【番外】それいけ公爵~恋愛初心者が指輪を探しに悪戦苦闘する話~【前編】
帝都のケプラー公爵家別邸の書斎は朝の光に照らされて穏やかだった。代々執務机は一つきりだったこの書斎にやや小ぶりな、それでいて実用的な機能を有した机が新たに追加されて暫く、二人の人間がそれぞれ机越しに向かい合い書類に目を落としている。
ヴィオラはワインの新銘柄「青いリボン」の流通のための書類を広げ、計算機を叩きながら鼻歌を歌っている。ゲルトはその歌を良く知らないが、それを耳障りと思ったことはなかった。むしろヴィオラの機嫌が良いことは公爵にとっても良いことで、合間合間に顔を上げ、ヴィオラの緑の瞳と目が合うと公爵の目が柔らかく緩められる。
しかし今日のゲルト・ケプラー公爵は普段とやや異なった。眉間に皴を寄せているのはいつものことなのだが、顔を上げる余裕もないほどじっと、ずっと、書類を睨んでいる。
「何か悩み事?わたしが力になれることってある?」
ヴィオラは鼻歌を止め、助力を申し出る。だがゲルトはそれを微妙に視線を逸らして、口ごもった。珍しいことだ。
「……いや、ヴィオラ殿。…………これはその……法務書類だ。申し出は感謝するが……特に貴方の助力をこう必要はない」
「そう?じゃあ、気晴らしが必要だったら言ってね」
実のところゲルトの手元の書類は「帝国金属取引法」や「装飾品の慣習」なる見出しが並び、手元のメモにはゲルトの神経質そうな文字で「指輪の選定基準」と書かれていた。
あの法廷での「鍵の求婚」から四か月。ゲルトはヴィオラに「相応しい婚約指輪」を贈る使命に燃えていた。婚約のための求婚の証としては書斎の鍵が法的に問題ないことはゲルトを安心させたが、それはそれである。ゲルトは自分が人並みに人を愛したとしても、その相手が本来「他の人間なら当たり前に与えられた愛情の証」を贈ることができないのではないか。それが不安だった。
自分の不器用さや無骨さを自覚しているからこそ、一般的に、当たり前に行われている慣習についてはしっかりと全うしなければならないと自戒しているのである。
ただ問題は、ゲルトが指輪選びにおいても、そもそも人に、女性に贈り物をすることにも、致命的に経験がなく知識不足であるということだった。
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一日目:帝都の宝飾店
ゲルトは公爵家の馬車で帝都一番の宝飾店に赴いた。公爵家の人間であればそもそもお抱えの商人を家に呼び、品を見せてもらえばいい。これまでゲルトの私物はそうして……執事が選んでいた。
自身の身を飾ることに興味のない公爵は放っておけば最低限の身だしなみ、清潔感がある格好であればそれでよいという人物だったので、屋敷の使用人たちが嘆き、ゲルトの装いについては執事に一任されたのである。良い歳こいて自分の服も自分で選べないのかという突っ込みはない。貴族はそういう者も多く、だからこそセンスのよい男性使用人はあちこちで重宝されている。
それに公爵家に商人を呼ぶ場合、ヴィオラにもバレてしまう。
ゲルトは「こういうものは当人に内密に行い、意外性をもって贈呈すべきだ」と考えている。とくに求婚の際に用いた書斎の鍵にしても、ヴィオラが提案してくれたもので、あの場でヴィオラに鍵でもいいと言って貰えなければ、ゲルトは「贈り物も用意せずその場で突然求婚した無作法な男」になっていただろう。
なので今回用意する結婚指輪だけは、しっかり、ちゃんと、ゲルトが「自分で」彼女にもっとも素晴らしいものを用意したかった。
そういうわけで訪れた宝飾店。
支配人が恭しく迎える中、ゲルトは赤い目でショーケースを睨む。
