13、泥中
メフィスト・ドマの突き出した鉾の刃は、鋭利さで言えばそれはゲルト・ケプラーに致命傷を負わせるものではなかった。だが法廷で戦うことに慣れたゲルトはその切っ先に毒が塗られていたこと、そして彼の聡明な頭脳はメフィスト・ドマが求める「結論」について、その時点で理解することが出来た。
自分とヴィオラの関係を「愛人」「不貞」という屈辱的な言葉で彩った男はゲルトの反応をじっくりと待っている。反射的に机を叩いたことは明らかにミスだった。
ゲルトがこの裁判のために用意した証拠、書類、裏付けのための武器の何もかも、まずメフィスト・ドマは使わせない気でいる。それらをゲルトが構えて朗々と法廷に並べることすらできない内に、メフィスト・ドマはこの法廷を自身が踊る劇場に変えてしまう。
「勿論、俺はただトマスの一方的な思い込みを代弁してるわけじゃアない。帝国じゃ評判の女性事業家ヴィオラ・ウォールと法の番人ゲルト・ケプラーの美しい友情と絆に対して酷い言葉を投げつけたんだ。俺だって胸が痛むよ。だが真実ってものはいつだってそういうものだ。清廉だという二人の関係は『愛人』という全く以て不名誉な言葉が相応しいか。法の男が振るった拳には己の女への情熱が隠されていたのではないか―――証人の入廷と発言許可を!」
メフィストの、あまりにもヴィオラの名誉を傷つける主張に法廷は凍り付いた。傍聴席の女性貴族からはか細い悲鳴のようなざわめきがわずかに上がったが、それらは沈黙を破るほどでなかった。
裁判官はメフィストの求めるままに、主尋問を許可した。なお、ここで本件とは別件であると主張したところで無駄であることをゲルトは理解している。
法廷の扉が重々しく開き、質素な服をまとった中年女性が怯えた足取りで入廷した。彼女はメフィストの用意した「証人」であり、ウォール家に仕える使用人だった。トマスの乳母を務めた女性でもある。トマスの代理人は女性を優しく導き、証言台に立たせた。婦人を紹介し、彼女も自身の名を名乗った。
「法廷において、真実のみを語ることを誓います」
と、宣誓を行う彼女に、メフィストは満足気に頷いた。
「さてマリアン、アンタの知る真実を答えてくれ。アンタは美しい女主人ヴィオラ・ウォールがケプラー公爵を屋敷に招いた時、何を見たんだ?」
「わ、私は夜、書斎の隙間から見ました。ヴィオラ様と公爵が二人っきりで……親密に手を取り合って愛の言葉をささやいていました……!!」
「なんと!具体的に、二人はどんな言葉を発していたんだ?」
「とてもみだらな言葉も聞かれましたわ。私の、女の口からはとても……」
震える声で語るマリアンの言葉は法廷に冷たい風を吹き込み、傍聴席のざわめきを恐怖に変えた。それはマリアンの言葉を信じたのではない。マリアンの言葉を聞いたゲルト・ケプラー公爵が顔から完全に感情と言うものを消し去り、ただ黙って、証人の言葉が終わるのを待っている姿を見たからだった。
メフィストは続けて二人の証人を召喚した。元商人の青年と、若い娘だ。二人はゲルトとヴィオラが街で「密会」していた姿を目撃したと告白し、その際に二人がトマスの財産を手に入れる企みを話していたとも語る。
積み上げられる証拠、虚言、都合のいい事実の山を、ゲルトは黙って眺めた。
メフィストが自分に何をさせたいのか、ゲルトは理解している。
反論をする必要があった。
証人に対し反対尋問を行い、彼らの発言の矛盾を突き、そのような事実はなかったことを詳らかにすることは、ゲルトにとって不可能ではなかった。
「……今証言されたような事実は一切、ありえない。事実無根であり、そのための証拠の提出が可能だ」
この選択は、ゲルトにとって「最悪」の事態に繋がっている。それはわかっていた。メフィストの狙いが理解できている今、ゲルトはこの反論を行うことが最善ではないことを悟っている。だが、ヴィオラの名誉のためにこの反論は行わなければならなかった。
ゲルト・ケプラー公爵は自身の日々の行動を事細かに帝国公証人に記録させている。これは王家に次ぐ地位にある「公爵」となった日から行って来たことで、いつどこで誰とどれくらいの時間一緒にいたのか、どのような会話をしたのか、公的に残している。常に公証人が控えているわけではないが、そうした場合は第三者、執事や役人がその日のうちに証言を行い、記録の証拠としている。
メフィストの用意した証人たちに「それはいつ、どこで」と簡単な質問を投げかけ、彼らが告げた日時に関して記録を開示すれば、彼らの証言が虚偽であったことが明らかになる。
裁判官たちはゲルトのこの「反論」と「証拠」そして、メフィストの用意した「証人」と「証拠」について審議する必要があった。
法廷は一時休廷となった。
