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お金で買えないものは世の中に多くあるが、その中でヴィオラは「第一印象」をリストの重要な部分に挙げていた。出会って3~6秒ほどでその印象は決まり、半年はその印象を覆すことは難しいと言われている、これは前世の知識で得たものだった。
「はじめまして、クラリッサ様」
てんやわんやの先代公爵夫人を迎えるための準備をなんとかこなし、いよいよやってきました訪問当日。たっぷりと八時間睡眠をとり、ヴィオラの思考は限りなくクリアだし、使用人たちと総出で磨き上げたケプラー公爵家別邸は王族をお迎えしても問題がないほどだと皇后エレオノーラのお墨付き。
四頭立ての白馬に引かれてやってきた美しい馬車から、ほっそりとした中年の女性が降りてくるのをヴィオラは笑顔で迎えた。
第一印象が大切。
これは商人であるヴィオラにとってとても意識しなければならないことだ。
相手と接するときは共感を持ち、傾聴する。あなたの気持ちに寄り添い、あなたの力になることがわたしの喜びなのよ、と伝える。これらは貴族社会で揉まれる事でヴィオラの神経を摩耗させることなく、むしろ研磨した。その自負もあり、ヴィオラは相手が貴族女性の頂点であった公爵夫人であっても臆する必要はないと考えた、のだが。
「ゲルト。こちらの方はご存知ですね。従妹のロジーヌです」
「……」
にこやかに、穏やかに迎えたヴィオラをクラリッサは視界に入っていないというようにスルーし、ヴィオラの隣に立つゲルトに声をかけた。
クラリッサに続いて馬車から降りてきたのは蜂蜜色の髪に鳶色の瞳の上品な女性だった。
「……ロジーヌ?」
「お久しぶりですね、ゲルト。わたくしの夫の葬儀以来かしら」
こちらの女性もヴィオラをスルーし、ゲルトの前に立つ。完璧な淑女の礼を行い、ごくごく自然な流れで片手を差し出した。貴族同士の挨拶としてゲルトは従妹の手を取り、口付ける。
「なぜ君が?」
「手紙を読んでいないのですか。貴方の婚約者を連れて行くと書いたでしょう」
「もちろん手紙は読みました。なのでこの場で貴方を迎えることができているのです。先代ケプラー公爵夫人クラリッサ」
「よろしい。ではわかっていますね。ロジーヌに部屋を案内するのはお前が行いなさい。それが夫となるものとしての礼儀ですよ」
てきぱきとクラリッサは指示を出す。勝手知ったる己の屋敷と言わんばかりに、執事や侍女長に晩餐のメニューの確認や、貯蔵庫の確認、屋敷内のあれこれについてまとめた物の提出と、各部署の代表者一名に報告に来るようにと命じた。
「クラリッサ。今は私がケプラー公爵です。貴方はこの屋敷について口出しをする権利はない」
「なぜ?お前はまだ夫人を迎えていないのでしょう。であれば慣習的にも、法的にも、わたくしがこの屋敷の女主人です。これまで、あくまで代理の権限を与えていたに過ぎません」
ゲルトは母の前に立ち、自身の意見を通そうと試みた。だが生まれた時からクラリッサがこの褐色の肌を持つ赤い瞳のいきものの主張を受け止めたことはない。抱き上げることも、乳を与えることも拒絶続けた者が、今更息子の言葉に耳を傾けるはずがなかった。
「わたくしはこの訪問を先代公爵夫人のつとめとして参りました。ロジーヌに公爵夫人としての振る舞いや心得を伝えることは、ケプラー公爵夫人としての義務です」
「私にはすでに婚約者がいる」
ゲルトはそこでこの会話から完全に外に出されているヴィオラの手を握った。
「彼女は、」
「知っています。あまりにもはしたない者をこの公爵家に入れるわけにはいきません」
「……はしたない?」
思わずヴィオラは聞き返した。27年間男性と同衾したことのない自分を捕まえてはしたないとは、あまりに見当外れではないか?
しかしクラリッサはやはり、ヴィオラに視線を向けることがなく、まるでいない人間の話をするように言葉を続けた。
「女の務めは家に入り尽くすこと。これは生まれ育ちは関係なく、神が定めた女の役割です。それだというのに、自ら夫に離婚を申し立て、自分の物でもない家の財の権利を主張するなど。まともな女性の振る舞いではありません。頭のおかしい人間が我が公爵家に名を連ねるなど、先祖代々に申訳がないでしょう?」
背筋をまっすぐに伸ばし、自分の考えについて正当性を疑わないその堂々とした態度。法律を諳んじるときのゲルトの姿にとてもよく似ており、なるほど、これは母子だわ、とヴィオラは感心した。
彼女は男尊女卑の思考があるわけではない。そうあるべきで、その姿が美しく尊いものという価値観のもと生きてきたゆえの自信だ。そうして自分自身が幸せであることを誇りとしている強さがあった。
そこでやっと、クラリッサはヴィオラを視界に入れた。
ただその赤い瞳は目の前の相手に対し、自分と同じ人格と意識を持った「人間」だという認識が欠片もない。はらってもはらっても湧いてくる蛆か何かをみるような目だった。
「愛だの恋だのというものが必要であれば第二夫人になさい。それならば認めます」