最終話、幸せを数えたら
法廷ではヴィオラとトマスの視線が交錯した。真っすぐに立ち、堂々と振る舞う緑の瞳の女性と、相手に対し侮りと見下す色を隠しもしない歪んだ顔の男。傍聴席の貴族たちは息を殺し、裁判長は疲れ果てた自身の気力を奮い立たせ、戦場に残った二人の戦士が互いの剣を交え終えるのを待った。
帝国で初、妻の身分から夫を訴えた女性、平民の出の女性から貴族の男性を訴えた人物、ヴィオラ・ウォールは自分がいかにトマス・ウォールと「離婚をすること」が適切であるのか、証拠の書類や証言を集めたものを丁寧に提出し、読み上げた。
それらはトマスの感情を不快なものにしたが、反論をするための材料をトマスは持っていなかった。
苦し紛れに何か言い返す、あるいは事実のこじつけを行おうとするが、悉くヴィオラに退けられる。
「トマス、貴方は確かに私の夫で、わたしは貴方の妻だわ。だから貴方は今その席にいて、わたしは貴方に離婚を要求することができてる。でも貴方がその席にいるのは、わたしたちが夫婦としてうまくやれなかったということを理解してもらうためなのよ」
そうしてかなり長い時間、丁寧に、じっくりと、一つ一つ容赦なく、ヴィオラはトマスの「離婚は不当だ」「自分たちはやり直せる」という考えに対して「無理に決まってるでしょう」と突きつけた。
「……り、離婚は……ッ、受け入れる!」
トマスでも、自分がヴィオラ・ウォールを妻のままにしておくことが不可能なことを、やっと、時間をかけて理解させられる。金の卵を産むヴィオラを手放してやることを、唇を噛み、何度も何度も悔しい思いをぐるぐると胸の中で躍らせながら、トマスはやっと受け入れてやることにした。
傍聴席から歓声が沸いたが、トマスは「だが!」と続けた。
「慰謝料や、財産分与をする義務はない!僕の第一夫人はエヴァージェンだ!第二夫人でしかないヴィオラは、使用人と同等の権利しか持てない!お前は無一文で出ていけ!!女から離婚なんて恥知らずにも言い出して、それを認めてやったんだぞ!そもそも女が財産の権利を主張するなんておかしい!!」
「色々言いたいことはあるんだけど……まずね、エヴァージェンが第一夫人だという法的根拠がないのよ、トマス」
「あるさ!ここに!結婚証明書だ!」
バンッと提出されるトマスとエヴァージェンの結婚証明書を裁判長は確認した。
「……これは……」
「日付は確かに、僕とヴィオラの結婚証明書より前のものでしょう!」
「……我々を侮辱しているのかね?トマス・ウォール伯爵」
「……は?」
トマスの口から間の抜けた声が漏れた。裁判長はトマス・ウォールの浅はかさが自分達の想像をはるかに超えている事を知り、このような愚かな男の元で聡明なヴィオラ・ウォールが消費されなかったことは幸運だったのではないかと内心感じた。
裁判長のもとから裁判官たちへもトマスの言う「証拠」が回され、皆は必ず呆れたようにトマスに視線を向けた。
最後に回って来たヴィオラもそれを見て、トマスがここまで愚かだとは思わなかったので、メフィスト・ドマを退場させたことが申し訳なくなってくる。
「な、なんなんだ!?」
「……トマス、貴方…………貴族の結婚証明書には……王室の印も必要だって知らないの?」
「!?あるだろう!ここに!!これは間違いなく……」
「わたしと貴方の結婚証明書を見てみなさいよ。これが先代皇帝陛下の印よ」
「は??」
なぜこんなにお馬鹿さんなのだろうか。
ヴィオラはトマスに同情しそうになった。確かにトマスの用意したエヴァージェンとの結婚証明書には王室の印がある。だが、それは現在の皇帝陛下が使っているものだ。まさかと思うが、トマスは皇帝陛下が崩御されたことも知らないほどの田舎にいたのか、それとも興味がなかったのか。
「お、同じ王室のものだろう!」
「それはそうなんだけど、この印は現皇帝陛下のものだから、陛下がこの印をご使用になるようになったのは明らかに、わたしと貴方の結婚の後になるでしょう?」
ヴィオラは幼い子供に説明するように優しく伝えた。トマスはなぜ王室の印が変わるのかすぐに理解できないようだった。確かに先代の皇帝陛下と同じ印をそのまま使用される皇帝陛下もいらっしゃる。だが今の皇帝陛下は色々あって、王室を「以前とは別のもの」としていきたいと宣言された。これも有名な話だ。そのため公的な印、サイン、これまで受け継がれていたものを一新されている。
