3、稀代の法律家ゲルト・ケプラー公爵
来る場所を間違えたんじゃないかしら?
ヴィオラは義父が「最も信頼できる法律家」として名を上げた人物の屋敷を訪れ、案内されるままにどこかに向かう間中、とんでもない場所に来てしまったと怯えた。ゲルト・ケプラー公爵の屋敷はこれまでヴィオラが出入りした貴族の屋敷とは比べ物にならないほど美しかった。豪華なシャンデリアは至る所に当然のように設置され、大理石の円柱や見事な絵が刻まれたアーチ状の天井はこれがギャラリーではなく一個人の住宅の天井に描かれているものでよいのかと疑問に思うほどの美しさだった。
貴族を知った気になっていたのだわ。
ヴィオラは自分の無知さに気付いた。没落寸前のウォール家と、そして成金と言われる自分の実家についてこれまでヴィオラは「ただ生まれが貴族だっただけ」と考えていた。けれど圧倒される。この家の内装だけでも、ただ金をかけただけでは作り上げられない。良い物を知り、良い物だけに囲まれ、それを消費する立場として生まれた者だけが、この空間を維持できるのだ。
通されたのは応接間ではなかった。
これまでの華美さから一変して、実用性を重視したような書斎だった。この空間はヴィオラにとって初めてゆっくりと呼吸ができる場所だった。安心する、というより「なぜこの配置なのか、なぜこの色を使っているのか、どうしてここに装飾が施されているのかわかる」という安心感からだった。
「ウォール伯爵のご紹介であるとか」
「突然お伺いして申し訳ございません。わたしはヴィオラ・ウォールと申します」
書斎の机には黒い髪の男がこちらに顔をあげることもせず黙々とペンを走らせていた。部屋の主、ケプラー公爵だ。
ヴィオラは伯爵に書いてもらった紹介状を差し出す。だがケプラー公爵は顔を上げようとせず、書き物を続けている。
「疎遠だった伯爵が私の元へ女性を寄越す理由など一つ。貴方とトマスの婚姻について、私の法律家としての意見を聞きに来たのでしょうな」
「わたしを助けてくださいませんか」
なぜ彼は顔を上げないのか。ヴィオラは苛立った。まるでこちらを一瞥の価値もない相手だと、会話をする前から判断して切り捨てようとしている。
「愚かな選択をした者はその責任を果たすべきでは?」
暫くヴィオラが黙っていると、ケプラー公爵はやっと顔を上げた。
書斎であるため部屋の中には光が入り込まず、枝付き燭台にともされた蝋燭の明かりが部屋中を照らしている。相手の赤い目に自分が映ったことに気付いたヴィオラは、頬がカッと熱くなるのを感じた。
「骨の周りに脂身を巻きつけられたものをいかにも有難がって大金を支払ったのだろうが」
「爵位を金で買った成金だと仰りたいの?」
ケプラー公爵はヴィオラを自分と対等な人間だと思っていない目をしていた。褐色の肌に赤い瞳の公爵は「事実では?」と容赦ない言葉をヴィオラに返し、再び机の上にペンを走らせる。
バンッと、ヴィオラはその机に自分の手のひらを押し付ける。
「……」
「人と話をする時は顔を上げて相手の眼を見て話しなさい、ゲルト・ケプラー公爵」
「会話とは己と同じ水準の人間と行うものだ」
「いいえ、お互いを正しく知るための必要な情報伝達方法よ。貴方は法律家として依頼人である私に助言を行うため、私と意思疎通を図る努力をするべきだわ」
「依頼人……?」
そこでヴィオラは自分の指にはめている結婚指輪を見せた。現在彼女が持つ私物の中で最も価値がある物だ。この指輪をヴィオラの指にはめたのはトマスだった。
「私の意見を聞くためだけに貴方はその指輪を差し出すと」
「貴方の言葉が私の運命を決めるのよ。指輪の1つじゃ申し訳ないくらいだわ」
「……貴方の望む言葉でないとしても?」
「なぜ初対面の貴方がわたしの望む言葉をわかるの?」
褐色の法律家はヴィオラの挑発に僅かに目を細めた。
「貴方は妖精か何かか?」
「……はぁ?」
「いや。トマス・ウォールが求婚したのは商人の娘のはずだ。つまり人間。貴方の緑の瞳は祖母が語ったお伽噺の妖精の姿を想像させるのだが、貴方は人間なのだろう」
この男は何を言っているのかと、ヴィオラは自分のこれまでの怒りや、他人に爵位を金で買った卑しい女と思われていた屈辱などが一切消えた。ケプラー公爵は考え込むように口元に手を当て、そしてヴィオラの手を取ると、その薬指の指輪を引き抜いた。
「では、貴方の知りたい疑問について法律家として回答を。――トマス・ウォールと貴方の婚姻は法的に何の問題もなく、トマスが不在だろうが貴方はウォール家の次期伯爵夫人であり、トマスが自ら貴方を離縁しない限り、現在の法では女性の側からの離婚は不可能だ。我が帝国は夫婦間の問題は夫婦間でのみ解決すべきと考えられており、法はそれを正当化させている。現ウォール家当主がトマス・ウォールを法的にウォール家から除外した場合も、貴方とトマスの婚姻関係は継続される」
「つまり私は、トマスが私を離婚させない限り、法的にずっと、ウォール家の人間として振る舞っていいってことね?」
「あぁ、だが――――――待て、それで構わないのか?」
ヴィオラは「よし」と大きく頷き、ケプラー公爵の机から離れた。
「わたしが降って湧いた不幸な運命から逃げるための誰かの助けがいると言ったかしら?欲しかったのはお墨付きよ。わたしは覚悟を決める必要があったの。私が全力でこの事業にとりかかっても良いっていう、法律家のお墨付きをね。もちろん、思ったより厄介で難題で困難な事業になりそうだけど……元々、兄が商会を継ぐし、わたしはわたしで何かやりたいって思ってたの」
「……貴方が望んだのは貴族家の夫人としての活動では?」
「わたしは初夜を一人ベッドの上で過ごしている間にただ泣いていたわけじゃないわ。よく考えて見たら、協力的じゃない共同経営者がいるより、こっちの方がよっぽど、私の才能を試せるんじゃないかしらって」
それになにより、と、ヴィオラは扉の前まで進み、公爵を振り返った。
「この書斎がとても気に入ったの。わたしもこういう部屋で仕事をしたいわ。きっと素敵な仕事ができると思うのよね」
使用人に扉を開けてもらうのは貴族だからと、ヴィオラは自分で扉を開けた。慌てるメイドに笑みを返して、そのままスタスタと玄関まで歩いていく。
その後ろ姿と、去って行く足音を聞きながらケプラー公爵は奇妙なものに遭遇したと、不思議そうに首を傾げるばかりだった。