6、トマス・ウォールの主張
ヴィオラは深呼吸をして自分を落ち着かせてから、伯爵一家が揃っている部屋の前に立った。
(一家が揃っている?それじゃあ私は何なの?)
自分の考えに自嘲する。この十年、自分はウォール家の人間として生きていたのではなかったのか。少なくともヴィオラはそう信じていた。だが、トマスが戻って来たのを見た後、振り返った伯爵夫妻のその時の顔は見えなかったが、後ろ姿は間違いなく喜んでいて、聞こえた声も歓喜に満ちていた。
その瞬間、ヴィオラに浮かんだのは「なぜ?」という疑問だった。
それは伯爵夫妻に対して、自分はトマスを二人が怒鳴り散らして追い返すと期待していたということだろうか?二人はトマスとその息子を歓迎した。それを自分は「嫌だ」と感じたのか。確かにそれは可能性としては考えられることだ。
少なくともこの十年、二人を献身的に支えてきた自負がヴィオラにはあり、トマスは二人を見捨てた人間だとヴィオラは思った。だが、二人にしてみればトマスは実の息子で、彼が十年前に二人の前から姿を消す前までは「大切な息子」だったのだ。失った息子が戻ってくれば、親なら、善良な二人なら、それを喜び迎え入れるのは……二人が「良い人間」であり、その恩恵を受けてきたヴィオラは「彼らの幸福」だと受け入れるべきだった。
彼らにトマスを拒絶して欲しかったのか、ヴィオラは自問自答する。
そしてこれが大切な問題なような気もした。
だがいつまでも扉の前に立っているわけにはいかない。
ヴィオラは前向きに考えようと試みた。
突然のことで驚いたが、何も悪いことじゃない。
トマスが、伯爵家の後継者が戻って来たのだ。
伯爵は安心するし、この家も安泰。ヴィオラはトマスが伯爵になれば伯爵夫人となる。宙ぶらりんだった身分がやっとはっきりして、事業の地盤固めの仕上げも想像よりずっと楽になるはずだ。
確かにこの十年トマスは不在だったが、戻って来た。もちろん彼に言いたいこと、聞きたいことはあるが、老いた伯爵夫妻が息子を取り戻せたことは幸福なことではないか。
ヴィオラは軽くノックして、伯爵の返事を待ってから部屋に入った。
「あぁヴィオラ!両親から聞いたよ!君はこの家の救世主だ!」
まず最初に入って来たのは笑顔のトマスだった。大股で近づいてヴィオラを抱きしめた。後ろは扉だったためヴィオラは逃げることが出来ず、夫の抱擁を受け入れるしかない。ヴィオラの身体は完全に強張っていたが、トマスはそれを気にしなかった。
「君ならきっとウォール家を救ってくれると、僕が見込んだ通りだったね!」
「…………えぇ、そうね。そう約束したもの」
貴方は約束を破ったけれど、と言外ににじませたつもりだったが、トマスには通じなかった。抱きしめ返さないヴィオラにちょっと困ったような顔をして、トマスは自身の息子をヴィオラに紹介した。
「は、はじめまして……奥様……ぼ、ぼくは……」
「エミール、奥様だなんて、お前は貴族の血を引いているんだ。――あぁ、悪いね、気を悪くしないでくれヴィオラ。君が庶民だってことを言ってるわけじゃない」
「……」
エミールという少年はとても愛らしかった。トマスと同じ金色の髪の健康そうな子供だ。
……母親の、エヴァージンだかジェンはどこにいるのだろう?
ヴィオラの疑問に気付いたのか、トマスが軽く咳払いをする。
「実はね、エヴァは街の宿屋に残しているんだ」
病死したとかではないのか。ヴィオラは他人の不幸を願うわけではなかったが、二人で帰ってきたので彼女が亡くなったとかそういう展開があったのかと想像したが、ご存命で大変お元気だと言う。
ヴィオラのいる屋敷に愛人を連れてこない辺り、結婚式をとんずらした男でもヴィオラに多少は気を遣うことができたのかと感心していると、トマスが話を続ける。
「だってそうだろう?彼女はこの伯爵家の正しい女主人なのに、君がこの家に居座っているのを見たら悲しむ。自分はなんなんだって、惨めな思いをさせるなんて、彼女の夫として僕にはできないよ」
「………………………は?」
「あ、もちろん君にはちゃんと別宅を用意するから安心してくれ。これまで通りそこで仕事をしてくれればいいし、ちゃんと手当も支払うから不自由はさせないよ」
「……ちょっと、待って。なんの話をしているの?」
「?なんのって……父さんが僕に爵位を譲ることになったから……―――まさか、ヴィオラ、君は自分が伯爵夫人になる気でいるのか?ただ金稼ぎをしただけで?」
ヴィオラはウォール伯爵を見た。
ソファで寛いでいた伯爵はヴィオラの視線を受けて笑顔で頷く。
「あぁ、トマスに爵位を譲ろうと思ってね。本来十年前にそうするつもりだったが、こうして息子が戻ったのだから当初の予定の通りにして問題ないだろう」
「……トマスの愛人については?」
「ヴィオラ!愛人だなんて……!エヴァは僕の妻だ!彼女を侮辱するな!」
「書類上は貴方の妻は私のはずなんだけど」
「エヴァは僕の子供を産んだんだ。それがどういう意味かわかるか?金を稼ぐなんて誰にでもできることだ。それこそ、能力のある人間を雇って使えばいいんだ。だが伯爵家の跡取りを産むのは?伯爵夫人にしかできない務めだろう。ヴィオラ、君は伯爵夫人として最も大切な仕事をしていない。ただ金稼ぎをしただけの使用人なんだよ」
なぜこの男は当然だと、自分が正論を吐いているという顔でこんなに酷いことを言えるのだろう?
