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8、女は三界に家無し


 奇妙な夢を見た。空が遠くて狭苦しくて、高い建物がいくつも立っている不思議な世界。鉄の塊が早く動いている中で、いったい皆どこに行くのか、どうして移動しているのに人の多さが絶えないのかと不思議になるほど忙しなく、大雑把に感じる街の中。


 ヴィオラはそこで別の名前で呼ばれていた。妙な響きの名前で姓が先に来て、次に名が呼ばれる。その世界には貴族というものはいなくて、けれど農民や商人という区切りがしっかりあるわけではなくて、ヴィオラからすれば肌寒さを覚える程に「自由」というものがある世界だった。


 その世界でも、ヴィオラは結婚していた。けれど相手はトマスのように結婚式の日に別の女の手を引いて去って行ったわけではなくて、毎朝毎晩出て行って、滅多に顔を合わせないけれど、ちゃんと家に帰ってくる夫だった。

 家にはヴィオラの他に夫の両親もいた。ヴィオラは結婚する前には「仕事」を持っていた。それはヴィオラにはよくわからないが、その「女性」はその「仕事」に誇りを持っていて、できれば長く続けていたいと思っていたようだった。だが夫に「両親の世話をしてほしい」と頼まれ、その女性は承諾した。そうして十年二十年と、その女性は家の中が彼女の世界のすべてになるほど、やらなければならないことが多かった。四角い箱の中で見える映像をじっと見ている時間さえなく、舅と姑に呼び出されては、家族というより召使のように扱われていた。


 けれど彼女は、そして夫は、義両親は「嫁とはそういうもの」という価値観があった。そうすべきこと。そう、義両親に仕えること、夫が外に出ている間に家の事を万事滞りなく済ませることが「美徳」であり「優れた妻」「嫁」であると、そうする人生が「女として素晴らしいもの」だと、彼女は思い込んでいた。


 もう十年ほど経った頃、人の手に何か小さな、四角い板があって当たり前になってきた世の中で、少しずつ、本当に少しずつ、世の女性の意識というもの、そして声の大きさに変化があった。


 無償で無休で、労いの一つもなく、女が家の中のことをただひたすら「やって当たり前」という風潮が「おかしいのではないか」と、声に出して抵抗できる女性が増えてきた。


 ものを学ぶ女性が増えてきた。

 その中で、女性が男性と同じように、同じ条件で学ぶことをを目指しても、故意に点数を操作され、理不尽に学ぶ機会を奪われていたことが世に明らかになった。


 女性が「家族の世話をするべきだ」という考えに「なぜ?」と声を上げるものが増えてきた。


 少しずつ、少しずつ、世の中が変わっていったのを、夢の中でヴィオラは感じた。

 夢の中のヴィオラの夫は、子供の身長や好きな食べ物も知らなかったが、世の中の「夫」「男性」が徐々に、子供の教育に関心を持つようになっていった。

 老いた親の世話をするのは嫁だという考え方が、それを専門とするプロに任せることが当然の選択肢となっていった。


 変わる、変わる、世界が少しずつ変わっていくその夢の中で、ヴィオラは老いていた。

 夢の中のヴィオラの夫は、両親が他界するとヴィオラを追い出した。両親の遺産が入り、外で作った女を妻にして遺産で暮らしていくのだと言う。ヴィオラはその世界の多くの女性が声を大きくできたとしても、多くの女性が「権利」というものを知り、主張できるようになっていたとしても、その夢の中のヴィオラは「古い人間」だった。

 世の中が変わっても、夢の中のヴィオラはわからなかった。

 家の中だけで生きてきた女が、どうすれば夫から何もかもを奪われるのを阻止できるのか。義両親の世話をすることに時間を費やし、友人と呼べる者もいなくなった。ヴィオラの両親はすでに他界しており、相談できる先もない。子供たちは父が母親を扱う姿を見て、そして夢の中のヴィオラが「そういうもの」と従っていたため、母に対して父と同じように振る舞うようになっていった。


