15、美しいもの
予想外の展開にざわめきと新たな舞台の幕開けを期待する人々の囁きが静かに、法廷を流れていった。ゲルト・ケプラーの退場と、自身の息子の愚かさに心身が限界に達したロバート・ウォールが主治医の判断で退廷したが、それ以外の人々は固唾を呑んで次の展開を待つ。
「……」
そんな中、これから悪魔を打ち倒さねばならない戦場にたった一人で立っているヴィオラ・ウォールはとても冷静だった。いや、表面的には確かにそう見える。彼女がこれまで挑んだ多くの困難な事業に赴く際のように、取りまとめた多くの商談の最中にそうであったように、ヴィオラ・ウォールの新緑の瞳は星を閉じ込めたように煌めきながら、北の国の氷のような静かさを宿していた。口元を押さえ、思案する姿は彼女の知性の高さを窺わせた。
だが実際の彼女の心中は違う。
「……」
ヴィオラが新たに……ゲルトの鞄から取り出した証拠書類を裁判長に提出し、それを吟味している間に、ヴィオラは自分の心を落ち着かせなければと努めた。
だが、抑えよう抑えようとしても、湧き上がってくる感情は中々言うこときかない。これまでヴィオラはゲルトが法廷に立つ姿を見てきたが、その時に弁護人として、法で戦う人間として最も大切なのは感情のコントロールと常に冷静でいることだと学んでいる。だというのに、今の自分の感情をヴィオラは抑え続けることは難しいと、最終的にそう判断するしかなかった。
すぅっと、深呼吸をして、そしてぎゅっと、手のひらを握り目を閉じる。
一度だけ、一度だけ、心の中で叫んで発散しよう。
(わたしの事、愛してるですってーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!)
キャーーーキャーーーーキャアアアアアアアーーーー!!と、ヴィオラは法廷中を駆けずり回り叫び出したかった。それを何とか抑え、表面上だけでも繕えた自分の精神力をヴィオラは讃えたい。
油断すると表情が完全に緩む。ちゃんと口元を覆っていないと口角が上がりきってしまっているのが
バレてしまう。全力で、全開でにっこり、にこにこしてしまう自分をヴィオラは自覚した。
(公爵が……!!わたしのこと、愛してるのですって!!!!!!!!!!!!!!あのゲルトが………………!!!!!!!!)
見つめ合った時、ゲルトの赤い瞳には優しさとどうしようもないほど溢れだす愛情があった。それを自分に真っすぐに見つめられ、やや震える手で抱きしめられ、今にも泣き出しそうな声で愛を告げられた。
(うれしい)
ヴィオラが抱くのはその感情一点だ。
その時に、このままゲルトが自分の元を去ってしまうのではないかという不安や、そもそもこの後の裁判をどうすればいいのかなど、そんなことはもうどうでもよくなるほど、ヴィオラは嬉しかった。メフィスト・ドマは執拗に、ゲルト・ケプラーが「愛さないだろう」という言葉を求め続けた。その狙いをヴィオラは未だにわからないが、メフィスト・ドマの求めるままにゲルトがヴィオラに対して友情のみであると宣言したとしたら、ヴィオラは自分が今のように表面上だけでも冷静さを取り繕えたとは思わない。友情であると誓われて、今後そんなことは一切ないと断言すれば、ゲルトはそれを生涯貫いただろう。
つまり、あの瞬間、ゲルトがヴィオラとの関係を決定すれば、ヴィオラは彼が隣に立ってメフィスト・ドマやトマス・ウォールと戦ってくれたとしても、その後の勝利に「望む幸せ」が来ないことを受け入れなければならなかったのだ。
だが、そうはならなかった。
(……わたしのこと、愛しているのですって……!)
繰り返し繰り返し、ヴィオラは心の中で叫ぶ。一度だけと思ったが、駄目だった。心の中で反芻するだけでも、浮かれてしまう。法廷をスキップして回りたい。駄目だろうな。
もちろん問題は何一つ解決していない。
法廷の、離婚訴訟はそもそも始まってすらいないし、ヴィオラは弁護人を失った。目の前には勝利を確信しているトマスがしたり顔でこちらを見ているし、その隣にはメフィスト・ドマがいる。自分は女で平民で、法の知識も商売上必要なことくらいしか把握していない。自分の戦力を頭の中で数値化し、ヴィオラはそれでも微笑んだ。
(全く、これっぽっちも。負ける気がしないわね!)
