人という風情の男が立っていた。彼は黄色く汚れた歯をにやりと見せながら、その水膨れしたような手で私の頭を撫でる。
「見たところ、それなりの名家か何かのお育ちのようだね。奴隷をお捜しかな?」
「奴隷?」
「なんだ知らないのか。ここはエフェスでも一番の奴隷売買を誇る、奴隷市場だ。子供であれ大人であれ、本国人であれ外国人であれ、忠実な奴隷を売ってあげるよ」
「ラシケントでは奴隷は禁止されてるのに、この国ではまだ、そんなものがあるの?」
「ははっ、ラシケントやマーシャみたいな外国がどんな文化、どんな法律、どんな社会を築いていようが、知ったことじゃないよ。ここはエフェス。お嬢ちゃんの住む国じゃない」
ぽんぽんと頭を叩かれるが、それを払いのけて前に進む。
「欲しい奴がいれば声を掛けてくれ。お安くしとくよ」
「はいはい」
適当に返事をして、その場を離れようと思ったが、自分の国には無い、奴隷市場というものにとても興味が惹かれた。この国は豊かなだけではない。こんな黒い面も持っている。エフェスが正義じゃない。エフェスにだっておかしいところがある。それを知っておきたかった。
将来、十年後、この国ともう一度戦う時に備えて、この国の色んな事が知りたい。
隣では目がぎょろぎょろとした老人が、横たわっている。目を移せば、あちらではたかっている蠅を追い返せない女性が、立ったまま虚空を眺めている。本当に、ここは地獄のようだ。
「最近じゃ奴隷も売れ行きが悪くてね。人口が多すぎるから、奴隷市場が不況になりつつあるんだと、ロラン様はおっしゃっておられる」
「どういうこと?」
「生まれた子供を将来の自分の子供と、奴隷用とに分けて育てれば、色々と便利だろう?」
そう言って笑う男の顔に、私はぞくりとした。この国はおかしい。私には理解できない。
何が正しいとか、何が間違ってるとか、決めつけてはいけないと父は言っているが、この男の言うことにだけは、少しも同意できるところが無い。だが、それがこの国の本当の姿なのだとしたら、この国はおかしい。国そのものが狂っている。いつまでもここに居てはいけない。
そう思い、来た道を戻ろうとした時、少し向こうに膝を抱える、幼い子供の姿を見つけた。自分より二つか三つ下だろうか。他はみんな大人だというのに、彼だけが不釣り合いな程若い。
「ねえ、あの子も奴隷なの?」
「ああ、あいつはラシケント人とエフェス人の混血だな。ガキだから労働もできないし、学も無いから一番安いよ。どうだい、嬢ちゃんの小間使いにしてみたら?」
「いくら?」
「そうだなあ、マーシャ金貨五枚でどうかな」
「分かった」
それは本当に、単なる「気が向いた」というただそれだけの事。けれど、人が人を助けるのに何か理屈を考える方が、何だかおかしい気がした。
神がいるなら、全ての人間達を救わなければいけない。しかし実際は救われず、老いて病んで苦しみ叫び、最後に残るのは白い骨。神が救わないなら、私達はお互いを救うしかない。
だから私も、一人くらい救ってみよう。そんな偽善心がふいに湧いた。
「あなた、名前は?」
「…………」
「そいつの名前はカル・サルードだ。年齢は十歳、自分で主人に挨拶もできない、本当に使えない奴ですよ」
「カル君ね。私の名前はエンド・ガーウィン」
そう言って手を差し出すが、彼の虚ろな目は、こちらを見ようともせず、彼自身もぴくりとも動かない。だが、私は彼の前に座り込むと、じっとその目を覗き込んだ。
死んだような瞳。それは多分、私の心に似ている。一瞬だけそう思ったけれど、すぐにそうではないと気付く。私は―いや、これ以上考えない方がいい。
彼を見下すような、見下ろすような、そんな言葉しか浮かんでこない。結局私は、彼を奴隷として購入した。そんな意識がどこかにある。きっと彼もそんなことは分かっているだろう。
「ねえ、彼の鎖と枷をはずしてあげて」
「逃げちまうかも知れませんよ? いいんですかい?」
「逃げないわ」
「ふうん、お嬢ちゃんがそう言うなら、私は構わないんですけどね」
持っていた鍵束から一つを取り出すと、それを鍵穴に射し込む。すぐにかちゃりと音がして、鎖と枷ははずれた。
今まで彼を繋ぐ鉄に隠れていた部分だけ、色が魚の腹のように白く、痛々しい。
「ありがとう……」
「なんだ、喋れるんじゃない」
「うん」
「立てる?」
その言葉に応えるように、彼はゆっくりと立ち上がる。少しやせているけれど、目の輝きは悪くない。私はカルの手を握り、よろしくと言った。
カルはというと、どうしていいか分からないらしく、しばらくぼーっとしていたけど、やがて理解したのか、こちらこそと言って頭を下げた。
「あのね、勘違いしないように言っておくけど、あなた、自分を奴隷だとか思わないでよね」
「違うの?」
「カル、あなた私の友達になりなさい」
「友達?」
「そ、そうよ。友達よ! 悪い?」
「ううん! 悪くないよ!」
「ただ、その格好じゃちょっと、友達としても厳しいから、ついてきなさい。