ヴィオラは心臓がドクドクと、ショックと屈辱で激しく鼓動しているのを煩く感じた。トマスは自分の言葉が最も正しいという顔をしている。こういう顔は、ヴィオラにとってこの数年間なじみのある顔ではあった。ケプラー公爵のことをヴィオラは思い出す。「法的には」「法律上は」という前置きをしてから、必ずあの生真面目な法律家は話をする。ケプラー公爵の話は時にはヴィオラに不利になるものもあったが、淡々とした、そして理路整然とした彼の話し方はヴィオラにとって不快ではなかった。
自分の言動に確固たる自信があるという前提で話す男、という所は同じなのに、なぜトマスのこの姿はこうもヴィオラを傷つけるのだろう。
こんな男が自分の夫だという事実に、ヴィオラは吐き気を覚えた。
「…………つまり、私と離婚してくれるってことね?」
この状況の中で、ヴィオラにとって唯一の救いとなるのはこの男から解放されることだった。この十年、ヴィオラにはトマスと書類上の婚姻関係を破棄する権利がなかった。だがトマスがエヴァージェンを伯爵夫人にしたいというのなら、それはヴィオラと離婚してくれるということだ。
だがヴィオラのこの言い方がトマスには気に入らなかったらしい。期待を込めてしまったのがわかったのだろう。トマスは冷酷に首を振った。
「僕の話を聞いていなかったのか?君はウォール家のためにこれからも働いて構わないんだよ?ただエヴァに正当な順番を与えたいだけだ。確か、父の知り合いに法に詳しいがり勉がいただろ。なんだったか、あの目つきの悪い陰険な……公爵家の。あいつに金を払って書かせればいいんだ。君との結婚は二番目で、僕は本当はエヴァと先に結婚していたってね」
そうなればエミールは庶子ではなく、正当な後継者として何の問題もないとトマスは息子を抱きしめる。そして信じられないことに、このトマスの馬鹿げた考えをウォール伯爵も頷いて支持している姿を見せた。
「孫が庶子というのは気の毒だ。ヴィオラ、君にはすまないと思うが、君は伯爵夫人の座に拘る必要はないだろう?伯爵家の使用人であっても、君の能力に変わりはない。きみは素晴らしく有能な事業家だ。これからも、この家のために尽くしてくれるね?」
ヴィオラはこのふざけた言葉をトマスが言ったなら、何か反論する気になった。だが、それをなぜ、伯爵が、義父が言うのか。
足元が崩れ落ちるのを感じた。
ヴィオラは自分の眼がしらが熱くなり、ぎゅっと唇を噛んだ。
泣くのはケプラー公爵の前で散々泣いた。だがあの時はショックと自分の感情が上手くコントロールできず、理由がわからずに流れてくる涙だった。
今、ヴィオラが堪えているのは悔し涙だった。
義母はエミールを膝に乗せ、エミールは目の見えない祖母のために積み木の形を丁寧に説明している。そんな二人の姿をウォール伯爵は優し気に眺め、トマスはそれを当然だと思っている。誰もヴィオラを見ていない。
「……私の十年を、貴方たちはなんだと思っているの?」
小さく呟くヴィオラの声を態々拾う者もいない。
ヴィオラはトマスに彼女の使用する部屋をエヴァージェンのために空けるようにと命じられた。それは新しい伯爵が、古くからの使用人に女主人を迎えるための準備をするように行う指示だった。
押し寄せる感情の波についに耐えられなくなり、ぐらり、と、ヴィオラはその場で意識を失った。
トマス〇ね、と思いながら書いています。
かならず報いは受けさせるからな……。