 自分の人生はなんだったのかと、鞄一つで追い出された夢の中のヴィオラは考える。


 行き交う人は自由で身分に捕らわれていない。

 新しい考えが世に広まり、それらを持って生きることができれば背筋が伸び、風を冷たく感じるより、この風に向かい進む楽しさを知ることができただろう。


(あぁ、寒い。凍えていく……)


 けれど遅かった。

 歳を取った夢の中のヴィオラには、何もかもが遅かった。

 折角知ることができたのに。

 折角、「こうあるべき」に対して「嫌!」と言うことのできる風が世に吹いてきていたのに、それらを知る機会を得たというのに、夢の中のヴィオラ。おそらくは自分の前世の女は、それらの「自由」と「権利」を知りながら、それを自分自身で使うことができなかった。


 あぁ、悔しい……。

 口惜しい。


 ヴィオラはその世界に「女は三界に家無し」という言葉があることを知った。女というものは幼いころは親に従い、嫁いでからは夫に従い、老いてからは子に従うものだという考えだった。ヴィオラは夢の中でトマスと、そしてウォール伯爵夫妻のことを考える。


 そして、夢の中のヴィオラの前世の女の無念を考えた。


 次に人に生まれた時には、他人のためではなく自分のために生きよう。


 他人に自分の価値を決めさせることなく、自分自身で「価値がある人間だ」と胸を張って生きていける人生を送ろう。


 そのように、そう、そうして、無念に、無残に、無常に、死んでいった自分の前世を、ヴィオラは思い出した。







「……なるほど、道理で……今世では妙に「自分の才能を輝かせてやるぜ!」って、全力だったわけだわ……」


 長い長い夢を見終えて、ヴィオラ・ウォールはぱちりと目を開ける。十年、見慣れた天井だ。自分があまりのショックと悔しさで意識を失ったことはなんとなく自覚がある。でなければとうにこの部屋から追い出されていただろう。さすがのトマスも気絶した女を無理に屋敷の外に放りだすことはしなかったらしい。


 しかしヴィオラが部屋を見渡すと。調度品が全て撤去されていた。開けていないのでわからないが、おそらくクローゼットの中も消えているだろう。そこそこの広さの部屋に、天蓋付きのベッドがぽつんと一つだけ。やることが子供じみている。ヴィオラは軽く頭を振った。


 前世の記憶をなんとなく思い出し、追随して「自分の前世はこうだったのか」という感覚は得たが、それでも自分はヴィオラであり、孤独死した異世界の老女という認識はない。ただ、彼女の無念や悔しさと、彼女が新聞や四角い箱から「女性の権利」や「女性の社会進出」に関して得た情報をとても大切に心の中にしまっていたことは引き継いでいる。


(この記憶、というより、知識としての情報はわたしに必要だわ)


 ヴィオラは考えをまとめるときにはしっかり紙に文字として書き出し、細分化して「なぜ」を突き詰める。だがこの場にはベッドしかなく、頭の中でヴィオラは現在の自分について考えた。


【現状】

・自分はウォール家の嫁である。

 →さらに、トマスは自分の夫である。

・離婚はトマスからしか請求できない。

 →法的に妻には財産を相続する権利がない。

 →離婚した場合、持参金を返却されそれが生活資金となる。

 →持参金はトマスが使い込んでいる。

 →夫、あるいは嫁ぎ先に持参金を使い込まれる状況はこの国の女性が多く経験することで、その場合は生家の父、あるいは兄や弟など「男性」に申し立てをして回収するのが一般的である。

・事業の経営はこれまで伯爵名義で行われており、女性であるヴィオラはあくまで「実務的な処理を行う人間」である。

 →トマスの第一夫人だが、トマスにより第二夫人にされる可能性が高い。この場合、現状の「実務処理を行う人間」の立場は維持される。

 →第一夫人の立場を死守する必要はあるか?