ねえそこの、えーっと、奴隷商人さん。服を売っているのはどこ?」
「え? ああ、そこを真っ直ぐ行って、右に曲がったところにあるが」
「ありがとう。じゃ、行くわよ」
「ご購入ありがとうございます。またのご利用をお待ちしていますよ」
背中から奴隷商人の声が聞こえるが、振り返らずにその場を後にする。あんな気分の悪い場所は、一刻も早く離れたかった。
雑踏が聞こえる方へ。少しでも一般人が居る方へ。ここは空気が濁っている。いや、腐っている。吐き気がしそうだ。
「あ、あの、ご主人様」
「バカぁっ!」
恐る恐る付いてきていたカルの横っ面に、軽いグーパンチを叩き込む。
「ぶはっ! い、痛いですご主人様……」
「どこの世界に友達をご主人様とか呼ぶバカがいるのよ!」
「えーっと……」
「私の名前、さっき言ったでしょう?」
「エンドさん……」
「もっとはっきり!」
「エンドさん!」
「それでよし。で、何?」
「あの、なんで僕を買ってくれたの?」
聞かれるとは思っていたが、いきなりそう来たか。まあでも、分からないでもない。とりあえず何だか納得したように一人頷く私を、カルはきょとんとして見ている。
「とりあえず服買うわよ。そのままじゃみすぼらしくてダメ」
「みすぼらしいって、僕は奴隷だよ」
「うがーっ!」
「ひゃうっ!」
「もう一回奴隷って言ったら、ぶち殺すわよ」
「は、はい……」
ふんと鼻息も荒く、私は勝手知ったる地元のように、とりあえず言われた通りの道を進む。いや、進んだはずなのだが、服を売る場所は一向に見えず、何か食器とかを売るような場所に出た。うん、さすが私だ。
「ねえカル」
「はい」
「服を売ってる場所はどっちだったかしら」
「…………」
「…………」
とりあえず私は、道を尋ねる事にした。後ろから突き刺さるカルの視線が痛い気がしたけど、気がしただけという事にしておこう。
*
「よーし、完璧ね!」
「似合うかな」
「バッチリ! いい男になったわ!」
「えへへ、ありがとう」
残っていたマーシャ金貨二枚を使って、仕立ての良さそうな服を買ってあげた。髪も近くにあった理髪屋で整えてもらったし、もはやどこからどうみても、彼は奴隷に見えないだろう。
この国の特産である、砂蚕の紡ぎだした絹で作った青い薄衣に袖を通せば、どこか良いところの商人の坊ちゃんのようでさえある。なるほど、学が無いとか商人は言っていたが、そんなことはない。私の目に狂いは無いはずだ。
「ところでエンドさん、さっき教えてくれなかったけど、なんで僕を買ったの?」
「なんとなく、この国に反抗したかったから」
「この国……エフェスに?」
「そう」
空を見上げ、溜息を吐く。果てしなく広いこの空は、私が住むラシケントまで続いている。けれど、同じ空の下にあるラシケントは侮辱されている。ぎりと歯ぎしりをして、雲一つ無い空を睨み付ける。殺してやる。そんな気迫を込めて。
「よくわからないな。何で僕を選んでくれたのか」
「カルは私に、おっさんやおばさんと友達になれって言うの?」
「ああ、確かに結構歳を取った人が多かったね。あそこは本来、借金を背負ったり、税金を払えなかった人達が売られる場所だから」
「じゃあ、私と歳が近い方がいいじゃない、それに―」
「それに?」
「なんとなく、買っただけ」
「なんとなく……」
「カルはもし戦争になって、兵隊として送り込まれた時、いちいち戦う相手を選ぶ?」
「多分、目に付いた人から戦う」
「似たようなものよ。理由なんて、考えるのは面倒くさいじゃない。なんとなく、ただそれだけで、世は事も無し」
「そういうものなんだ」
「そうだよ」
実際、自分でもなぜ彼を買ったのかという、深い理由は無い。ただ目に付いた彼を、助けてみたくなった。今この瞬間に、何でもいいから話せる相手が欲しかった。仮に分かり合えなかったとしても、奴隷なら文句を言わない。
そこまで考えて、ふと気付く。最低じゃないか私。
「ねえ」
「なに?」
「私の事、グーで殴っていいよ」
「へ?」
「結構私、ろくでもないみたい」
「いや、女の子を殴るなんて」
「いいからやりなさい!」
強く命令されたカルは、気が乗らないというのを露骨に顔にしながら、ゆっくり拳を後ろに引く。
そのまま、私の顔面に向かって力強いパンチが―予想通り、へなへなパンチが来た。
ぺちっ
「…………」
「だめ……?」
「だめ」
「えっと、ほ、本気でやらなきゃだめ?」
私は無言で強く頷き、カルの眼前に親指を立てる。
「じゃ、じゃあ……」
私が記憶しているのは、ここで、カルがもう一度後ろに手を引いて、足も少し後じさった所までだ。次に目が覚めた時、私はエフェス神殿で、心配そうに見つめるカルと父の顔が目の前にあった。
これで良かったんだよ、カル。私はちゃんと言ってあげた。
最低の事を考えた奴には、それなりの教育が必要なんだから。
私だけじゃない。
それが法皇だろうと、神の化身だろうと、さ。