自身を帝都一番の宝石商と自負する支配人は個室にゲルトを案内し、どのような品を探しているのかと会話を試みた。ケプラー公爵と言えば、現在王都で最も注目を浴びている貴族だ。彼が四か月前に求婚の為に「書斎の鍵」を相手女性に贈ったことはすぐに新聞に書かれ、様々なサロンや劇場で噂になった。その結果、あまりにも「ロマンチック」だという女性からの評価になり、現在宝飾店では宝石をちりばめた鍵のモチーフが大量に売れている。
次の流行まで続くと思われているが、支配人はこれを一時の流行では終わらないと予感していた。余談だが、これは見事に的中し、以後ドルツィア帝国の貴族は求婚の際に「美しい装飾の施された鍵を渡す」ことが一つの文化となる。その鍵は夫婦の寝室のものだったり、衣裳部屋のものだったりと、異なるが他家から夫の家に移り住む女性の「居場所を貴方に」という誠意の表しになるのだと言われるようになった。
まぁ、それは今はどうでもいいとして。
そういうわけで、支配人にとってゲルト・ケプラー公爵が訪れたことは大変名誉なことだった。それで、支配人は「婚約指輪に相応しいものを」と公爵の言葉を聞くと、店中から美しい指輪の数々をかき集め様々な提案を行った。ダイヤモンドが輝く豪華な指輪を始め、伝統的なデザインのもの、最新の流行のデザインなど、ただダイヤモンドでもこれほどバリエーションがあり、それらに込められる思いは多種多様であると熱弁を振るった。
「……」
だが、支配人が真剣にダイヤモンドを推す中、公爵の頭にあるのは帝国法第45条:過剰な装飾は贈与税の対象、の条文である。
「……税務上問題があるのではないだろうか」
「公爵様!?これは愛の証でございますよ!!?」
だが、財務リスクのあるものをヴィオラに贈るのはどうなのだろうか。ゲルトは真剣な顔で支配人に問う。
支配人は結婚指輪は贈与税の対象にならないですよ、とゲルトに説明するが、ゲルトはこの分野に関しては即答できなかった。法の男でもわからないことがあるのかと支配人は驚く。
仕方なく、その場で帝国法の法律書の贈与税に関する項目や、結婚指輪、婚約指輪の贈与に関しての詳細を二人で確認を行った。
「……社会通念上相当と認められれば、高額な品であっても贈与税の対象にならない」
「ご安心頂けましたか!?」
「この社会通念上相当というものは、判例では多くは100万程度のもののようだが……これらはそれ以上ではないだろうか」
支配人が勧める指輪はどれもその十倍以上のものである。
貴族の、それも婚約指輪なのだから当然だろうと支配人は大きく頷いた。
「確かに……聊か高額すぎる、と思われるかもしれませんが……送り主はケプラー公爵様ですし、贈られる相手もあのヴィオラ様でございます。お二人の年収を考えれば、これらは「相当」に値するかと」
なるほど、とゲルトは納得したが、あまりに多くのデザインや選択肢のためすぐに選ぶことは難しかった。
女性の、ヴィオラと同じくらいの年齢の女性の助言が必要だと、ゲルトは結局「検討する」と告げて店を後にした。馬車の中では「ダイヤモンド:税務リスク有」とメモに書く。
*
二日目:皇后エレオノーラの離宮
指輪はただ石を選ぶだけではなかったと気付いたゲルトが次に訪れたのは、妹であり皇后であるエレオノーラの元だった。宮廷のサロンでエレオノーラは「……あの兄が……わたくしに相談??なんの?」と、持っていた扇を落とすほどに動揺したが、途方に暮れた様子のゲルトを見てよほどのことが起きたのではないかと心配になった。
「…………指輪?」
「あぁ。ヴィオラ殿にどのようなものが良いか。何か助言を貰えないだろうか」
「……それはまぁ、いいですけれど……なぜわたくしに?」
「貴方は良い物を多く知っているだろうし、こうしたことは肉親の女性に相談するべきだろう」
あの堅物でなんの面白みもない兄が、女性に贈り物をするために自分に頭を下げてきている。エレオノーラはただただ驚きで目を丸くした。