だがこの間に、新聞各社はすぐに自分達の連絡手段を駆使し、裁判の様子、ゲルト・ケプラー公爵とヴィオラ・ウォールの「不貞疑惑」やトマスの代理人について、過激な見出しでの号外を発行しようと活動する。こうした動きは人の噂の速さより多少の遅れはあるが、すぐに号外の第一号として「女事業家の裏切り!?公爵との禁断の愛?」と派手な大きさで書かれた新聞が配られた。記事は匿名の「信頼できる情報源」を引用し、密室で囁かれたという二人の親密な会話がかなり盛りに盛って掲載された。
この素早さと手際の良さは、当然だがメフィストの仕込みである。ゲルトの提出した証拠や反論については一切触れられておらず、ただこの離婚訴訟は当初思われた「トマスの愚かな振る舞い」を糾弾するものではなく、ヴィオラ・ウォールとゲルト・ケプラー公爵の間に「不貞があったのか」という、そこに焦点が当てられることとなった。
そして休廷後、再び裁判官たちがそれぞれの席に座り、裁判が再開された。審議の結果、三人の「証言」は信ぴょう性が低いことは認められた。だが、メフィストの「二人の間には男女の関係や、お互いへの感情がなかった」ことへの証明にはならなかった。あくまで、三人が証言した「その日にあった出来事」が否定されただけであり、ゲルトの反論や証拠も「自分とヴィオラの行動に不貞行為はなかった」ことは裏付けることができるが、第三者が見て「この二人の間に愛情がなかった」と納得できる証拠にはならない。
メフィスト・ドマが要求しているのは「ゲルト・ケプラー公爵がヴィオラ・ウォールのために行動する動機は、公爵がヴィオラ・ウォールに対して親密な感情を抱いているからだ」に対しての反論と証拠だった。
それが出来なければゲルト・ケプラーはヴィオラ・ウォールの弁護人としてその場に立つ資格がない。
ゲルトは自分とヴィオラの間に「何もない」証拠として、公証人や執事、先代ウォール伯爵を証言台に招いた。
彼らはメフィストの主張は「全く以てありえない!」と憤慨し、自分達の見てきたヴィオラとゲルトの様子を語った。
それに対し、メフィストは反対尋問を行う。
「つまり……?!夜の雰囲気の良い東屋に二人の男女が長椅子に座っておいて何もしなかった!?」
「えぇ、そうです。その上、ヴィオラ……私の義理の娘は自分と公が二人っきりにならないように私にいてくれと懇願しました。私は二人が恋人同士のように語らう時間などなかったと証言できます」
「つまり……!貴方のような立派で男前な紳士がヴィオラ・ウォールを公爵の目の前でダンスに誘っても、公爵は眉一つ動かさず、自分の傍から彼女が去るのを黙って見ていた!?」
「えぇ、そうです。その上そのダンスはラストダンスですよ。普通なら婚約者や恋人と踊るものですよ。私も断られると思いましたが、ヴィオラ様は「丁度話したい提案があるの」と、踊りながらずっと新規事業の話をしてきましたけど」
「つまり、つまり!流行りの中々入手困難なオペラのチケットを公爵が手に入れてボックス席まで用意して、だと言うのに、自分は一緒に行かずにチケットをヴィオラ・ウォールに二枚とも渡し、彼女はそのチケットを取引先のご令嬢と婚約者のための時間にしてほしいと手放したぁああ~~~!!?」
「えぇ、そうです。ヴィオラ・ウォール様がずっと観たいと仰られていたチケットで、あまり他人と楽しく会話できるような方ではない旦那様はかなり迷われたそうですがツテを使ってチケットを手に入れ、公演日のギリギリまで悩んで書斎の引き出しに入れていらっしゃいましたが、ヴィオラ・ウォール様には「偶然手に入った」と仰りお渡しになられ、ヴィオラ様も旦那様を誘うという選択肢を全くお考えにならないご様子で、丁寧にお礼を述べこれを有効利用する方法を嬉し気に語られていました」
次々、次々と法廷に召喚される「ゲルト・ケプラー公爵とヴィオラ・ウォールは全く恋人らしい交流なんかできていなかった」ことを証言する証人たち。彼らは真面目に、大変真剣に、いかに「いいチャンスはあったんだが、そんな風にはならなかった」ことを丁寧に語る。
彼らは真剣だ。そして皆、自分たちが見てきたものは事実であると、必ず手首に巻いた青いリボンを掲げて誓っている。
それらの証言、自身の反対尋問への回答をじっくりと受け入れて、メフィスト・ドマは大きく頷く。
「なるほどなるほど、なるほどなァッ!つまり、我らが法の男、敬愛すべき公爵閣下が、よほどの奥手で唐変木で童貞で女慣れしていなくてどうしようもない恋愛初心者でもないかぎり、完全に相手に対して恋愛対象ではないと判断していたので、二人の間にロマンスの芽はなかった、ということだな!」
*
あの悪魔のような男は、私たちをどうしたいのかしら?