「???だが、これは本物だ!」
だろうが、日付を偽装している。トマスが吠えれば吠えるほど自身の首を絞めていることになるので、ヴィオラは気の毒になった。トマスが公的文書の偽装を告白する前に、話題を変えてあげる。
「残念だけど、わたしは貴方の第一夫人だったの。ねぇ、もう少し黙って聞いてくれない?貴方の時間は終わったのよ」
ヴィオラの声は風のように法廷を駆け抜ける。トマスは顔を歪め、反論しようと口を開いて喚こうとしたが、さっと上がったヴィオラの手が声を発するのを制した。
「裁判長、わたしは次に……離婚が成立したのであれば、帝国法72条によるウォール家の財産所有権を主張します。先ほど提出した書類を再度ご覧ください。わたしはこの十年、ウォール家の財産を管理し、ウォール家を繁栄させました。十年前、トマス・ウォールはウォール家を去り、一度も家に戻ることはありませんでした。わたしは結婚の際にウォール家に再び栄光を取り戻すということをお約束し、嫁いでまいりました。そしてこの十年、わたしの働きはその約束を果たしたと自負しています。つまり、帝国法第72条に基づき、ウォール家の財産所有権はわたし、ヴィオラ・ウォールに帰属します」
「……ヴィオラ・ウォール?だが、それは……」
裁判長は書類を何度も読み返し、確かに彼女の主張は一部正しいことを理解した。だが、ヴィオラ・ウォールまで何か見当はずれで、愚かなことを言い出したのかと訝る。
帝国法第72条。
ヴィオラの口から洩れた言葉に、傍聴席にざわめきが起きる。法に詳しい貴族が、自分と同じ観衆たちにそっと説明を行った。
「帝国法第72条、概要は簡単に言えば、家の財産を管理し、繁栄させた者が、その財産の管理権および一部の相続権を有することを保証する法律さ。家を支えた功績に基づき、財産の所有権を保護する――ただこれは、適用されるのは貴族家じゃなくて平民の家に限定されてる」
それはそうだろう。平民たちであれば、金を稼ぐ有能な者が家を継ぐことは良いことだ。貴族たちにとっても有能な商人が国に増えることは素晴らしいことだと思える。
だが、平民と貴族は違う。貴族にとって重要なのは「金を稼ぐこと」ではなくて、その土地を守ること、血を受け継ぐことだ。この法が貴族家にも適用されるようになれば帝国の伝統や格式というものは踏みにじられる。
貴族たちは皆、ヴィオラに対して好感を持っているが、もし彼女が法改正を行い、これを貴族家にも適用できるように、自分の離婚と権利の為に利用しようとしているのであれば、彼女は貴族たちにとって「敵」となる。
裁判長や、法的知識のある貴族たちは慎重なヴィオラがなぜこの法を持ち出してきたのか、彼女の判断に誤りがないのかを不安げに見守った。
「だ、第……72条?なんだ、それは……」
トマスは当然ながら72条について知らない。ヴィオラが傍聴席の貴族が説明したものよりかなり簡単な言葉を使った説明をし、「平民に適用されるものだけど」と付け足すと、途端にトマスは勝ち誇る。
「馬鹿なのか!?確かに君は僕と離婚して平民になるからその法律を使えると勘違いできるかもしれないが、僕は貴族だ!あの公爵と一緒になってまた法律をいじくりまわす気か!?」
「あら、そんなことはしないわ。このままでいいのよ」
ヴィオラはトマスの罵声を涼しい顔で受け流した。
だが実は、この第72条について、ヴィオラも知っていたため、なぜゲルトがこの法を持ち出すように助言したのかわからない。
(……法改正を行えば、貴族からの反発は免れないわ)
女性側からの離婚の訴えに関しては、皇后や貴族女性からの支持を受けられていたので問題なさそうだが、貴族の財産、相続問題にまで急激な改変は望まれていないはずだ。
だがヴィオラはゲルトがこの法がヴィオラを守り、望むものを手に入れるために必要なものだと選んだ。目を閉じれば、ゲルトの赤い瞳が浮かんでくる。彼はヴィオラのためにできる事がまだあると、そのために法廷を去ったのだ。その判断をヴィオラは信じている。
暫く沈黙が続いた。
ヴィオラは鞄の中の次の書類を探ったが、それはまだ提出するには適していないように思える。つまり、次に行うべきことがわからない。
……。
法廷は嵐の前の海のように静まり返っていた。