兄とは書類上は「兄妹」だが、幼いころは父親が違うのではないかと、そんな噂が流れていた。エレオノーラは両親によく似た姿をしていて、両親から愛された。特に母は褐色の肌を持って生まれた兄をとにかく遠ざけようと必死で、その分エレオノーラに愛情を注げば精神的に安心できていた。それを理解していた兄も極力家族には近づかず、家庭教師のウォール伯爵の方がよほど家族らしかった。
兄が自分を妹として認識していたことにまず、エレオノーラは妙な気持ちになった。エレオノーラ自身は兄をずっと案じてきて、兄がヴィオラという素晴らしい女性と知り合い、想いを寄せているのを気付いた時に、兄が幸せになることを考えもしないのなら、応援しなければと思った。
だがこうして、妹として、兄として、関わる日が来るとは。
「……そうですね……公爵夫人の指輪は結婚指輪になさるのでしょう?」
「あぁ、そのつもりだ」
「婚約指輪であれば、遊び心があってもよろしいかと存じます」
「だが私の……鍵は非公式過ぎた。慣習に従ったものを贈りたい」
「ヴィオラ様のお好きなものをモチーフにされるのはどうでしょう。―――お兄様、ヴィオラ様のお好きなものくらいご存知ですわよね……?」
「……彼女は嫌いな物があまりない。特別に好きなものは……」
事業のためのワイン、原料となる葡萄、扱いやすい計算機、手触りの良い毛布、彼女は心地よいものに囲まれて、笑顔で暮らしている。
だが、「好きな物」というのはなんだろうか。
「……お兄様?」
「……」
愛する人の「好きな物」一つ上げる事のできない自分にゲルトは青ざめた。
エレオノーラの方は「あ、そっか。兄はヴィオラ様の好きな物しか傍に置かないからわからないのか」と、気付いている。だが面白いので放っておいた。
ゲルトはふらふらとしながら立ち上がり、エレオノーラに礼を告げた。
馬車に乗り、「ヴィオラ殿の好きな物:不明」とメモをする。
***
三日目:市場
馬車の中で、ゲルトは皮装丁の分厚い本を手に渋い顔をしている。表紙には「帝国装飾法規集」と書かれており、彼の膝には「指輪選定計画:改訂版」と書かれた紙が広げられていた。
彼女の好きな物を何一つ知らないことに気付かされたゲルトは、ヴィオラの持つ「平民の視点」を自分も見てみるのはどうだろうかと考えた。
結果。これまで整理整頓されたサロンや貴族の建物しか知らなかった箱入り貴族が、帝都中央市場の喧しい露店の並ぶ喧噪の中に足を踏み入れることとなった。
「婚約指輪を探しているのだが」
「……お、お貴族様がこんなところで?」
露天商の老女はびっくりと目を丸くしたが、上品な仕立てのスーツに丁寧な物腰のゲルトに冷やかしや何か悪い相手ではないことを察し、にっこりと微笑む。
「このターコイズの指輪なんてどうだろうね?若いお嬢さんにはぴったりだ」
「……確かに美しい色をしているが」
青空のような青や、緑が混ざった青のような不思議な色を持つ鉱石だった。ゲルトはこれまで宝石というのはダイヤモンドやルビー、サファイアなどが良いのではないかと思っていたが、こうした石もあるのかと勉強になる。
「で、お相手さんはどんなお嬢さんなんだい?」
「……とても聡明で勇気のある女性だ。華美なものより、実用的な物を好む」
「なるほどねぇ、じゃあ、こっちの銀の指輪なんてどうだい?」
老女は他にも銀の指輪などもとてもシンプルで良いのではないかと提案した。
「証明書は?」
「……へ?」
「帝国法によれば、貴金属の純度証明が必要なはずだ」
「旦那、ここは市場だよ!?」
先ほどのターコイズにしても産地証明書などはないと老女は告げる。ゲルトからすれば、不正取引のリスクになるのではないかと思ったが、周囲の客も、売る老婆もそれらを重要視していなかった。
法的根拠がないものでも、彼らは贈られれば嬉しいと言う。ゲルトにはわからない感覚だ。
