プロローグ ―透明に生きる女の物語―
“誰にも傷つけられたことがない私”が、誰かに壊されたいと願うのはなぜか。―― 社会的に“完璧”な30代女性が、崩れていく日々の記録。
フォロワー921人。
DM、ゼロ。
リアクション、2。
私は深川澪その名の通り、“深くて静かな水路”のような女。表情を崩さず、感情を抑え、完璧な社会人として生きている。
「澪さんって、完璧ですよね」
何度聞いたかわからないその言葉。そう言われるたび、少しだけ微笑む。口角だけで。うれしいわけじゃない。ただ、もう慣れてしまっただけ。
仕事は早いし、書類ミスはない。言われたことはすぐに処理するし、頼まれたら休日でも出る。
同期より早く役職を与えられたけど、誰よりも早く「女」として見られなくなった。
この社会で“優秀”と呼ばれる女は、優しい男には気に入られる。でも、選ばれは――しない。だから私は今日も、誰にも命令されないまま、勝手に自分を追い詰めていく。
「支配されたい」と言えば笑われる。
「壊されたい」と言えば引かれる。
「誰かのために生きたい」と言えば怪訝な顔をされる。
それならもう、“ちゃんとした大人のふり”をして、誰にも気づかれずに壊れていこう。
今日は日曜日、ランチは、冷凍ミールの低糖質プラン。社内では「美意識高いですね」って言われたけど、ただ、“誰か”の目に触れるかもしれないから。
その“誰か”は存在しない。でも私は、存在しない誰かの命令のために生きている。
仕事のメールは、五分以内に返信する。
会話では笑顔を崩さない。
鏡を見るたび、完璧な私がそこにいる。
……なのに、通知は鳴らない。
ねえ。
ねえ……
ねえ、誰か……。
……私に、命令してよ。
*
投稿を上げたのは、夜の二十二時ちょうど。
映える構図、洗練された語彙、曇りのない肌。タグも的確、トーンも絶妙の自分のキラキラした日常。
完璧。――誰が見てもそう思うはずの一枚だった。
なのに――
数分、数十分、画面は沈黙を保ったまま。「いいね」の数はゼロ。リプも、引用も、なし。
静かな部屋で、冷蔵庫のコンプレッサーだけが唸っている。
その音が、不自然なほどに騒がしく聞こえる夜。指先に乗ったスマホが、じりじりと重くなる。
「まあ、よくあること」
そう呟いて、枕元に置こうとした瞬間。
ピロン。通知が鳴った。
心臓がひとつ跳ねる。呼吸が浅くなる。
小さな光の向こうに、“誰か”の存在を確かめるように画面を開く。
そこにあったのは、自動返信のような宣伝botのDMだった。〈今すぐ無料で診断。あなたにぴったりの恋占い(絵文字)〉
澪は声を出さずに笑った。乾いた喉の奥でだけ、くっ、と鳴るような音。
「完璧」なんて、所詮は独りよがり。
画面を伏せて、目を閉じる。まぶたの裏でだけ、誰かの声を想像する。命令してくれる声。叱ってくれる声。存在を“認めてくれる声”。
でも、現実の夜はいつも静かすぎる。
完璧な女に、誰も触れようとしない。だから私の孤独は、いつも静かで、誰にも見えない。
布団をかぶる。照明を落とす。スマホは裏返して、画面の光が目に届かないようにする。
寝具の香りは柔軟剤のローズウッド。きちんとした女の匂い。けれど、その“きちんと”が、今は重たい。
通知は、もう鳴らない。
澪はベッドに身体を沈め、枕に顔をうずめた。
誰にも必要とされなかった一日。
誰にも命令されなかった身体。
誰にも触れられなかった心。
肌も、爪も、髪も――全部手入れを怠ってないのに、誰も見ていない。
「見てほしいわけじゃ、ない」
そう思うことで、自分を守ってきた。でも、本当はずっと、誰かの目が欲しかった。
……見下されたい。……命令されたい。……叱られて、命令されて、「従わせてくれてありがとう」って、そんな風に笑いたかった。
でも、そんな声はこの夜にも届かない。
吐息すら震えることなく、澪の身体を抜けていく。冷えた心のまま、スマホを手に取り、スケジュールを確認する。
〈明日、午後一。鷲尾先生、ご挨拶〉
深川 澪は、静かにその名前を見つめた。
(写真では、正直……全然、イケメンじゃなかった。というか、むしろ印象がない。でも……)
彼のメールは、他のどの弁護士とも違った。
〈これ、明日十五時までに〉
〈不要な添付は省いて〉
〈訂正して〉
冷たい。丁寧さのかけらもない。でもそのぶっきらぼうな文面に、なぜか澪は「期待」を感じていた。
(“あなたはこうしなさい”って、明確な線引きがあるのって……気持ちがラクなのかも)
前の先生は、優しくて、気遣いができて、背も高くて――まさに“完璧な男”だった。
だけど、あの人は「選ばせてくれる」優しさばかりで、いつの間にか、それがプレッシャーになっていた。
澪はうつ伏せのまま、枕に顔を埋めた。
(私は……ずっと誰かに命令されたいだけだったのかもしれない)
完璧にこなす自分に、どこかで誰かが気づいてくれることを願っていた。でも現実は、周囲は澪を“使える人間”としか見ない。
恋愛対象にはならない。
同情されることも、優しさで包まれることもある。
けれど――それでは心が満たされない。
そんな中で出会った、“ただの命令”の連続。
(もし……明日、あの人の声が、命令のとおりだったら――)
期待なんて、しちゃいけない。
だけど。――胸の奥が、少しだけ熱くなる。
「……バカみたい」
そう言って、枕に顔を押しつけながら、小さく笑った。ただひとりの「まだ会ったことのない上司」を思いながら、深く、静かに眠りへと沈んでいった。
明日、誰かに「支配される」かもしれないという希望を胸に。きっと、また“完璧な私”が、誰にも見られず、会社へ向かうだけ。