 

「トマスの妻でいたいかって?冗談じゃないわ」


 頭の中の文字に、ヴィオラは大きく×を付けた。


 離婚した場合、全てを奪われる。

 確かに、ヴィオラという実務能力を有した人間がウォール伯爵家から消えれば多少の「仕返し」にはなるだろう。


「でも、わたし一人がいなくなって回らなくなるような、つまらない運営はしてないのよ」


 最初は少し混乱するだろうが、ヴィオラ・ウォールという人間がいなくなっても、世には才能あふれる人間は多いし、トマスが「ヴィオラの代わりに仕事をする人間」として誰か雇えば、継続して事業を行うことはできる。

 ……まぁ、拡大はしないだろうが、という多少の期待をヴィオラはしたかった。自分がいないと困る点を想像することとして、それくらいは許されるだろう。


 そうなると結果的に、ヴィオラだけが多くの物を失うだけになる。


 ヴィオラは長い夢を見る前の自分だったら「やられた」とそう思うだけだった自覚があった。

 結婚式の日にトマスがこなかったのを「自分の判断ミス」だと受け入れたように、自分が甘かったのだと、自省し「次」を目指すことにしただろう。


 悔しさはある。

 伯爵夫妻の手のひら返しについても思うことはある。

 トマスの厚かましい要求に憤る心ももちろんある。

 だが、この世界の常識だけを持ったヴィオラであれば、悔しいが納得したのだ。


 伯爵家の正当な跡取りはトマスで、伯爵夫妻は実の息子を愛している。

 嫁に最も大切なことは子供を産むこと。

 それをしていなかった自分は確かに、務めを果たしてはいなかった。

 元々ヴィオラが「積み上げたもの」は伯爵家の財産で、女が財産を相続出来ないのは当たり前。伯爵家は女であるヴィオラに事業を任せて「くれた」寛大な一家で、感謝こそするべきで、恨むのは筋違いだ。ヴィオラは本来なら平民で、女で、自分の才能をこんなに十年間も生かして「仕事をする女」としてやらせて「貰える」ことなどなかったのだ。それを十年も「やらせてもらえた」ことに感謝すべきだ。

 女が財産を欲するなどありえない。

 トマスのもとで働くことが嫌なら、トマスに全てを「返し」て、潔く身を引くべきだ。


 この世界の、この国の女としての価値観は、ヴィオラを「納得」させてた。そしてヴィオラが選択すべきなのは「トマスの第二夫人として、自分の才能を発揮させてもらう」か「トマスのもとを去り、別の場所で事業を始めるか、ただしこの場合は貴族としてのツテや身分もリセットされるし、これまでの実績は全てトマスのものになる」のどちらかしかないのだ。


 もちろん、夢の中の「ニセンニジュウゴネンノゲンダイジンノカチカン」を手に入れたヴィオラは上記の二つの選択肢に対し「ふざけてるの?」と指を立てる。


「…………」


 だが、ここでヴィオラは違和感を覚えた。


 この上記の価値観は、夢を見る前のヴィオラにとって「当然」だったのだ。

 そう、そもそも、トマスが帰って来た時に、強い嫌悪感、拒絶、抵抗を覚えた自分が「おかしい」のだ。

 もちろんヴィオラにも人格があるので、トマスを手放しで受け入れることなど不可能だっただろう。だが、この世界の女性は「夫に従うもの」という当たり前の価値観があり、夫に結婚式の日にバックレられたヴィオラが伯爵に従順だったように、トマスが戻って来たのなら、従うべき相手を変えるだけだった。そもそもその時はトマスがおぞましい考えを持っているなど知らなかったのだ。


「……なのに、わたしはとにかくトマスが嫌だった。――なぜかしら?」


 生理的に無理という根本的な理由だったらどうしようもないが。


 ……だがヴィオラはこの問題について、自分は深く考える必要があると感じた。


 何しろ、泣くほど嫌だったのだ。


 前世の知識を得ていないままの自分だったら「第二夫人という立場でも自分の能力は発揮できる」と前向きに受け取っただろう。そうあるべきだ。だが、前世の知識もないままに、ヴィオラはそれを強く拒絶した。


 なぜだ?


