9、愛しているの証明に
「……」
どさり、と、トマスの身体が覆いかぶさった。いや、先ほどからヴィオラを覆ってはいたのだが、糸の切れた人形のように、具体的には、後頭部を誰かに殴打されて気絶したらしい。
「……?」
「ヴィオラ……!!すまない……!」
「……伯爵様?」
「……」
廊下に飾ってある皇帝陛下のブロンズ像を手に持ち、荒く息をしているのはこの数日間で更に老いが加速したように見えるウォール伯爵だった。
ヴィオラが老人に対して「伯爵」と呼びかけると、先代ウォール伯爵は悲しそうな顔をする。しかしすぐに、自分の感情を優先すべきではないことを悟り、トマスの身体をヴィオラから退かした。ロバート・ウォールはヴィオラの身体に自分のガウンを羽織らせると、混乱しているヴィオラにゆっくりと話しかけた。
「すまない。息子がここまで愚かだとは」
「……」
ヴィオラは目の前にいるのが、数日前まで自分が「お義父様」と呼んでいた相手に戻ったような感覚に陥った。だがそれは自分の願望だろう。期待してはいけないと律する。だがロバートの眼は、トマスや孫に向けていた時の、ただ現実を直視せず息子と孫可愛さに全てに蓋をする愚かな年寄りのものではなかった。
「……どういうことです?お義父様」
ロバート・ウォールは愚かな人間ではないことをヴィオラは知っているはずだった。だが、それでも「息子への愛は時に賢人をも愚かにさせるのだろう」と納得しようとしていた。そのヴィオラを前に、ロバートはもう演じることを止めたというような、思慮深い目をしている。ヴィオラが呼び方を変えると。ロバートは一度目を伏せた。
「すまない。もっと、私はうまくやれると思ったんだ。君といて十年、私は自分が無能な男だったことを忘れてしまったようだ」
ロバートは肩を落とし、顔には深い後悔と抑えきれない感情が刻まれていた。先代伯爵はトマスを執事のスティーブンに任せ、ヴィオラを暖炉の前の椅子に座らせた。そのまま火を見つめたまましばらく動かなかったが、絞り出した声は震えていた。
「何を仰っているのでしょう?」
ヴィオラは心臓が締め付けられた。この期に及んで、自分はまだこの老貴族を敬愛しているのだと気付く。ロバートが打ちひしがれている様子が何より辛かった。まだ盲目的に孫を可愛がる姿を見ている方がよほどマシだった。
ロバートは深く息を吸い、目を閉じる。まるで罪を吐き出す準備をするかのようだった。
「あの日、トマスが庭に現れた時。君は自分がどんな顔をしていたかわかるかね」
「……?」
「私は見た。目の前で幸福そうに微笑んでいた愛しい娘が、この世の絶望を全て突きつけられたような顔をした瞬間を。私は見たんだよ、ヴィオラ」
ロバートはあの瞬間、後ろに誰がいるのかわからなかった。知らなかった。だが、目の前のヴィオラが、自分の大切な娘が、これまで一度も見たことのない苦しく、悲しい顔をしたのを見た。ロバートはどんなことをしても彼女を傷つけるものを排除しようとその瞬間誓った。そして振り返り、そこにいたのは息子だった。
「私は思ったよ。あぁ、また、また、私の息子が私の娘を傷つけるのかと。十年前に君の心を蔑ろにしただけでは飽き足らず、今度はどんな酷いことをする気なのかと、私は妻の手を握り、トマスの名を呼んだ。妻は私が手を握ると、全て理解してくれた」
この十年、ヴィオラがどれほど強く立ち向かい続けたのかロバートは知っていた。そして、その彼女の強さと勇気があるからと言って、トマスが彼女を傷つけたことをなかったことにしていいはずがない。
「トマスが帰ってきた時、私は、私たちは決めたのだ。ただ追い返すだけでは足らないと。私たちの大切な娘を傷つけ、そして今まさに傷つけていいと思って帰って来た男は、私たちの手で報復しなければならないと」
「……報復?お義父様……貴方は、まさか」
「そうだ」
ロバートの声は抑えきれない感情で震えていた。
「トマスを快く迎え、トマスを伯爵にする。トマスは君から全てを奪おうとするだろう。だが、君にはケプラー公爵がついている。トマスなどくだらない男とは違う、正真正銘、君を助け、君と歩くことのできる真の男性だ。君たちは愚かなトマスとこの君を縛り続けたウォール家から自由になり、公爵と結ばれると、私は……うまく立ち回れると思ったんだ」
