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 書斎の執務机の上に置いた書類を見下ろし、ゲルト・ケプラー公爵は目を細めた。

 こうして何かの契約書、あるいは法的な書類を作成することは彼にとってそう珍しいことでもなくそれほど労力を要するものではなかったが、ことこの書類に関しては彼は出来る限りの時間を費やし、何度も何度も遂行し、十年かけて「完璧だ」と思えるものを作り上げた。


「ご主人様、お客様がいらっしゃいました」


 この時間は誰も通すなと命じているはずだが、執事が控えめなノックと共に告げてくる。ケプラー公爵は公爵家に仕える執事が有能であることをよく知っている。そのため主人の言いつけを執事が破る、あるいは失念することがないことをわかっていた。そうなると執事がこうして書斎をノックしたのはケプラー公爵が望んでいる行為であることになる。


 誰も通すな、と命じてはいるが例外がある。

 

 ヴィオラ・ウォール。彼女だけはケプラー公爵がどんなに多忙でも、彼女が自分を頼って来たなら追い返すことはせず必ず通すようにと、彼女のために時間を作ることはケプラー公爵にとってとても重要なことだった。


 執事はすぐにヴィオラを書斎に通すだろうとケプラー公爵は考えた。だが一歩書斎に入って扉を閉めた執事は珍しく何か言い辛そうな様子を見せている。


「どうかしたのか」

「……ご主人様。女性というのは感情的な時には解決策や正論を欲しているわけではございません」

「……なんの話だ?」

「ウォール夫人は確かに常日頃、旦那様のその融通の利かず真面目で何にしても法律重視の発言を面白がって……いえ、好意的に見てくださっていらっしゃる変わりも……お優しい方でございますが、何事も例外はございます。良いですかご主人様、泣いている女性に差し出すべきは法律書ではなくハンカチでございます。できればレースの、」


 執事が何を言いたいのかをはっきり理解する前に、ケプラーは書斎を飛び出した。彼の耳は執事の言葉を冷静に拾っていたが、「泣いている」という言葉が出た瞬間、大股で扉に近づき、執事を押しのけて廊下に出た。


「…………ヴィオラ殿?」

「………………」


 廊下にはヴィオラ・ウォールが立っていた。いつも世を密かに面白がるように挑戦的に上がっている口元は強く引き結ばれ、俯き前髪で隠れた瞳は見えない。ケプラーが腰を屈めて彼女の顔を覗き込むと、大きな瞳には涙が溢れていた。零れないようにと必死に体を震わせているヴィオラに、ケプラーは自分が彼女に無礼を働いてしまったと後悔する。


 ケプラーにとって人が泣こうが喚こうが、何か感情が沸き上がることはなかった。感情的な行動というのは見苦しいものだと感じる男は、他人がなぜ喚き散らすのか、感情を熱くするのかがわからない。だがいつも気丈に振る舞い、「公爵様!この考えはどうかしら?!」」とケプラーに知恵を頼りにしてくるヴィオラ・ウォールのことはどうしても目が離せなくなるのだ。


 その彼女が泣いている。


 少なくともこの十年間、ケプラーはヴィオラ・ウォールが涙を流している姿を見たことがなかった。人に見せずに泣いたことはあるかもしれないが、他人の前で弱みを見せることをしない女性であることをケプラーが一番わかっている。こうして何かをこらえきれず、吐き出そうとしている場所、相手に自分が選ばれたのだという理解が遅れてやってきて、ケプラーはそれを喜ぶ自分を恥じた。


 書斎に案内し、ケプラーがヴィオラのために用意した椅子に座らせる。ケプラーはその間にハンカチを探したが、あるのは上質だが地味なものばかりだった。涙を拭くのは事足りるだろうが、執事の言うようなレースのものでもあれば、目を楽しませ、彼女の心を慰められたかもしれない。少しすれば執事が持ってきそうな気もするが、いつまでもヴィオラの頬を濡らしたままにはしておけないと、ケプラーは比較的明るい色合いのハンカチを差し出した。


「……ありがとうございます」


 それを受け取り、そっと自分の頬や目を抑えて、ヴィオラ・ウォールは顔を上げた。


 泣いていたのが嘘のように、いつもの彼女……いや、表情が浮かんでいない、自分の感情をどう持っていけばいいのかわからない人間の顔をしていた。


「トマスが帰って来たの」

「……なんと?」

「子供を連れていたわ。十歳くらいかしら。帰ってきて、それで、今日からここで暮らすんだって、その子に言って、自分の息子だと、お義父様とお義母様に紹介した」


 淡々とヴィオラは語る。


「失敗したわ。私、どうすればいいかわからなくなって、頭が真っ白になったの。喜ぶべき?夫が帰って来たのよ。でも私はショックが大きかった。わからないの。嫌だと思った理由が。トマスが帰ってきて、伯爵も夫人も喜んだわ。二人はトマスとその子供を抱きしめて、十年ぶりの再会を喜んだ。私はトマスが私を抱きしめようとしたのを一歩下がって避けて、仕事があるからって、逃げてきたの。全く馬鹿よね。その場を離れたのよ?その間に残った人たちが何を話して何を決めても、私は意見できなくなるっていうのに!!」


 ヴィオラは完全に混乱していた。

 

 この知らせはケプラーにとっても驚くべき内容だった。


 トマス・ウォールが戻って来た?


 いや、確かに考えられたことだ。伯爵家の身分を捨ててどこぞの愛人と逃亡した男だ。ヴィオラの持参金だけで一生暮らしていけるわけではない。彼女の持参金は破格の金額だったことは有名だが、貴族の感覚で生活していれば二十年ほどで食いつぶすだろう。そうなれば困った男は当然のように実家に戻ってくる。わかってはいたが、予想よりはるかに早い。


 そしてケプラーは自分が動揺している事実を客観視した。


 ヴィオラは「夫が帰って来た」と言った。彼女にとってトマスは夫、唯一の男なのだということを告げられたようなショックだった。だがそれは自分の身勝手な傷心で、ケプラーが今すべきことは、震えるヴィオラの話を聞く事だった。


「貴方が不安に思う理由は想像できる。この十年、貴方がウォール家の守護者だった。トマスが貴方の権利を脅かすことを恐れることは間違っていない」

「……」

「貴方が悔いているように、今、ウォール家を長く空けることは良い選択にはならないでしょう。馬車で送らせ……私もご一緒しても?……ヴィオラ殿?」


 ケプラーが考え付く助言を行っていると、ヴィオラは無言だった。真剣に聞いている、考えている、あるいは衝撃を堪えているという風ではなく、何か、奇妙な感覚を自分の中で訝るような様子だった。


 そんな状態の彼女を一人で屋敷に帰すのは心配で、ケプラーは同行を申し出たが、暫く黙っていたヴィオラは緩く首を振る。


「……いいえ、いいえ。大丈夫。公爵様、ありがとう。ごめんなさい、突然……」

「貴方が来るのはいつも突然だ」

「そうね。そう……そしていつも、貴方はわたしを助けてくれた。――ウォール家に帰ります」


 一人で大丈夫だとヴィオラは繰り返した。

 ケプラーは気が気でなかったが、しかし彼女の選択は尊重すべきだと考え、結局見送ることにした。




 



 



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