負ける要素がどこにあるというのだろう?
わたしはゲルトに愛されてる。彼はわたしを愛してくれている。
ただそれだけの事実がヴィオラの背筋を伸ばさせ、胸を張らせた。
もちろんただ浮かれるだけではなく、冷静なヴィオラの頭の隅ではこの自身の変化について「なぜ」と問い続け、一つ一つ紐解いている。それによれば、ヴィオラに足りなかったのは絶対的な「立ち位置」と「自信」だ。自分の能力を強く信じているだけではどうしても得られなかったものだった。トマスによってウォール家を「守ってきた自分」というものに疑問の石が投げ込まれ、ロバート・ウォールとその妻の振る舞いによりヒビが入っていた。長年寄り添ってくれたゲルトへの自身の感情を自覚したヴィオラに、彼の献身の理由がわからないことはヴィオラを不安にさせた。理由がわからず、納得できていないものはいつか失ってしまうのではないか。
だがゲルトは自身のこれまでの「感情よりも法律家として、自身を律する」という姿を保てないほど、ヴィオラを愛していることを告げた。
この、ヴィオラが初めて受け取った他人からの、零れ落ちそうなほどあふれる愛は、これまで持っていたものを必死にこれ以上無くさないように、必死に自分のヒビに手を当て続けていた彼女をすっぽりと包み込んだ。
もうヒビを抑えている必要がなく、両手が自由になった自分は、悪魔だろうが自称亭主だろうが、敵ではない。
裁判官が裁判の再開を告げる。ヴィオラは丁寧に頭を下げ、そして事務的なやり取りを数度行って、代理人席からトマス・ウォールに再度自身の要求を語った。
①ヴィオラ・ウォールとトマス・ウォールの婚姻関係の解消。
②および、離婚の際の財産分与と、十年前のトマス・ウォールの行動による精神負担の慰謝料の請求、ヴィオラの持参金の返却。
ヴィオラはゲルトがまとめあげた伯爵家の過去から現在までの収支、財政状況について裁判所に提出する。二十年前のものから集められており、ヴィオラ・ウォールが「ウォール家に関わってからの十年の変化」と「ヴィオラがいなかった過去十年の状況」をわかりやすく比較できるようにされている。
そして現在のウォール家の財政状況、ヴィオラが請求する総額はウォール家の土地や所持品を全て売却することで7割が支払い可能であること、残りの3割に関しては現金あるいは資産価値のあるものでの支払いが難しいため、ヴィオラにウォール家の事業の経営を継続させ、利益の4割をヴィオラの取り分にすることで「チャラにしてあげる」と求めた。
全てむしり取る気ではなく、ちゃんと先代伯爵夫妻が暮らしていけるよう屋敷は「賃貸にしてあげる」という温情も忘れない。
もちろんこの辺りでトマスが顔を真っ赤にして怒鳴った。裁判官がそれを咎める。ヴィオラに対して聞くに堪えない罵倒をしたので、裁判は一時中断し、トマスはずるずると控室に引き摺られていった。抵抗し喚いて叫び散らしていたが、それを法廷画家がしっかりとスケッチしている。
「貴方はトマスのお守りをしにいかなくていいの?」
「俺に可愛い子供が生まれたら育児にゃ意欲的に参加するつもりだが、他人のガキに興味はねぇ」
てっきりメフィストもトマスと共に一時下がると思ったが残った。ヴィオラはお互い代理人席に座りながら会話を続ける。
「満足していないのね」
「と、言うと?」
「わたし、知っているのよ。悪魔は人間の味方はしない。でも敵対もしない。わたしたちはそういう、共存や脅威の対象ですらないでしょう?だから、トマスはわたしが貴方を「倒せるわけがない」って思ってるけど、わたしは貴方を倒す必要なんてないのよ。悪魔は、満足させたら勝手に消えてくれるんだから」
にっこりと微笑むと、トマスの代理人席からメフィストが立ち上がった。興味深そうにヴィオラを眺めた。丁度その時に、やっと大人しくなったらしいトマスが戻ってきて裁判が再開される。
ヴィオラ・ウォールの訴えに対し、トマス側の主張が告げられた。
①離婚という結果は自分達にとって適切な手段にはならない。
お互いの信頼関係を作る時間を設けるために婚姻関係を続ける必要がある。
