(5)
*お詫び*
私がうっかり、あとがきで某スポーツ漫画のOPをワンフレーズ歌ったばかりに、運営規定でNGとなり非公開状態となってしまいました。たぶんそんなアホな理由で警告を頂いた作家は私くらいだと思います。
いつも応援してくださっている読者の方々には大変ご心配をおかけしました。
腹の中で十月十日慈しんだ待望の我が子が、己を破滅させるだけの化け物だとわかった瞬間の絶望を忘れたことはない。
苦しみ抜いて産み落とし、上がった産声に、女としての務めと母として生きる喜びを得られるのだと歓喜した次の瞬間、目に入ったその肌の色に、クラリッサは絶望に叩き落とされた。産婆や立ち会った女親族たちの悲鳴。いったいどういうことなのかと、義母や実の母が、産褥で体力のないクラリッサを容赦なく責め立てた。
褐色の肌に赤い瞳の赤ん坊。
誰の目にも明らかだ。ケプラー公爵の血を僅かにも受け継いでいない。異人との子。
ただの不貞というだけでもとんでもない事件だったが、その上、クラリッサとケプラー公爵は「身分違いの恋」だった。クラリッサは地方貴族の娘で、公爵夫人として迎え入れるには家格があまりにも不釣り合いだった。難色示す親族をケプラー公爵本人が「クラリッサだけが私の妻だ」と説き伏せ、半分強引に、クラリッサを公爵家に迎え入れた。
その熱愛され熱望された、公爵夫人になるには身の程知らずな娘が産んだ子供が、異人との子。
クラリッサは自分の幸福が、夫の愛が、全て失われることを予期した。だから、こんな不都合な子供は殺してしまおうとする養母の腕から悪魔の子を奪い取り、生涯でただ一度だけ、抱きしめた。
『この子は間違いなく、わたくしと公爵様の子です』
そう言い放った。そう、怒鳴った。錯乱状態だった。わけもわからず、ただ、それだけは言い続けなければならないと思って、叫んだ。けして譲らず、主張し続けるクラリッサは興奮し容態が悪化した。ただでさえ、出産は命がけであるのに、ショックとその後の無茶な動きをしたために、クラリッサは出血が多くなり、生死の境をさ迷った。
その間に何があったのか、直接は聞いていない。だが、ケプラー公爵が、クラリッサが産んだ子は自分の子だと発言し、認めたため、肌の色が両親と異なるというだけの、このどうしようもない事実に関しては誰もが口にすることがなくなり、その赤ん坊は「ゲルト」という名の、公子となった。
本来なら公爵家の嫡男を産んだと、誰もが羨むクラリッサを、誰もが顔を顰めて見るようになった。クラリッサはここで夫が、公爵が自分から離れることを覚悟した。だが公爵は、夫は変わらずクラリッサを愛した。本当に、一点の曇りもなく、ゲルトを産む前と同じ熱量の愛を抱いてくれていた。クラリッサは「悪夢をなかったことにしよう」と、公爵の愛に応えた。そうして次に身ごもった時に、クラリッサは「やり直しができる」のだと歓喜した。生まれてくる子は絶対に男の子だと。今度こそ完璧な、公爵家の長男が生まれるのだと渇望した。
だが、次に生まれてきたのは娘だった。可愛いエレオノーラ。クラリッサは娘を愛したが、この時の出産で、体が傷つき、もう二度と子供は望めないと言われた。
(たった一度、ただ一度、果てた事のない、夜の営みに悩んで、旅の男に体を任せ、女の悦びを知りたかっただけだというのに!!)