自身がいるべき席にじっと座り、ヴィオラ・ウォールはこの「茶番」に対して、どういう反応すべきなのかわからなかった。
裁判が始まり、思った、身構えた方向とかなり違う展開になっていることはヴィオラを混乱させていた。だが、ヴィオラが迷っている間もゲルトが沈黙し、何かを決めようとしている様子だったので彼女はそれを見守ることにした。
しかし、これは一体何なんだろう。
メフィスト・ドマはまずヴィオラとゲルトが「不貞行為を行っていた」と主張した。これはヴィオラにとって憤慨するものだったが、事実としてありえないことで、ゲルトがそれらを全てしっかりと退けた。この「不貞行為」の疑惑については、そもそもヴィオラとゲルトは示し合わせて慎重に避けていたことだ。ヴィオラはトマスが不在の不安定な地位にあり、ゲルト・ケプラーは未婚の高位貴族だった。自分達が協力関係にある事を「男女」だからというだけで穿った見方をされることは簡単に想像できることだ。だからヴィオラとゲルトは絶対に密室で二人きりにならないように。書斎でも必ず男性と女性の使用人が一人ずついるように注意していた。
二人の「不貞疑惑」はそもそもこの七年間の間に何度か浮上しては「根も葉もないうわさ」とすぐに飽きられる話題だった。それを事前にメフィスト・ドマが調べていなかったのかと、ヴィオラは思ったより悪魔の男も甘いのだなと、そんな風に感じた。
だが、この次の悪魔の手がヴィオラにはわからない。
メフィストの用意したトマスと彼にとって都合のいい「証人」ではなく、ゲルトとヴィオラを「守ろう」と真摯に証言台に立ってくれている人たちに、彼らが知る本当にあったこと、事実を発言させ続け、それに対して大げさな反応をすることが、一体何の「真実の追及」になるのだろうか。
「出会って十年、知り合って七年。共に事業を行った長い月日の中で、数多くの機会はあったと言うのに、それでも、微塵も、僅かな爪の先ほども!アンタは、ゲルト・ケプラー公爵はヴィオラ・ウォールに対して友情以上の感情を抱いていない、そういうことでいいんだな?あぁ、素晴らしいな。最高に良い人間だよ。それなら、ただの友情でもあり得るだろう。自分になんの利益がなくても、前代未聞の離婚訴訟のために弁護人を引き受けるのに、相応しいだろう。アンタが今ここにいるのは、トマス・ウォールを殴ったのは、友情からだ。ここにいるアンタの心には一切、ヴィオラ・ウォールに対して愛情はない。男として、ヴィオラ・ウォールを愛してはいないんだ」
メフィストの最後の言葉はとても穏やかだった。
長いお互いの誤解を、これでやっと解けるな、と、メフィストとゲルトの「口喧嘩」への和解の道を示しているような。お互いが長く友人関係で、ちょっとした諍いをしてしまっただけなんだ、というような。これで仲直りをして、正しく「離婚訴訟が始められるな」と、握手を求めてくるような声だった。
だがヴィオラは、メフィストの言葉に、自分の身体が凍り付いたように、一気に血の気が引いた。
反射的に、ヴィオラはゲルトを見つめた。
これまでずっと黙り続け、メフィストの劇場に石柱のように立っていたゲルトはヴィオラを振り返る。
「男として愛してなどいない、愛することもない――ここに居続けるというのなら、アンタはそれを認めてくれるな?」
無言で見つめ合う二人に、メフィスト・ドマは微笑んで問いかけた。
*
ゲルトの視線の先には、緑の瞳の美しい女性がいた。
初めて書斎で彼女を見た時、まだ彼女は十六歳の少女だった。花のように可憐で、なぜこんな妖精のようなひとが、自分の退屈な書斎に現れたのか、白昼夢を見ているのかとゲルトは疑った。
その妖精が自分と同じ人間であり、明るい声でゲルトを呼び、ゲルトが彼女を呼ぶと嬉しそうに微笑みを向けてくれるようになるまで、それなりに時間がかかった。
(この法廷で彼女の今後を、彼女の自由を、彼女は勝ち取ることができる)
そのためには、メフィスト・ドマと戦える法律家が必要だった。
静まり返る法廷で、ゲルトはヴィオラを見つめる。