②ヴィオラとの婚姻は法的に「二番目」であり、ヴィオラ・ウォールは第二夫人として第一夫人を尊重することを認める必要がある。
と、これは当初メフィスト・ドマがゲルトにも主張したものと同じである。だがここで、トマスが立ち上がって「主張」を付け足した。
「ヴィオラ!君はケプラー公爵と愛人関係だったんだろう!君こそ僕に慰謝料を払う必要がある!と言っても、君は財産など持っていないのだから、君の持参金を僕に全額支払うこと、今後君はウォール商会で現在の利益を維持しつつ、慰謝料として君の収入の9割を僕に支払う必要がある!」
「あるわけないでしょ、寝ぼけてるの?」
「あるわけねぇだろ、依頼人。脳みそ腐ってんのか」
「!!!??????????????ちょっと待て!!!!!!メフィスト・ドマ!!?なんで君まで!!!!!!?????」
トマスのあまりにも厚顔無恥で的外れな訴えにヴィオラが反射的に呆れてしまうと、それだけではなくトマスの隣のメフィスト・ドマも突っ込みを入れてきた。ヴィオラの言葉に憤慨するより、トマスはメフィストの言葉に驚く。
はあ、と、ため息をついてメフィスト・ドマが説明する。
「いいか、依頼主。この俺がさっきまで何をしていたか見てなかったのか?」
「!?あ、あの男は、ゲルト・ケプラーは、僕の妻を愛していると……!これは不貞行為があったと、認めたということだろう!!?」
「その耳は飾りか?いいか、俺がしっかり、じっくり、ありとあらゆる角度から証人を連れてきて証言させたことにより、あの公爵はよほどの奥手で唐変木で童貞で女慣れしていなくてどうしようもない恋愛初心者だってことが証明されたんだぜ?」
「だ、だが、愛していると……!」
「それがなんだ?それがなんだってんだ?問題があるのか?騎士道物語を読んだことがねぇのか?ああ、文字が読めないなら仕方ねぇな、悪かったよ」
これほど全く以て誠意のない謝罪というのもないだろう。メフィストの謝罪の言葉にトマスは唇を噛んだ。自分が依頼した弁護人に馬鹿にされているということはさすがのトマスにもわかったらしい。
だがトマスの賢い所は、自分がメフィストにやり返せると思い込まなかったところだ。トマスは素早く、自分が勝てそうな、勝てると侮れるヴィオラを標的に選んだ。
「ヴィ、ヴィオラ……!君が僕と離婚したい理由は、ゲルト・ケプラーのためだろう!あいつが好きだから、君は僕の妻としての務めを果たす気がないんだ!僕の妻でありながら、別の男を好きになった、これは立派な不貞行為だろ!」
「あぁ、そりゃあ。そいつも確認しなきゃならなかったな」
びしっと、ヴィオラを指さすトマスに、メフィストも頷く。
ヴィオラの前にメフィスト・ドマが進み出て、質問した。
「アンタがトマスと離婚したいのはゲルト・ケプラーを愛しているからか?」
「いいえ。トマスが嫌いだからよ。トマスの妻でいたくないの。わたしとトマスの関係は修復できないとわかってる。だから、離婚以外道はないわ」
「努力をする、お互い歩み寄る機会があってもいいんじゃねぇのか?特にアンタとトマスは、そもそもお互いをよく知らねぇだろう?もしトマスが十年前に結婚式場に行っていたら、アンタはトマスを愛したんじゃないか?トマスがいなかったから、アンタは他の男と仲良くなる時間があった。だが、それは本来トマスが座る場所だったんじゃないか?」
「……そうね。その可能性は、あったかもしれないわ」
ヴィオラは肯定した。
想像したことなどなかったが、もしトマスがあの結婚式の日にちゃんと自分の務めを果たすことを理解して、ヴィオラの隣に立っていたら。ヴィオラはゲルト・ケプラーに助けを求めることはなかっただろう。持参金を元手に、元々考えていたプランの元に事業を始め、ウォール家の立て直しを行ったはずだ。ヴィオラはゲルトではなくトマスをパートナーとして生きる道を当然だと受け入れただろう。
「でも、実際にそうはならなかったわ」
ヴィオラは傍聴席にも聞こえるように、声を大きくするために背筋を伸ばし、胸を張った。顎を引き、堂々と続ける。