裁判長やトマス、傍聴席の人間は皆ヴィオラが説明をするのを待った。
彼女が何を言うのかで、彼女を憎めばいいのか、呆れればいいのか、それともまだ、彼女は自分たちにとって「親愛なる仲間」なのかを決めなければならないのだ。多くの貴族たちは、ヴィオラが自分の権利と利益のために法を乱用するのではないかと心配になった。それであればこの沈黙は、無言の時間は長く続いても構わないと、彼女への親愛を自分たちが失うことを恐れた。
トマスがしびれを切らして何か叫んだ。
だが、その瞬間、大きな音はトマスが発したものだけではなくなった。
法廷の扉が力強く開き、ゲルト・ケプラー公爵が戻って来たのだ。
「は、はぁ!?」
トマスが声を上げる。
黒と金の礼装に身を包み、落ち着いた足取りで法廷に進むゲルト・ケプラー公爵その手には新たな書類が握られていた。
珍しく息を切らせた様子のケプラー公爵は呼吸を整えるように暫く沈黙してから裁判官に一礼する。書類を事務手続きに則って提出した。
「裁判長、緊急の申し立てです。トマス・ウォール氏について」
「ゲルト・ケプラー公爵!!君は法廷を追い出されたはずだ!!」
褐色の肌に薄ら汗を滲ませて戻って来たゲルトを、逃げた臆病者とトマスは罵った。だがその瞳には恐怖が浮かんでいる。何かを言って少しでもゲルトに傷をつけてやらなければうまくこの場に立てないのではないかとトマスの本能が怯えていた。
「私が本法廷を退場した理由については、彼女を弁護する者としての資質を疑われたためですが、現在彼女の弁護人は彼女自身だ。つまり私は証人としてこの場に立つことが出来る」
「なんでそうなる!!!?」
「そもそも私が彼女に強い思慕の情を抱いていたからと言って、弁護できない理由にはならない」
それはそう。
トマス以外の誰もが頷いた。
そもそもゲルト・ケプラーほどの人物なら、愛している人間の弁護であっても冷静に、法と感情を切り離して弁護できるだろうと誰もが「そういえばそうだな」と思い返す。
「……ちょ、ちょっとまて……じゃあなんで……」
つまりゲルトは自身の弁護人としての資質を主張し、抵抗してその場に残ることもできたのだ。
それをしなかった理由があるのか?
「……ケプラー公爵…………こ、この証書は……」
ただ一人、ゲルトから新たな書類を受け取った裁判官の顔は驚きに染まっていた。もうこの裁判で何が起きても頭を抱えるだけしかできないと思っていた裁判官は、まだ次々と予想外のことが起きるのかと胃を押さえる。
ゲルトは頷いた。
「ヴィオラ・ウォールは帝国法第72条による財産所有権を主張されたのでしょう。貴族以下の家、または商会の相続/継承権について定めるこの法は間違いなく有効です。つまり、ウォール家は現時点で貴族家ではない」
「は、はぁあああ!!?」
「トマス・ウォール氏、静粛に!」
タン、と裁判長が机を叩いた。その時老貴族のトマスへ向けた敬称が「伯爵」から「氏」に変わっている事を誰もが気付いた。
裁判長に新たに提出された書類。老院には帝国公証人の紋章と、そしてもう一枚、皇帝の直筆が添えられていた。
ロバート・ウォールが爵位返上を願い入れ、それが受理された。
理由は取ってつけたようなものがいくつか並べられていたが、皇帝によりこの件に関しては、有無を言わさず「これまでの卿の帝国への献身を顧みて、その訴えを許可しよう」というものが長い文章で書かれていた。
「しゃ、爵位……返上!!?父が、そんな馬鹿な……!!そもそも、ウォール伯爵は僕だ!父じゃない!」
「その手続きはまだ受理されていなかった。差し止めを行い、その上でウォール伯爵であったロバート・ウォール氏が申請を行った」
淡々とゲルトは語るが、色々と公爵家としての権力を使い、皇帝といくつかの取引を行った強硬によるこの爵位返上だった。
元々ゲルトはこの72条が切り札になるとは思っていなかった。だが、自身が追い詰められ、ヴィオラを法廷に一人残す選択肢を選ばねばならなくなった時に、この手段を有効にするために動くべきだと判断した。正直なところを話せば、あの瞬間のゲルトの精神は通常のような冷静さがなかったのである。彼女への愛を隠し通すことができなかった自分の弱さに消えたくもなっていた。
