幼馴染で学校のアイドルの推しは、俺……の爺さん!
池袋駅西口は、東口とは雰囲気が異なる。夜なら尚更。
ここを女子高生ひとりで歩くのは怖いだろうし、親も「ひとりで行ったらダメ」と言うのは納得できる。
中央通り。西一番街のアーチ看板をくぐってすぐの場所。お世辞でも広いとは言えぬ入口から地下二階へ降りていく。
小さい頃、祖母に連れられてここに来たことを、ふと思い出す。
あの頃は、無邪気で、ただ楽しくて……
何年ぶりだろう。ここに来るのは。
八重が俺の手を握ってきた。
「ねぇ、海斗、ここでいいんだよね」
「あぁ」
「なんかこれ、イケナイ世界に足を踏み入れるみたい」
「そうかぁ?」
否定しないが、否定したい。
俺も八重も学校帰りの制服姿だから、イケナイことをしていると感じるだけだ。
日常から、非日常の世界へ────そんな言葉が脳裏を過ぎる。
◇
────二週間前。
昼休み、俺はいつものように友人たちと談笑していた。
そこに突然、学校一の美少女、日暮八重が声をかけてきたものだから、教室は騒然となった。
「海斗、ちょっと来て」
八重と俺は家が近所のいわゆる幼馴染だ。
親同士も仲が良く、俺たちは毎日のように遊んでいた。
だが、小学校高学年くらいだろうか。どちらからともなく距離が出来てしまい、一緒に遊ぶこともなくなってしまった。異性の幼馴染なんてそんなもんだろう。
中学は三年間別のクラスだったし、同じ高校に合格したことも母親から聞いたくらい疎遠になってしまっていた。
隣のクラスだが、合同授業や選択科目で顔を合わせるくらいで関わりはない。
つまり、俺たちは小学校卒業して以来、まともに会話していない。
「な、なんだよいきなり」
痛いほどの視線を感じつつ、人通りの少ない中庭の隅へ移動する。
「海斗に頼みがあるの」
そう言って、八重は両手を合わせた。
「内容による」
「そんなこと言わないで! こんなこと頼めるのは海斗だけなの」
「そんなこと言われても……」
「私と一緒に、池袋演芸場に行ってほしいの」
「は?」
なぜそんな場所に?
聞けば、数ヶ月前に落語にハマってしまい、バイト代を注ぎ込むほど寄席に通い詰めているのだという。
「バカじゃねーの。金なら貸さねーぞ」
「違う! 最後まで聞いて!」
八重の話をまとめると、いつもは学校から一番近い上野鈴本演芸場に行っているのだが、推しの噺家が池袋演芸場で独演会をするから一緒に行ってほしい、ということらしい。
「客席に座ってると、若い子が珍しいみたいで、よく声かけられるの。ほとんどの人は、まぁ、無害なんだけど、たまに……本当にたまに、ちょっと変な人もいて……」
八重は可愛い。
小学生の頃から、常に『学校一の美少女』の座をキープしており、高校でもそれは変わらない。
白い肌。長いまつ毛に大きな瞳。高い鼻に形の良い小さめの唇。それらが左右対称に配置されている。そして黒の艶々としたロングヘア。いわゆる正統派美少女というやつだ。
母から聞いた話では、池袋で芸能事務所にスカウトされたこともあるとか……
「つまり?」
「変な人に声かけられないように、隣にいてほしいの」
「ええ……オヤジさんにでも頼めよ」
「だって、お父さん開演までに池袋に来られないもん。お母さんは夜の池袋西口なんて、ひとりで行ったらダメって言うし。海斗と一緒ならいいって」
「なんで俺……」
「海斗、柔道部なんだよね?」
お母さんから聞いた、と八重は付け加えた。
「あー……まぁ、そうだけど」
「お願い! チケット代は出すから!」
「そこまで言うなら頼まれてやってもいいけど……でもチケット代は自分の分は自分で払うよ」
承諾してから空を仰ぐ。
ちょっとでもあんなことやこんなことを期待していた俺がバカだった。
「で、誰の独演会なんだ?」
尋ねると、八重は両方の人差し指を合わせ、もじもじとし始めた。
「ええとね…………ちょうさん……」
「ん? きこえねーよ」
「飛翔楼青鳥師匠っていうんだけど」
「は?」
「だ、だからぁ! 飛翔楼青鳥師匠ぉ!」
八重は耳まで真っ赤だ。
「なによ、悪い?」
いや、悪くはない。ないんだが……
それ、俺の爺さんなんだが!
◇
『第三十二回 飛翔楼青鳥独演会』は、つつがなくお開きとなった。
「楽しかったか」
「うん……」
八重はたいそう満足したようで、ぽやぽやとした表情をしている。
俺は、高座に現れた爺さんと目が合った瞬間、その目が一瞬キラリと光ったのを感じて気が気じゃなかったがな!