「トマスはあの日、現れなかった。十年前、そして、もう、十年経ったのよ?十六歳だったわたしにとってこの十年は、二十六歳の私にとってこれからの十年はとても貴重だわ。十年前のやり直しを「今からしよう」なんて求められても、その価値はトマスが考えるものと同じじゃない。わたしたちは大切な十年を一緒に過ごさなかった。時は止まらない、巻き戻せない。わたしが過ごしたこの十年は美しいものだと思ってる。トマスとやり直す必要なんてないのよ」
ヴィオラの離婚の要求は正当で、「トマスが家を長く空けたから」という、ゲルトが当初掲げた盾は、そのまま今も有効だった。
「つまりアンタはゲルト・ケプラーに対して、奥手で唐変木で童貞で女慣れしていなくてどうしようもない恋愛初心者がアンタに抱いたような愛情は抱いていないってことでいいのか?」
ヴィオラはメフィストの法廷戦術がわかってきた。この男は論点をぐちゃぐちゃにする。こちらが話し合いたいことではなくて、自分が知りたいことを話題にさせる。通常であれば裁判官がそれをコントロールするのだが、「これは必要なことなので!」とメフィストが主導権を手放さない。こちらがメフィストの差し出した論点に真面目に丁寧に答えると、メフィストが笑顔で後ろから刺してくる。
「いいえ、彼を愛しているわ」
あっさりと、ヴィオラは肯定した。
法廷の上階から歓喜に満ちた悲鳴が上がったが、それは傍聴席の歓声に掻き消え、傍聴席の歓声も裁判官の制止によりすぐに収まった。
おや、と、意外そうな顔をしたメフィストをヴィオラは目を細めて見上げる。
「何?」
「いいや?もっとこう、ロマンティックに答えるもんじゃあねぇのか?我らが公爵様の告白はそりゃあ見事だっただろう?あぁ、悪いな。俺が公爵を追い出しちまったから、アンタの最初の愛の告白は俺が聞いちまったってわけか」
「あら、そんなこと気にしなくていいのよ。これから何度でも、とてもいい雰囲気で彼には言い続けるから」
にっこりと悪魔に笑いかけると、メフィスト・ドマは「ははっ」と声を上げて笑った。
笑うと悪魔のような男も幼く見える。ひとしきり笑うと、メフィスト・ドマは黒ぶち眼鏡を一度外し、自分の顔を片手で覆って、終わりに目頭を指で拭った。
「最高だ。アンタ、最高だよ。この世で二番目にいい女だ。あぁ、良いものを見た。傍聴席の最前列に座って決まった内容を観させられるより、ずっと良いものが見れたよ」
さてと、と、メフィストは代理人席に戻り、机にいくつか広げていた書類を片付け始める。誰の目にも、メフィスト・ドマがこの裁判にこれ以上の興味を失い、勝手に帰ろうとしていることがわかった。
「お、おい……!?ぼ、僕を弁護するんじゃなかったのか?」
「しただろう?元依頼主。ゲルト・ケプラーに勝たせてやった。これは一生自慢できるぜ?それに、あいつがあとでいくらか送ってくるだろ。アンタはそれで満足した方が良いってことを、今理解すべきだが、それがわからないだろうから、この後の裁判はアンタがヴィオラ・ウォールとやり合えばいい」
やりたい放題にもほどがある。
法廷を荒らして楽しんで、ぐちゃぐちゃにした悪魔は満足そうに「いやぁ、楽しかった!」と笑顔を浮かべると、優雅に優美に一礼して、法廷を去って行った。
「どこへ行くの?トマス・ウォール」
慌ててそれを追いかけて行こうとするトマスをヴィオラは呼び止める。
「貴方の席はそこでしょう」
「!!こ、こんなの……無効だ!!!!!!!やり直しをするべきだ!!!!!」
「わかってないのね。離婚訴訟を起こしたのはわたし。貴方は私に訴えられてるの。だから、わたしが「もういいわ」って取り下げないのだから、貴方はそこに立ってなさいよ」
ほら、とヴィオラが指を指すと、トマスは喚いた。ヴィオラに指図されるだけでも気に入らないのに、自分の思い通りにならないことがさらに彼の神経を苛立たせた。だが裁判官や集まった傍聴人たちが冷ややかにトマスを待っているのを感じ、やがて観念してすごすごと席に戻る。
お互い一対一になったのをヴィオラは改めて確認し、トマス・ウォールに微笑む。
「言ったわよね、わたし。訴えて勝つって」
裁判官「無茶苦茶だ……無茶苦茶だ………(頭を抱える)」
次で最終話です。