ロバート・ウォールは爵位返上についてゲルトが提案した際に、意外にもすぐに受け入れた。ロバート・ウォールは「そもそも十年前にそうしてもよかったのに、そうしなかった」と自身の愚かさを悔い、これまで歩行もままならなかった老人とは思えないほど、活力を取り戻してゲルトを手伝った。
ヴィオラはゲルトとロバートの登場に目を大きく見開いたり、ぱちぱちと瞬きをさせたりと忙しそうだったが、ゲルトが赤い目を向けて頷くと、自分の役を思い出した。
「裁判長、ウォール家は平民の家として登録された事実が確認いただけたかと思います。よって、帝国法第72条はウォール家に適用され、わたしはこの十年間ウォール家の事業を立て直し、拡大し、帝国でも有数の財産を築き上げました。その証拠はすでにご覧いただけたかと思います」
「貴方の主張は帝国法第72条、および提出された証拠に基づき十分に検討に値するものです。トマス・ウォール氏、貴方の反論を聞く時間です」
再度、ヴィオラはウォール家の財産所有権は自分に帰属するものだと主張し、裁判官はそれを否定、拒否すること、反論について形式的にトマスに問いかけた。
「……」
トマスは言葉を失っていた。
自身の席で立ち尽くすその顔は青ざめ、なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか理解できないという様子だった。喚く言葉も浮かばない。
静かに、淡々と、事務処理は進められた。
裁判官たちはヴィオラの主張について話し合い、これらを全て認めることを決めた。
判決が下され、裁判長が閉廷を宣言する。
この瞬間、ヴィオラはヴィオラ・ウォールではなく、ただのヴィオラに戻った。ただ紙が渡され、自分の身分が「未婚」になったことが法的に認められる。その瞬間はとてもあっさりと訪れ、ヴィオラは拍子抜けしたほどだった。
代理人席に座っていたトマスはずっと無言だった。だが、何か言わなければならないことだけはトマスにもわかり、暫くしてやっと、わなわなと、口を開く。
「……ぼ、僕がなぜ、何をしたって言うんだ……?こんな目に遭わせられるようなことはしていないじゃないか……」
「……」
本気で言っているらしい彼の言葉にヴィオラは呆れた。だが、喋り始めたことで、トマスは言葉があふれ出してきたようだ。
「そうだ……!僕は、何も悪いことはしていないだろう!ヴィオラ、君は自分の才能をひけらかしたかったんだ!だから貴族の、僕の家の名が必要だった!使わせてやっただろう!!君は僕の妻だったと主張して勝ち取ったが……僕がいなくても、君は構わなかったはずだ!君は僕の愛なんて必要としてなかっただろう!!欲しかったものは、ちゃんと手に入ったはずだ!!」
「……それはそう、」
「本気で言っているのか、トマス・ウォール」
トマスの言い分にヴィオラは「そうね」と肯定しようとした。
契約、約束。ヴィオラはウォール家を立て直すと約束して結婚した。これは事業のようなものだった。トマスときちんとした円満な夫婦関係が始まらなかったとしても、始まっていたとしても、ヴィオラが行うことにそう違いはなかっただろう。それをヴィオラは理性的に判断し、頷こうとした。
だがそれをゲルトが遮る。
「貴方は一人の人間として、彼女の身に起きたことを想像したこともないのか?結婚式という重大な場面で、共に歩むと約束した相手が来なかった時にどんな思いがするか。この十年、一度も考えなかったのか?」
「僕らは政略結婚だ……!その女は、僕が何しようと傷つくものか!」
「政略結婚だろうが一度妻にすると決めた以上、貴方は彼女を守る義務があった。この十年、彼女は多くの傷を負っただろう。それは彼女が望んで挑んだ戦場ゆえのものもあり、また貴方が共にいても変わらなかったかもしれない。が、貴方だけは、夫である貴方だけは彼女を傷つけてはならなかったんだ……!」
法廷にゲルトの怒号が響いた。
この冷静で氷のような男がこれほどの怒りを孕んだ声が出せたのかと、誰もが驚く。
ヴィオラはそれを黙って聞いていた。
なぜだろうか。
ヴィオラの頬は濡れていた。
自分は一人で戦えるし、トマスの言った言葉はその通りだった。トマスがいてもいなくても、ヴィオラは様々な苦労したし、傷ついただろう。トマスがいなかったことは、ヴィオラにとって「最悪」「最大」の不幸にならなかった。そうしないだけの力が自分にはあったと、ヴィオラは信じている。
なのになぜ、ゲルトのこの言葉が嬉しいのだろう?