だがゲルトは思案する。ヴィオラならどう考えるだろうか。彼女はいつも同じ髪留めをしていた。聞けば、それは結婚前に市場で買った物で「掘り出し物」だったらしい。確かにそれは彼女に良く似合っているものだった。あの髪飾りの赤い石に産地証明書はついていないのだろう。
ヴィオラはなぜその髪留めを好んでいるか、ゲルトは考える。
それは彼女が自分で、市場という雑多の中から見つけた「宝」だからだろう。
懐からメモを取り出し、「市場:証明書欠如」と書き、銀の指輪をいくつか見せてもらうことにした。
老女は微笑んだ。気難しい様子の貴族が、何か必死に、愛しい相手のためのものを探している。これはどんな人間であろうと微笑ましくなる光景だった。
「銀の指輪に小さな赤い石がついているのもあるよ。どうだろう旦那」
「彼女の瞳は緑だ。石ならエメラルドの方が適しているのではないか?」
「だが、旦那の目は赤いじゃないか。恋のやり取りにおいて基本を押さえるのは大事さね」
「一般的、慣習に沿った、ということになるのか?」
そうだよ、と老婆は請け合った。
背格好の良い褐色の肌の貴族。大貴族だろうことは老婆の目にもわかるが、それにしてもあまりにも恋愛初心者丸出しじゃないか。ひょっとして、先日孫娘が黄色い声を上げながら読んでくれた新聞に書かれた公爵様だろうかと老婆は思うが、さすがに公爵様が市場にお一人で買い物にくるわけなどない。
「……私の目の色……」
ゲルトは真剣な顔で小さな赤い石の付いた銀の指輪を確認する。
…………ヴィオラのあの可憐な指に、自分の瞳と同じ色の指輪があることを想像してしまった。
それはあまりにも、ゲルトの胸をざわめかせる。そうすることができたら、どれほどゲルトにとって幸福なことだろう。彼女はまだ「ただのヴィオラ」だが、ヴィオラ・ケプラー公爵夫人になると頷いてくれた。それだけで十分だというのに、その指にゲルトのものであるような証を付けて欲しいと強請るなど、あまりにもあつかましいのではないか。そのような主張の激しいものを贈って彼女は不快にならないだろうか。
購入に迷うゲルトは、それでも財布を取り出してしまった。だが、中々支払いにまでいかないゲルトに、どん、と少年がぶつかる。
「どんくさいな!突っ立てんじゃねぇよ!」
「あっ!!!!!!旦那!ありゃスリだよ!!!!!」
「……」
確かに、いつのまにかゲルトの手から財布が消えていた。
ゲルト・ケプラー公爵、人生で初めてスリにあう。
「……支払いは別の方法でも構わないだろうか?やはりこの赤の指輪を、」
「え!!?いや、旦那……追いかけなくていいのかい!?」
「?あの中にはそれほど入れていたわけではない」
「あんなに膨らんでた財布が!?」
普段財布を持たない公爵であるので、執事に「市場に買い物に行きたい」と告げて、用意させた現金だ。王都の貴族が使う宝石店では銅の指輪一つも買えないだろう。財布を取り戻すより、ヴィオラへの指輪を選ぶのが優先すべきことで、そして支払いは公爵家に後に請求方式にできないかと、ゲルトはそれを確認したかった。
「いやいやいやいや、おいおい公爵。孤児の人生を狂わせる金額を放置すんなって」
「放せよーー!!放せって!おっさん!」
「俺はまだ二十四。お兄さんだクソガキ」
「……メフィスト・ドマ?」
人通りの中から、少年を宙づりにしてゲルトに近づいてくるのは黒衣に黒ぶち眼鏡の貴族、法廷で他人を甚振ることを趣味にしている悪魔、メフィスト・ドマだった。
後半へ続くよ!
私は完結させれば後は好きに番外を書いていいと思っています。
誤字脱字報告本当にありがとうございます……。
「うそ……こんなに??」と思いながら修正確認しています。
……「最も」って「尤も」なんですね、とかそもそも私が知らずに間違えている表現も多くございました。




