【番外編】息子を放置して20年の書類上の姑が「お前は息子の嫁に相応しくない」と主張してきました。だから何?(1)
帝都のケプラー公爵邸は、冬の葡萄畑が雪に静まる朝だった。ヴィオラは、書斎で投資クラブの事業の為の書類を広げ、左手の銀の指輪を開かせ、時折手元に視線をやっては口元に笑みを浮かべた。それを視界の端で(当人としては)こっそりと確認するゲルト・ケプラー公爵は、対面の机で「帝国継承法」を読み、ヴィオラの鼻歌に赤い瞳を和らげる。婚約から五ヵ月。二人を祝福する者とそうでない者が明確になって来たころ合いでもあった。
そんな幸せへの栄光のロードのための一日一日をじっくりと過ごしている二人の元に、青ざめた顔の執事がやってきて、震える手で黒い封蝋の手紙を差し出す。ゲルトは封を切り、内容を確認するとあからさまに困惑する表情を浮かべた。
「……あの方が?」
「……さようでございます」
ちらり、と執事はヴィオラを気にする。それでヴィオラは自分が居てはならないのだろうと察して席をはずそうとするが、ゲルトがそれを制した。
「貴方にも関係のあることなので聞いて欲しい」
「構わないけど……どうかしたの?」
「先代ケプラー公爵夫人が訪問することになった」
他人行儀な言い方だとヴィオラは感じた。
先代ケプラー公爵夫人、つまりはゲルトの母親だ。ヴィオラは十年前までは社交界の、それも公爵家の人間と関わる機会など無かったため先代公爵夫人と面識はない。それに夫人は今から二十年前に領地の保養所に居住を移して、それから一度も帝都に戻っていないと聞いている。
「お会いできるなら嬉しいわ。ご挨拶をさせていただきたいと思っていたの」
「……」
訪問理由についてヴィオラはわからないが、ゲルトが結婚することになったことと無関係ではないだろう。ヴィオラは公爵夫人になる身としては、先代の女主人から教えを受けたいと考えていた。現在のケプラー公爵邸は業務上の問題はない。万事滞りなく主人が快適に過ごせるようにと使用人たちの心配りが行き届いているが、彼らは女主人を迎えることを望んでいるようだった。
貴族の屋敷の女主人というのは、使用人たちに指示を出すだけではない。彼らの健康や人生にも気を配る「雇い主」であり、それはいくら執事や家政婦長がゲルトから権限を与えられていても、十分に果たすことのできない部分があった。ようは安心感が違うということで、自分たちが安定して長く働くためには納得と安心がどうしても必要なのだ。まぁ、それはいいとして。
喜ぶヴィオラとは対照的に、執事とゲルトの顔色は暗い。
「……厳しい方なの?」
考えられる可能性として、先代公爵夫人はとても厳しく、十分なもてなしができるかと、離れて暮らす母親の訪問を怯える子供のような心境なのだろうか。
「……あの方は、」
「うん」
「……私の婚約者を連れてくると」
「………………………………………………」
「ヴィオラど、」
「敵ってことでいいかしら?」
「即断即決すぎます、ヴィオラ様!」
え、違うの?どう聞いてもそうじゃない?
喧嘩を売られているのだということをヴィオラは察知した。
執事は慌ててゲルトに「ヴィオラ様がボクシングを習得される前に説明をなさった方がよろしいのでは」と助言し、ゲルトもそうした方が良いと判断した。
「あの方は昔から、私に対してとても厳しい方で、私がケプラー公爵として相応しくないと、父の死の淵でも言い続けていた。それでも父や先代皇帝陛下が私を公爵としてお認めになり、彼女は私が公爵を名乗る姿を見るくらいなら死ぬと保養地に移られたんだ」
「つまり、平民で商人の娘を迎えようとしている貴方を叱責しにきた。自分が良いと思う花嫁を連れてね。―――やっぱり敵じゃないの」
古今東西、嫁姑問題は様々な理由があって然るべきだが、これほどわかりやすい理由もない。ヴィオラはこの短い説明だけで、先代ケプラー公爵夫人のことが「好きになれない人間」になった。
ゲルトがケプラー公爵に相応しくない?
なにをどう、どこを見て判断すればそんな血迷った考えになるのだろう。
しかもそれを実の母親が言っていることがヴィオラには信じられない。
「この世で貴方ほど素敵なひとなんていないのに、先代公爵夫人は何が気に入らないの?貴方が完璧だから?それなら一緒に謝ってあげるわよ。素敵でごめんなさいって」
「………ヴィオラ殿」
「こほん、こほん、旦那様、ヴィオラ様。仲睦まじいご様子、大変結構でございますが。ヴィオラ様の戦意がクラリッサ様に向いている状況に変わりはございません」
あの方、あの女性、など他人行儀な言い方をしているが、それでもゲルトにとって母親だ。拒絶され自分のやることなすこと駄目だしをされては辛いだろう。ヴィオラはぎゅっとゲルトの手を握り、公爵は自信なさげな顔でヴィオラを見下ろすと言う二人の空間ができたが、もちろんそれは放っておくといつまでも行うので、心得た執事が適度に現実に引き戻す。
「ゲルト、確認するけど……私がお義母様に気にいられて欲しい?仲良くやっている姿を見たい?」
ヴィオラは百戦錬磨の事業家だ。相手が公爵夫人だろうが、この十年間で相手にしてきた貴族たちの熾烈な嫌がらせややり取りを思い出せば、田舎に引きこもっていた中年女性の何を恐れるというのだろう。ヴィオラは取り繕おうと思えばどこまでもできる自信がある。自分を気に入らない人間相手にも胸襟を開かせ、心の友になって欲しいと強請られるように持っていくこともできる。伊達に貴族社会の荒波にもまれてきたわけではない。
だからゲルトが望むなら。この結婚を機に、母親との関係の修復を図りたい、あるいは改善を目指したいというのなら、その一助になることは吝かではなかった。
それになにより、まぁ、自分の母親と妻になる女性が、仲良くしていることを望む男性の方が多いだろう。前世の知識がふつりと蘇ってくる。自分の前世の女性も嫁姑問題で苦労していたようだ。同居をして四六時中対応に追われていたようで……まぁ、それもいまはどうでもいい。
「……私は、」
「うん」
「あの女性に対して、何かを望んでいたこともあるが、それらは叶わないものだと理解している。それに……その、これは……今ではなく、できれば……もっと先に言おうと思っていたことなのだが」
言いよどむゲルトに、ヴィオラは「じゃあ後で聞く?」と告げたが、首を振って拒否された。もっと先に、ちょうど都合よく言うタイミングを自分が見つけられる気がしない、というのがゲルトの本心である。こほん、と、咳ばらいをし、ゲルトはヴィオラの左手の薬指に嵌められた赤い小さな石を見て、ゆっくりと頷いた。
「あの女性に愛されなかったからといって、私が誰かに愛される価値のない人間だと結論付ける必要はなかったのだと、今は知っている」
ヴィオラは思った。
ここでこの、最高に愛しい人にキスしたら、この人は真っ赤になって慌ててしまうのだろうな、と。
侯爵「なんでキスしないんですか???????」