*
「お前など、産むのではなかった」
クラリッサは目の前にいる、肌の色以外は自分と何もかも同じ生き物を睨みつけた。
母を母とも思わず、冷酷な判断が下せる男。こんな者が、あの優しい公爵の後継者であることがクラリッサには許しがたい。
一生孤独のまま死ぬつもりだっただろうに、どういうわけで結婚しようなどと馬鹿な考えを得てしまったのか。自分がどんなにおぞましい、他人を不快にするだけの生き物なのか、すっかり忘れてしまったのか。この恥さらし。
クラリッサは今ここで、刺し違えてもこの男を不幸のまま終わらせることが自分の務めなのだと感じた。そうすれば公爵家はエレオノーラの子が継ぐだろう。きちんと、ちゃんと、ケプラー公爵家の人間の血が流れている者がこの家の主となる。
「お前などッ!」
「ノックもせずにごめんなさーーーーーーーーーーいねッ! ごきげんよう、お義母さまッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!どっせぇいっ!!!!!!!パイッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
ぐしゃ、べしょっ!!!!!!!!!!!!
ばたん、と無作法に開いた扉。
そこから一直線に駆け寄り、途中ソファを軽々片手で飛び越えた女性が、見事な体幹で運んできた真っ白い生クリームたっぷりのパイを、全力でクラリッサの顔に投げつけた。重力に従い、顔面に強制クリームパックを施した皿が落ちる。
「……ヴィオラ殿?」
「ごめんなさい、ゲルト!素敵な人事に素敵なお菓子でお祝いをしようと厨房から頂いてきたんだけれど……食べ物を粗末にするなんて、本当によくなかったわ。あぁ、お義母さま。そういうわけで、お顔の生クリームは召し上がってくださいね」
「……………………いや、そういうことではないと思うのだが」
「あら嫌だ。何か間違えたかしら???私の素敵な愛する人を傷つけようとしている人に、これでも血縁関係を考慮して温度の低い物を選んだのに?」
「賢明なご判断かと、ヴィオラさん」
すっと、ヴィオラに続いて部屋にやってきたのはロジーヌだ。一応親族であるので、ロジーヌはクラリッサに近づき、ハンカチを手渡す。
「この……この、平民の小娘が……ッ!わたくしに、何を……!!」
そのロジーヌの気遣いも拒絶し、クラリッサがヴィオラを見上げる。こんな侮辱を受けたことがないと、その赤い瞳は怒りに燃えていた。その他人の強い敵意の感情をヴィオラは微笑んで真っ正面から受け止める。
「誰かを平気で傷つけるのに、なぜご自分が傷つけられないと思うの?」
「わたくしは、ケプラー公爵家の人間です!!わたくしはこの化け物に身の程を弁えさせる義務が!!」
「そんな話はしてないのよ、クラリッサ。関係ないのよ。貴方が何者であっても、貴方が傷つけたいひとが貴方にとって何であっても、関係ないの。わたしにはね。貴方が私の大切な人を傷つけて当たり前だって顔で私の前に立っているんだから、ただ黙って見ているわけないでしょう?」
「だからなんだと言うのです!!お前ごときがなんだと言うのです!!絶対に、誰も、社交界の誰も、お前のような者を歓迎しないでしょう!!」
使用人たちに介抱という名目で抑えられながらクラリッサは詰る。自分の人脈のすべてを使い、ヴィオラを社交界からはじき出すと宣言した。長く地方に引きこもっていたクラリッサだったが、それはけして妄言ではなかった。そもそもヴィオラを公爵夫人に、と、することに良い顔をしない貴族の方が多い。ヴィオラに対して好意を持っている者でさえ「第二夫人が分相応でしょう」と考えている。そうした者たちを、ロジーヌを使って先導することがクラリッサには可能だった。
「ゲルト、お前のこととてそうです!誰もが知っている、お前が何者なのか、お前はただの代理に過ぎないと!」
「母上。残念ながら、私は法的に先代ケプラー公爵の実子であると認められているのですよ」
「いいえ、いいえ!そんなもの!!わたくしは知っている!お前には、お前は、あの優しい公爵の血が一滴も流れていな、」
「どっせぇいっ!」
セカンズ、パイ!!ハイッ!!!!!!!!!
