第10話 死ねと言われて死ぬために
砂漠と比べ、一応雨期のあるブルーノは、乾燥した気候ではあるものの、巨大なレテ川を左右に挟み、さらに中州もある巨大な水の都となっている。デトラほどの人口は無いものの、かつての天才建築家、モロウが築いたと言われる壮麗にして巨大な城壁に囲まれ、この横たわる大蛇のような長城によってラシケントの平和は百年戦争の間も保たれていた。
私とカルは一両日の間、休息を兼ねてこのブルーノに滞在したが、町は既にネイの直轄軍が防御を固め、ものものしい雰囲気となっていた。まだ戦争は始まっていないが、いつ血煙にまみれた凄惨な地獄となってもおかしくない、そんな嫌な空気を漂わせている。
ネイはもう少しゆっくりしていけば良いと言ってくれたが、あまりぼやぼやしていると、ルアドから何を言われるか分かったものではない。すぐに準備を終えると、首都のシエナへと馬車を走らせた。
「こうして生きてる事が、今も少し信じられないわ」
馬車から広がる、懐かしい緑の草原を眺めながら私は呟く。この五年近くの間、目に映るのは石と土でできた建物と、対照的に鮮やかな草花が彩る華やかなデトラ。そして、その外に広がるのは、全てを拒絶するように地の果てまで続くような砂漠の光景だ。
けれど、今はそれがまるで夢幻だったのではないかと思えるほど、草木に満ちた、豊かな自然の風景に様変わりをしている。森や草原を抜ければ、次に広がるのはのどかな田園風景。これがラシケント。これが平和。これが私の居た世界。
「ルアド様、僕らにどういう沙汰を下すでしょうね」
「さーてね。私としてはもう面倒くさいし、いっそのこと罷免して欲しいくらいだよ」
「罷免は無いでしょう。仮にも宣戦布告が出るまで退避もしなかったわけですし、予想すれば多分、最前線に送られるとかじゃないでしょうか」
「なんで? 罷免した方が手っ取り早いじゃない」
「僕が仮にルアド様なら、絶対に罷免なんてしません」
「だからなんでよ」
「いくら権力の座に興味が無いと言っても、心変わりするかも知れない。仮にもかつて権勢を誇ったヨシュア様の一人娘、気が変わってもう一度その座を狙わないと言う保証は無い。そうであれば答えは簡単。相手が一生うだつの上がらない役職に追いやるか、死地に追い込むかのどちらかです」
「あー、それじゃあ私、宮殿の掃除を管理する人でいいわ。実際にやってるメイリーさんが、こんなにラクな仕事は無いって言ってたし」
私が気軽に答えるのに、カルはなぜか真剣な面持ちを崩さず、私に言葉を返す。
「僕がルアド様なら、閑職に落とすよりは、死地に追い込みますね。ヨシュア様を信奉していた人は今も多く、エンドさんが死んでくれる方が都合の良いことが多いからです」
やれやれ、カルは心配性に過ぎる。私みたいな野心の無い女なんて、適当に暇な地位を与えておけば、それで満足する小市民なんだ。ルアドもちょっと頭が働く奴なら、それくらいわかるはず。駐エフェスの大使という職を全うはしたけれど、休戦の延長という一大事業は破綻し、今や二国の関係は最悪になっている。ブルーノではそろそろ、戦争が始まっている事だろう。
「ねえ、仕事が暇になったら海でも見に行こうよ」
「なればいいですね」
「なるわよ!」
と、楽観主義を貫いていた私だが、城に着いて、沙汰を受けた際にその予想は見事に音を立てて崩れ去ることになった。
あの法皇より偉そうな格好をした、白豚野郎のルアドは、私の国への忠誠心を褒め称え始めたのだ。その時点で、おかしいと気付くべきだった。いや、気付いたからと言ってどうなるものでもなかったけれど、それでも、自分の愚かさに吐き気がする。
四階建ての建物の高さまである、巨大な吹き抜けの大聖堂で、相変わらず人形のように可愛らしい顔立ちをした法皇とひそひそ話をした後、大きく咳払いをして彼は言ったのだ。
「辺境伯ネイ・ハーマンの副官として、銃兵三百人を連れてブルーノ要塞防衛に向かえ」
カルの予言は見事に的中。私は閑職どころか、今度は兵隊まで与えられて、最前線に放り込まれるという始末。それも、最後の最後までラシケント大使としての仕事を全うしようとしたその態度を買われての、まさに出世というわけだ。
まあ、出世という名の処刑台行き片道切符なんだけどね。そんなことは、その場に居た文官武官を問わず、誰もが思った事だろうけれど、一人として口にするはずが無い。今やルアドの専横を止める事ができる人間は居ないのだ。故人である父の、ヨシュア・ガーウィンを除いて。