あとで絶対揶揄われるだろうなぁ……
あの隣にいた女の子はアレかコレかと、訊かれるよなぁ……あー憂鬱だ。
俺の祖父が噺家だということは、親しい友人すら知らない。
別に隠しているわけではない。訊かれないから言わないだけだ。父親の職業は訊かれても祖父の職業を訊かれることは稀だろう。
祖父母とは一緒に住んでいるわけではないし、祖父の本名はありきたりだし、父も俺も祖母似なので、言わなければ誰もわからないだろう。
祖母は日本舞踊の師範だが、父は伝統芸能とは無縁の建築関係の仕事をしている。
俺も以前は祖母に連れられて寄席に行っていたが、それも小学校低学年くらいまでの話だ。
久しぶりに祖父が高座に上がる姿を見た。
父にも八重にも言ったことはないし、言うつもりもないが、俺が小さい頃になりたかった職業は、落語家だった。
理由はひとつ。
高座に上がった祖父が、そりゃあもう格好良かったから。それだけだ。
父が落語をはじめとした伝統芸能と極力かかわらようにしているのを見ているうちに、なんとなくその夢は萎んでいった。
俺が落語家になりたいなどと言ったら、反対されるのは目に見えている。
それを押し切ってまで、落語家になりたいかと言われると────わからない。
それもあって、俺は今、将来やりたいことはなんなのか、わからなくなっている。
高校一年生も残りわずか。
そろそろ決めないとならない。
俺たちの住む街は、池袋から一駅半。
基本的に歩いて帰るが、悪天候のときや夜には電車を使う。
だが、今夜は八重が少し歩きたいと言ったので、歩くことにした。
地下通路を通り、東口に出る。
サンシャインシティに続く繁華街。ネオンが目に痛い。
「はぁ……やっぱりいいなぁ……私、落語家になろうかなぁ」
「やめとけよ。ていうかお前、アイドルになりたいって言ってなかったか」
「うん。なりたいよ。今も」
「『学校のアイドル』で我慢しとけ」
「なんでよ」
「それは……」
「私が何になりたいと思おうが私の勝手でしょ」
「それはそうだけど」
サンシャイン60の窓の灯りが空に伸びている。
ここら辺ではぶっちぎりで高い建物。
それを背に、線路に架かる大きな橋を渡る。
将来のことが、まったくわからない俺は、八重の夢や希望にあれこれ言う資格などない。
それなのに、アイドルも落語家も、あこがれだけにしておいてほしいと思ってしまう。
八重が『学校のアイドル』ってだけでも、俺には手が届かない存在だと思うのに、本物のアイドルになってしまったら、住む世界すら違ってしまう気がするからだ。
うわぁ。キモッ!
自分で自分が気持ち悪いし、勝手過ぎるだろう。
こんなの、アイドルにガチ恋するヤツらよりキモいかもしれない。
「今日はありがとう」
「ん」
気付けば八重の家に着いていた。
「じゃあ、また学校で」
「あぁ」
片手を挙げて背を向ける。
ため息が漏れそうになり、飲み込んだ。
数年ぶりに話すことができたからって、なにを期待してるんだよ、俺。
そのまま歩き出そうとしたところ、後ろから腕を掴まれた。
「ま、まって……」
「のぅわ!」
信じられないほどの力で引っ張られ、俺はバランスを崩し────
「ごごごごごめん!」
シュバッと音がしそうな勢いで離れる。
うわぁ。どさくさに紛れて八重に抱きつくとか、最低だろ、俺!
「あ、ううん……私も急に呼び止めちゃったしその……」
「あー……いや……」
柔らかかった……と脳内でもうひとりの俺が惚けているので、ぶん殴る。
「あのさ、また、一緒に行ってくれる? その、池袋演芸場だけじゃなくて、他の寄席にも……」
「えっ」
「海斗、昔ヒーローになりたいって言ってたでしょ。だからボディガードになってよ」
「いいけど……」
ニヤけそうになるのを必死に堪える。
マジかよ……こんなことってある?
夢じゃねぇだろうな。
「嬉しい! ありがとう! 来月の新宿末廣亭、下席の夜の部、青鳥師匠が主任を務めるでしょ? 絶対行きたいから、忘れないでよ!」
「あ、うん……」
なるほど。
八重としては、これで堂々と寄席の夜の部に行ける、ってことか!
ちょっとドキドキときめいた俺の純情なハートを返せ!
八重は「やったぁ。来月も青鳥師匠に会えるぅ〜」とはしゃいでいる。
なんだその黄色い声。まるで男性アイドルグループに向けるファンの歓声なんだけど。
こいつひょっとして、ジジ専だったりしないだろうな?
「何よ。文句ある? 海斗だってアイドル好きでしょ。それと同じだよ」
「なぜそれを……」
「今の推しは『あずきちょこみんと』のちょこちゃんなんだってね。お母さん言ってた!」
「マジかよ。恐るべし、母親ネットワーク……」
……これ、お前の推しは俺の爺さんなんだけどって言いにくくね?
遠くに見える、サンシャイン60の灯りをぼんやりと眺める。
日常から非日常へ────俺の高校生活がガラリと変わったことを、この時の俺は、まだ気付いていなかった。