ヴィオラは先ほど目くばせをしたメイド長がそっと持ってきた生クリームを載せただけの皿をクラリッサの顔面に投げつける。美しいフォームだ。甲子園も目指せるだろうと自画自賛する。
「クラリッサ。目元のクリームだけ拭ってよく見てくださらない?わたしもゲルトも、別に公爵家の人間でなくなってもちっとも生活は困らないんだけど、でもそれはそれとして、ケプラー公爵家の礼服がゲルト以上に似合う人なんているかしら?」
にこにこと、ヴィオラは微笑みを浮かべて、ゲルトの隣に立つと、うっとりという目で自分の婚約者を見上げた。その瞳を受け、この状況をどう受け止めて良いのか、自分がクラリッサに罵倒され、ただ傷ついているだけの状況でいられなくなり、ゲルトは少し迷ったが、ヴィオラの腰に手を回し、もう片方の手でヴィオラの左手を持ち上げると、その薬指の大きな赤い宝石に口付けた。
「……貴方も、ケプラー公爵家のルビーが大変よく似合っている」
「わたしもそう思うわ」
ヴィオラは全力で肯定し、さすがに二度目のマッチングパイに混乱している様子のクラリッサに同情的な目を向ける。
「お義母様はわたしのことが好ましくないご様子なのですけれど、わたしはお義母様のことがそれなりに好きになったわ。だって、わたしを幸せにしてくれる人しか連れてこないんですもの」
ね、とヴィオラがロジーヌを見た。それを受け、ロジーヌがすっと、ヴィオラの方に移動したのを見て、そこでやっとクラリッサは、自分がゲルトを不幸にするために連れてきた女の裏切りに気付いたのだった。
*
「と、いうことで。ゲルト、わたしとても素敵なことを思いついたのよ。聞いてくれる?」
「……貴方の話であればいつでも喜んで、ヴィオラ殿」
三度目のパイは避けたかったのか、そのままクラリッサはメイドたちに連れていかれ、執務室はいったんは静かになった。有能な使用人たちはここで惨劇のパイが起きたことなどなかったようにきれいに全てを滅菌し、ソファに腰かけて向かい合うロジーヌとゲルトも、ヴィオラもパイのパの字も出す気はない。
ゲルトはついにこの瞬間が来たのだと身を固くした。ロジーヌと隣り合って座っているヴィオラは幸せそうだ。とてもよい、彼女が最高の思い付きをしたときに浮かべるとても楽しそうな表情をしている。ゲルトはこの場所で彼女のこの表情を見るのが好きだった。そしてヴィオラの思い付きに法的な問題がある時は、どうすればそれを解決できるのか、自分だけが彼女の助けになれることが嬉しかった。
ヴィオラはロジーヌを第一夫人にして、自分は第二夫人になると言うのだろう。ケプラー公爵夫人としての務めはヴィオラにとっては枷であり、ロジーヌが適任だった。適材適所という言葉をヴィオラは商会でよく使っていることをゲルトは知っている。
(私は貴方以外、愛せないと言うのに)
ヴィオラの口から、他の女性が妻でも「構わない」と言われる。それはクラリッサに自分の出自を聞かされるよりずっとゲルトを傷つけることだった。だが、彼女が望むなら。そうすることで、ヴィオラが幸せになれるならと、ゲルトはその死刑宣告を受ける覚悟を決める。
「わたしがCEOになるから、ロジーヌには社長になって貰うことになったの」
「……………し、何?」
「CEO。最高経営責任者よ。わたしが行っている事業全体の管理や方針を決める権限を持つ、という風にするつもりだけど、ロジーヌには日常業務の管理や具体的な運営方法を任せるつもり。公爵家の女主人ができていたロジーヌなら適任だわ!」
最高のリクルートだわ、とヴィオラは瞳を輝かせる。
「……………第二夫人や、公爵夫人の業務と言った話を、ロジーヌとはしなかったのか?」
「しましたよ。ゲルト。わたくしはヴィオラさんに、公爵夫人の採用面接のつもりで挑んだのですが、人事面接の段階で採用部署が他でも良いか、と打診を受けました。業務内容を聞いてみると、大変興味深かったのでお受けしようかと」
ゲルトは混乱した。
「……………ロジーヌと貴方は、私の妻になるという話はしなかったのか?」
「……」
その途端スッ、と、ヴィオラの嬉し気な表情が凍った。ストン、と、一気に無表情になり、ゲルトはヴィオラが大変不機嫌になった時の反応だと思い出す。だがなぜ彼女がこんな反応をするのだろうか。
「貴方が、」
「うん?」
「貴方がわたし以外の女性を妻に迎えたいと考えるのは貴方の自由だけれど。その場合、ワイン樽に頭を突っ込んで死ぬか、パイで窒息死するか、死因を選ぶ必要があるわ」
ヴィオラは緑の瞳を燃やし、ゲルトを見る。思わずゲルトは息を止めた。
(……それはつまり、ヴィオラ殿も誰かが私に触れることを嫌だと、そういう感情を持ってくれているということなのだろうか?)