「……」
前世の濃くこびりついた泥が、心の中に引っかかっていた。
ヴィオラの前世だった女性は孤独の中で死んだ。
彼女には家族がいたのに、誰も彼女のために怒ってくれる人がいなかった。
それを彼女は「そういうもの」と受け入れ、教訓として、そしてその思いは、生まれ変わったヴィオラにもこびり付いた。
ヴィオラは自分で立つことのできる人間でありたいと考えている。
そうするべきだし、そうありたいと願っていて、これからもそうして振る舞うだろうと自分で思っている。
だがそれは、それは、だからと言って。
「……ヴィオラ殿?」
ぼろぼろと、ただ驚いた顔のまま涙を流し続けるヴィオラに気付いたゲルトが慌てた。
狼狽えて、自分の地味な鞄やジャケットから、彼女の柔らかい頬を拭くための布を探すが、出てくるものは羊皮紙や紙、ごわごわとした、男の手を拭くための布くらいだった。見かねた傍聴席の貴族がゲルトにレースのハンカチを差し出す。それを受け取り、ゲルトは今日一番情けない様子で、あたふたとしながらヴィオラの頬をそっと拭った。
「私は何か……貴方の望まない言葉を発しただろうか……?」
「……貴方は」
「?」
「わたしが誰かに傷つけられたら、自分で反撃できない人間だって思ってる?」
「……いいや。いいや、まさか」
ゲルトは首を振った。
「……貴方を愛している。だから……貴方が傷つけられた時、黙っていることはしたくない。貴方を傷つけられた時、立ち上がり、貴方の前に立つ資格が欲しい」
「……それって、プロポーズ?」
ずびっと、ヴィオラは鼻水を啜った。思いもよらないヴィオラの言葉に公爵は「!?」と目を見開くが、反射的に「違う!」とは叫ばなかった。目を大きく見開き、閉じ、唸るような声を一度発して、首を振ることなく言葉を絞り出す。
「……指輪がない」
「……それって駄目なの?」
「求婚には指輪が必要だ。帝国法第12条にも……法的にも、そうして是非を問うた上のものが有効であると定められている。指輪以外の例もあるにはあるが……装飾品であることが望ましい」
だが今、自分はそうした物を一つも持っていない。
物凄く、大変、苦しみに満ちた顔でゲルトは答えた。ヴィオラはその苦悩の顔をじぃっと、びっくりして涙の止まった瞳で見つめ、「ふふっ」と柔らかい笑い声を上げた。
「書斎の鍵は持ってる?」
「……あ、あぁ」
公爵家の書斎には重要な書類も多く、執事とゲルトが鍵を管理していた。ゲルトはヴィオラに言われるままに、懐から公爵家の書斎の鍵として十分な骨董品である鍵を取り出した。ヴィオラはそれを求婚の証にしてくれればいいと言う。
「言ったかもしれないけど、わたしもあぁいう部屋で仕事をしたかったの。きっと素敵な仕事ができると思うのよね」
法廷にまだ十分に残っていた、この二人の物語の観客たちが静かに拍手を重ねた。傍聴席から立ち上がった貴族たちは自身の腕につけた青いリボンを祝福の花束のように宙に投げる。
ゲルトは少し驚いたが、彼女があまりにも幸福そうに微笑むので、これが今必要なことなのだと理解する。そして、ヴィオラが伸ばしてきた腕を受け止めて自身も彼女の細い体を抱きしめた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
読み返し、Wチェックが何よりも苦手な性分でございまして、いつも誤字脱字報告を下さる読み手の方々には本当に感謝しきれません。書き始めてから十日ほどでこうして完結を迎えられたのも、皆さまのおかげでございます。
いつも「ちゃんと面白かっただろうか」と不安になりながら書いておりますが、少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。
意訳すると評価とかブクマとかイイネください、ということです。
二人の物語の観測はこれにて終了ですが、私の個人的な考えとして「本編を完結したらあとは好きなタイミングで番外を量産していい」と考えておりますので、まだまだ二人のラブコメやトマスくんのその後とかあれこれを一緒に見る機会はあるかもしれません。その時はどうぞよろしくお願いいたします。