1、ヴィオラ・ウォールとしての災難の始まり
やられた。
ヴィオラはヴェールの内側で唇を噛んだ。もうかれこれ三十分、いいえ、一時間以上、礼拝堂では聖職者の前に自分だけが立っている。
これはもう確定事項だ。
ヴィオラは観念した。一時間もかかってしまったことは彼女にとって不覚だった。一時間待つほど、自分はトマス・ウォールを信じていたのかと自嘲する。あの軽薄な男を?信じていたのは彼の伯爵家に対しての義務だった。あの男の気質や性格、構成する何もかもをヴィオラは信用していなかったが、それでもプロポーズの時の「僕はウォール伯爵家を潰したくない」という言葉を信じた。誰だって自分の家は大切だろう。その上トマスには病床の父と目の不自由な母がいる。トマスの事業の失敗で膨れ上がった借金を返済しウォール家を存続させるには、ヴィオラの家の援助が絶対的に必要だった。
ヴィオラはくるり、と参列席を振り返った。今日この日のためにお針子たちが総出で作り上げてくれた刺繍のドレスは本当に美しく、ヴィオラを「まるで女王様のようです!」と飾り立ててくれた。ヴィオラは自分の声が震えていないことを祈りながら、参加者に向かって言葉を発した。
「残念ながら」
右側に新郎の親族。名門ウォール家に連なる貴族の方々らしい煌びやかな装いに整った顔立ち。この結婚式に関して思うことはあれど「これでウォール本家の没落は避けられた」とほっとして、ひとまずは寿ごうという気になっていた人たちが、徐々に顔色を悪くしていく。左にはヴィオラの家族や商会の人間が参列していて、平民である彼らからすれば貴族の結婚式に最初から参加するなど初めての事、緊張で一杯だった様子が、こちらは徐々に訝るような、怒りや疑惑の色が濃くなっている。
ヴィオラは父の顔を見た。この状況を面白がっているのか、怒っているのか、光の加減でどちらともとれるように感じる。自分が投資した結果を受け入れる潔さのあるひとだが、そもそも彼にとってこれは結果と言えるのだろうか。
投資の結果。結果。これはまだ出ていない。
ヴィオラはぐっと、一度胸を抑える。何か罅が入ったような、小さな棘が突き刺さった感覚がしたが、それでもその痛みはヴィオラをこの場で泣き崩れさせるほどではない。
「夫は急用で来られなくなったようですね。ですがご心配なく、すでに結婚証明書の取得とサインは済んでおりますので」
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これが、結婚式の当日に夫に逃げられた哀れな女ヴィオラ・ウォールの言葉として、その後しばらく社交界では話題にされた。夫婦同伴のパーティーで夫が不在の女性がこの言葉を口にして、そしてその後に「あぁでも、わたくしたちはすでに夫婦ですのよ」と続けられる。もちろん笑い話だが、とうのヴィオラ・ウォールからすればたまったものではなかった。
結婚式の前にトマスが結婚証明書にサインをして、それを受理したのも「こういうのは早い方が君は安心するだろう」とトマスの気遣いだと信じた自分を殴りたくなった。
とにもかくにも、この「婚姻」は法的に「有効」だったのだ。
結婚式そのものはただの「パーティー」で、大切なのは契約書……結婚証明書にサインをしていること、それが法的に受理されていること。この後者をしっかり、はっきりトマスは満たしていた。
そしてその上で、彼は発見しにくい場所に置手紙を一枚残して姿を消した。
『僕は真実の愛を見つけた。この気持ちは抑えられない。全てを捨てて、僕は愛しいエヴァージェンと一緒になるよ』
誰だエヴァージェン、と、手紙を読んだトマスの父、ロバート・ウォールは倒れた。