 とにもかくにも、泣くほど、気絶するほど「嫌」だった。


 ヴィオラは逆説的に考える。

 自分自身がとことん、トマスを拒絶したため、前世の知識が引っ張り出されたのではないだろうか。


「……もっともっと、深く……考えるべきだわ」


 ニセンニジュウゴネンノゲンダイジンノカチカン、というこれは、ヴィオラの何を「救う」ために呼び起こされたのだろう。


 思案する。口元に手を当てて、頭の中の黒板に自分の思考を書きなぐる。分析する。細分化する。なぜ、を問いかけ続けて、自分が一体、どんな救いと許しを欲しかったのかを見つけ出そうと試みる。


「おい!ヴィオラ!!!!」


 だがヴィオラが自分の本心について紐解く前に、部屋の扉が乱暴に開かれた。


 窓の外はすっかり暗く、今が真夜中であることはわかる。だというのに、トマスが乱暴に入って来た。近づくと、酒のにおいがする。右頬が何か手当をされた跡があるが、酒を飲んで誰かと喧嘩でもしたのだろうか。


「……トマス?」


 ヴィオラはベッドの上から飛びのいた。扉の方に駆けて逃げたかったが、それよりもトマスが早かった。トマスは乱暴にヴィオラの腕を掴み、床の上に組み敷く。


「ッ!?」

「お前がなんだっていうんだ!!どいつもこいつも……!!」

「??」


 体の上で喚き散らすトマス。ヴィオラは何がなんだかわからない。だが酒臭く、熱いトマスの吐息が首や胸元にかかりとにかく不快だった。だがその不快感は、トマスの乱暴な手がヴィオラの寝間着の下に入り込んできたことで、まだ先ほどの方がマシだったのだとヴィオラに教えた。


「何を……!」

「何をされるかわからないほど子供じゃないだろ?」


 組み敷かれ、ヴィオラが怯えた様子を見せたことでトマスは少し冷静になってきた。他人を甚振る主導権を得たことで感じる優越感と、肉欲に濁る瞳をヴィオラに向ける。


「喜ぶところだろう?ヴィオラ。君を抱いてやるんだ。妊娠するまでこの部屋から出られないようにしてやる」


 ぞっとした。


 本気で言っているトマスの眼と声に恐怖を感じただけではなく、ヴィオラはトマスが自分を思い通りにしていい対象だと感じている事、そして今の自分の身分がそれを受け入れなければならないことにヴィオラは体を震わせた。


 抵抗しようとしても、初めて他人に自分の身体を押さえつけられ、そして何をされるか、恐ろしさと気持ちの悪さから体が震え、動かなくなる。声を出すことすらできなかった。


「はっ……はは!」


 嫌だ、と悲鳴を上げることもできない、怯えたヴィオラを見下ろしてトマスは引きつった笑い声をあげる。


「あの公爵に君の髪でも贈ってやろうか。さぞ悔しがるだろうな!自分が僕より優れているというようなあの顔が、どんなに歪むか見てみたい。あいつが何をしてきたって、君は僕のものだ!」


 ゲルト・ケプラー公爵。


 トマスが誰の話をしているのか、ヴィオラにはすぐにわかった。


 そしてその途端、ヴィオラは自分の眼から涙が溢れ出したのを感じた。


 先ほどまでの恐怖や嫌悪感はまだある。けれど、ぼろぼろと、とめどなく涙が出てくる。トマスはそれを悔し涙、恐怖からのものだと考えたようで、気を良くしてヴィオラの服を剥ぎ始める。


(あぁ、そうか……そうだったの……)


 トマスに体をまさぐられながら、ヴィオラは自分がなぜ「嫌」だったのか、そこでやっと理解した。


 庭でトマスの姿を見た時に、ヴィオラは「夫が帰って来た」ことを自覚し、そして、目の前の男性が「自分にとって唯一の男性」でなければならない事実を思い出したのだ。


 トマスが帰って来たのを理解した時、ヴィオラは「トマスに抱かれる妻である自分」を想像しなければならなかった。それをヴィオラは拒絶し、嫌がり、とにもかくにも、逃げ出したくなった。


 なぜって、理由は一つだ。


 ゲルト以外の男に、触れられたくないのだ。




人生で一度は言ってみたい「法廷で会おう」を連呼しながら書いていました。

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巻き返し楽しみに読んでいましたが、前世出てきちゃったのは残念...。
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