「え??喜ぶところですか。ゲルト、貴方、ヴィオラさんに殺害宣告されたんですよ?」
従兄の感情を読むことが少しばかり得意なロジーヌは思わず眉を顰める。こほん、とゲルトは咳払いをした。
「ヴィオラ殿には、事業を優先して欲しかったのだ。公爵夫人の務めは重荷になるかと」
「ロジーヌ、ちょっと厨房からパイを持ってきてくれる?――駄目?だって、わたしの能力を一番ちゃんと知っているはずのゲルトが、わたしが公爵夫人の仕事と、自分の事業の二つも持てないっていうのよ???ここにこれから育児も入るっていうのに???」
「そうですね。少々、ヴィオラさんの能力を低く見積もっていらっしゃるのかと。承知いたしました。今、持ってまいります」
ロジーヌは優雅に一礼して、この家の公爵の顔面にぶつけるためのパイを取りに退室した。誰も止める者がいない。
ゲルトは今言われた様々な情報に混乱し、ただ目を瞬かせてヴィオラを見る。
「貴方は、クラリッサの言葉を、聞いていたはずだ」
「えぇ。だから怒ったのだけれど?」
「……つまり、私は…………貴族の血を引いていない。私との子が生まれても、それは、貴族の子として扱われないかもしれない」
「?つまり……貴方を弊社で雇用して欲しい、ということ?もう半分顧問弁護士みたいなものじゃない」
「いや、公爵でなくなったとしても、法律家として事務所を構えることは可能だから路頭に迷うことはないと、そういう話ではなく……私と同じ肌の子供が生まれるかもしれない」
「それは、わたしと貴方の子なんだからそうでしょう?」
ゲルトはヴィオラがわざと、こんなやりとりをしているのだと察した。ヴィオラは察しが悪い方ではない。むしろ良すぎる女性だ。それがこう、のらりくらりと、ゲルトの言葉に対して、見当はずれなことを言う。それは、ゲルトが怯えていることなど、ヴィオラにとっては全く何一つ、これっぽっちも問題として頭の中に浮かぶことすらないのだ、ということだ。
こうまでくれば、もうゲルトは観念するしかなかった。
ヴィオラの前に立ち、見上げてくる緑の瞳に自分を映す。そのまま腰を折って、ヴィオラの片手を取り、自分の瞳と同じ宝石を見て、また顔を上げた。
「貴方は、私を愛してくれていたのだな」
「えぇ、そうよ。知らなかったのね?困った人」
ふわり、とヴィオラが微笑んだ。ゲルトはぼろっと、自分の目から涙が零れてきてしまって、こうしたことが物心ついてから初めての経験だったものだからどうしていいかわからなかった。
それをヴィオラが「あら!」と嬉しそうに声を上げて、そして片手でゲルトの涙を拭ってくれたものだから、ゲルトは涙とは流してただ凍えるだけのものではないことを人生で初めて知ったし、そうなると後から後から流れ続けてしまうのだと、どうしようもなくなって、そのまま力いっぱい、ヴィオラを抱きしめることしかできなくなった。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました!!
ひとまず番外編も一応、念のため、いったん、おそらく、終了です!公爵はこのあとちゃんとパイを顔面キャッチしました。笑っていました。
今後は他の更新をする予定ですが、その後はこの世界線の続編として「褐色の肌を持つ絶世の美女ケプラー公爵令嬢が王太子に婚約破棄される話~ドマの公子を添えて~」を書きたいな、とも思っています。
どう考えても王太子は廃嫡されるなこれ。強く生きろ。