そして、私は久々に戻った首都シエナの自由の空気を胸一杯に吸い込み、吐き出す頃には馬車に乗っていた。さようなら花の都。思い出に溢れた懐かしい緑の日々。おいしいものたくさん食べて、綺麗な服もたくさん買って、自由気ままに生きようと思った、あの頃の未来予想図よまた会う日まで。
―そんなこんながありまして、私は再び、少し向こうに砂漠が見える辺境の都、ブルーノまで戻ってきたのでした。もちろん出迎えてくれたのは、相変わらずだぶだぶの白衣に、今回は変なゴーグルと呼ばれるメガネを装備した、ネイ・ハーマン。
「お帰りなさいエンドさん!」
「はいはい、ただいま……」
「何となく、ボクと同じでこの最前線に送り込まれて、砂にまみれて死ぬまでこき使われる、乙女な生活とはほど遠い沙汰を下される気がしてたんですよ! 予想通りなのです!」
「そんな予想をするあなたが最悪よ、ネイ」
「カルさんも、これからよろしく!」
「元気ですねネイ様。とりあえず、私はあくまでもエンドさんの従者ですが、今後とも宜しくお願いします」
カルが控えめに頭を下げるが、彼の手を取って、元気にぶんぶんと上下させる。
「武装神官として数々の功績を挙げられたカルさんがここに来られたんです。もはやブルーノの守りは鉄壁になったのです! 鬼に金棒、ボクにチョコレートです!」
「ああ、そういやチョコレート好きだっけ」
「はい。また戦争が始まってしまったので、エフェス産のカカオを使ったチョコレートはマーシャ経由でしか手に入らず、値段が三倍になってしまったのです。ボクは心から戦争を憎むのです……」
いや、もっと別の理由で憎んでやれ。お前のチョコレートなんざどうでもいいぞ。
と、いつものように思考を巡らせながら、町を見渡す。ブルーノは砂漠と緑地帯のちょうど境目であり、ほぼ全ての緑地帯を取り囲むようにして、左右には峻険な岸壁を備え、川の向こうに向けて砂漠が広がっている。
そびえ立つ巨大な城壁は、初代のラシケント法皇が莫大な費用を注ぎ込んで作られた防護壁となっており、一度たりともエフェス人の侵入を許したことはないと言われる、鉄壁の守りだ。
それ故、町は最前線に置かれているという緊張感はほとんど無く、人々は皆牧歌的な雰囲気を漂わせており、芸術などの振興も盛んな、辺境の大都市であり、砂漠の出入り口の町としても発展を遂げている。
建築物はラシケントから運び込まれた木造の建物が多く、庭いじりなども盛んだ。そして、それは今も変わらず、ここの時間はゆっくりと流れている。
「シエナから遠く離れて、左遷された事を悲しむ者も多く居ますが、ボクはこの町をとても気に入っているのです。何より、したい時にすぐ戦争ができる、素晴らしい環境ですからね!」
優しさの奥に見える狂気の炎。あくまでも噂だが、彼は自分の両親を手に掛けたと言われている。幼い頃から、両親の不仲もあって、様々な虐待を受けて育ってきたが、いつまでも従順な犬のように振る舞いながらも錬金術に傾倒していったのは、自分の人生に於ける最大の復讐を成し遂げるためだったと。
彼の両親であったグレイン・ハーマン公爵と、その妻、トレヴィア・ハーマンの死には不可解な点が多かったと言われているが、後を継いだネイはその調査を適当なところで切り上げ、両親は単に事故死だったのだと、かなりぞんざいに片付けた。
だが、幼い頃は卑屈だった彼は、両親の死後にその反動から、このように陽気で不思議な少年へと変貌を遂げた。同じように鬱屈した人生を歩んできた私の事は、姉のように慕っており、父のヨシュアも生前、ネイにはとても優しくしていた。
そんな事情から、有力な貴族の一人だったハーマン家の領土は、父亡き後の静かな粛清によって、この辺境の町であるブルーノへと転地させられたのだ。だが、今回はその転地のおかげで私の命が助かったのだから、ルアドとしては今頃後悔している事だろう。確実に私を殺す事ができる、千載一遇の機会を見事に失ってしまったのだから。
まあ、その代わりブルーノに追いやったということは、また何か良からぬ企みがあるのかも知れず、油断はできない。少なくとも、狂っていようがいまいが、ネイは私の味方だ。これから力を合わせて、艱難辛苦を乗り越えていこう。
「戦争! 戦争! ラシケントもエフェスもいっぱい人が死ぬのです! あははーっ♪」
乗り越えていける、かなあ? ちょっと自信を無くしそうだ。