ヴィオラはロバートの告白を、ただただ驚きの中で聞く事しかできなかったが、ケプラー公爵の名が出てきた途端、顔を赤くする。
「ま、待ってください。なぜ、公爵と私がけ、結婚……?」
「ヴィオラ」
慌てるヴィオラに、ロバートは微笑した。ヴィオラの前に膝を突き、彼女の手を包み込む。その手は老いた貴族のものとは思えないほど力強く、そして暖かかった。
「君が公爵を見る目は信頼に溢れているだけではなかったよ。彼は誠実で、そして彼は君を対等な存在として扱う素晴らしい男性だ。君の努力や挑戦を心から賞賛している。私の愚かな息子が君に与えた苦労の何もかもを、公爵は君と共に祝福へ変えるだろう」
ロバートはウォール家をケプラー公爵に憎ませたかった。ヴィオラを捨て、ヴィオラを裏切り、ヴィオラを蔑ろにしたことで、怒りを買おうと考えた。
「……だが……」
ロバートの声が途切れた。涙が老人の頬を濡らす。
「すまなかった。ヴィオラ。私は愚かで無能な男だったというのに、なぜ策略をうまくできると思い込んでしまったのだろう。私の行いは君を傷つけただけではなく、恐怖を与えてしまっただけだった。トマスが、まさかこんなことをするとは……」
妻と認めていない女性を無理やり犯そうとするとは、貴族として、そして親として、自分の子供がそんな卑劣な行動を取るとは、想像できなかったとロバートは悔いる。
先代伯爵の涙は止まらず、ヴィオラはその手を強く握り返した。
「……………つまり、今後は全面的に、わたしに協力してくださる、ということですね?お義父様」
「……あ、あぁ。も、勿論だとも……!」
ヴィオラは笑顔を向けた。
まず、自分の中にあるのは怒りだった。
善良で優しいロバート・ウォール先代伯爵は、なんと慈悲深くありがたい方なのだろう。ヴィオラは感謝すべきだと、自分の冷静な部分は判断していた。
(わたしの為に!わたしを裏切っているフリをしてくれたのですって!)
まぁ、なんて素敵なのだろう、ヴィオラは笑い出したくなった。
(やっぱり、トマスの父親なのだわ)
大切な、愛しい娘だと思ってくれているのなら、なぜ考えてくれなかったのだろう?
ロバートに「第二夫人でもいいだろう」と言われた時、自分がどんな惨めな気持ちになるか。
夫妻がヴィオラを無視してトマスとエミールに愛情を注ぐ姿を見せつけられて、ヴィオラが何も感じなかったと思っていたのだろうか。
そして何より、自分達が負わせたその傷すらも「公爵と結ばれれば全て癒されるだろう」などと、なぜ思い上がれるのか……!!
他人の人生を自分達がコントロールして「うまくできる」「幸せにしてやれる」と、なんて傲慢なのだろう。
「お義父様……わたしのために、とても辛い選択をさせてしまって申し訳ありませんでした……そして、ありがとう……」
ヴィオラの心から、先代伯爵夫妻への残っていた愛情が完全に消え去った。だが、ロバートはヴィオラが微笑んだのは許してくれたからだと、ロバートの自分の心を偽り、身を削る献身に感動して受け入れてくれたのだと考えた。ロバートはヴィオラを抱きしめる。
「……間に合って本当に良かった」
それはそう。
ここでトマスに抱かれ、うっかり妊娠してしまったら、ロバート夫妻は「大切な娘が孫を産んでくれた」と、次にどんな「勝手な幸せ」を考え暴走しただろう。考えるだけでぞっとする。
暖炉の火が晴れやかなロバートの顔を温かく照らした。部屋の中には愛と許しが満ち溢れているとでも感じているのだろう。ロバートの愚かな策略はヴィオラをトマスの闇から救い、ケプラー公爵との輝かしい未来を導くのだと、愚かな老貴族は信じている。
ヴィオラは自分の中にあったケプラー公爵への恋慕について直視するより、今は、自分の人生を「操ることができる」と思っているウォール家の人間へ、自分がどんな人間なのかを知らせる必要があると決意した。
予定より少し長くなっていますが、もうちょっと続きます。申し訳ない。