ゲルトがメフィストの問いに答えるのを、彼女は待っているのだ。
(……彼女は、私を友人だと思ってくれている)
十年前出会った時から、ヴィオラがゲルトに求めるものは変わらない。法律家としての助言と公爵としての協力だ。それを超える要求はなく、距離を間違えることもなかった。
今ヴィオラが待っているのは、ゲルトがヴィオラに対して抱いていた思いは、ヴィオラと同じく友情であると証言することだろう。
(愛を告げたことなどない。何も、言ってこなかった。告げるつもりも、ない)
この場では彼女を不利にするだけの言葉であり、そして、友情を望んで微笑んでくれてきたヴィオラに対して裏切りだと、ゲルトは考えている。
メフィストは、悪魔のような男は証人たちを使い、ゲルトを揶揄った。小馬鹿にし、目を細めて嗤った。臆病な男だと晒し、ゲルトの真実を暴き立てようとした。そしてその真実を用いて、ヴィオラを不幸にする毒とするつもりだったのだろう。
ゲルトは証言台の傍に立っていた位置から、ゆっくりとヴィオラの座る席へ近づく。
彼女の弁護人を続けるために、そして彼女の最も信頼する友人で居続けるために、ゲルトが告げる言葉は決まっていた。全ては友情からだと、ゲルトは告げるつもりだった。移り変わりのある男女の愛という不確かなものではなく、自分たちの間にあるのはお互いへの信頼と、永遠の友情だと。
(貴方が幸せになるのなら)
ゲルトは口を開いた。
「私は貴方に、」
友情のみを抱いている。
だが、言葉を続けようとした瞬間、ゲルトは息を詰まらせる。大きく目を見開き、呼吸が止まる。
十年前を思い出す。
十六歳の、まだ幼い、大人の庇護を必要とするか細く、か弱く、怒り方も知らない少女が、ゲルトの書斎に現れた、あの日の事を、あの時のヴィオラの瞳を思い出す。
態度や声音はどこまでも挑戦的に、ゲルトと対等に振る舞おうと必死になっていた。
だがその瞳は、不安と、他人への裏切り、失望。誰も自分を助けてくれないのかと、孤独に染まっていた。あの時と同じ目をしているヴィオラを見て、ゲルトはここが法廷であることも構わず、ヴィオラの手を取った。
(泣かないでくれ)
友人として、必ず隣に立とうと、ゲルトはヴィオラに告げて安心させたかった。彼女を守る方法を、メフィストを退け、トマスを引きずり出す方法を考えよう。そのためには、法廷に残ることは絶対に必要だ。
だが、だと言うのに、ゲルトは言葉を続けることができなかった。
「……貴方は、わたしが好きなの?」
緑の瞳をじっとゲルトに向け、ヴィオラが問いかける。
ゲルトは否定すべきだということを頭ではわかっていた。だが、そうしたくない自分がいた。こんな思いは間違っている。
ゲルトは一度目を伏せ、手のひらにヴィオラのぬくもりを感じる。もう二度と、このぬくもりを感じることができないかもしれないと、想像するだけで心が凍えた。
友情だ。
友人だ。
それで構わない。
メフィストの策に嵌るな。
彼女を守ることが、自分にとって最も重要なことだ。
告げるべき言葉は明らかだった。
音の出し方も、わかっている。
ヴィオラに、彼女に必要なのは恋慕する男ではなく、有能な法律家だ。
不格好な、彼女に相応しくない文具でも、使い勝手さえ良ければ、日常的に使用してもらえるだろう。
これは友情であるべきだ。
愛など。
そんなものは、ヴィオラは求めていない。
(私はただ、貴方に名を呼んでもらえればそれで構わない)
そこまで考えて、自覚して、ゲルトはヴィオラの緑の瞳に映る自分の姿を見た。
情けなく、許しを請う男の姿だった。
「……貴方を愛している」
すまない、と、ゲルトはヴィオラを抱きしめた。
静まり返る法廷に、パチパチパチ、と、軽い拍手。
それを発するメフィスト・ドマはひとしきり音を立てると、恭しく頭を下げてゲルト・ケプラーに扉を示した。
「では、ご退場願おうか、公爵様」
嫌だ……終わりたくない……ずっと、メフィスト劇場をやっていてくれ……と思いながら書いています。