002 王宮の宴
婉麗なダマスクローズが薫る。
ホルシードハーク帝国の宴は、善神に炎を捧げる神事から始まる。
純粋な火は善の象徴とされるが、いつの頃からか宮廷には深く濃い闇の帳が降りていた。
漆黒の闇は嘘と欺瞞。悪神が司る腐敗と汚染。
燭台の蠟燭で影が伸びる歩廊を、アーナヒターは父親に連れられ大帝国の王が待つ謁見の間へと向かっていた。
上等な衣装の衣擦れの音。繁栄を意味する葡萄の蔓のアラベスク模様のドレスは、この謁見のために用意されたものだった。
彼女は今宵、花嫁候補として皇帝に目通りする。
アーナヒターは生まれる前から、後宮のハレムに上がることが求められていた。
しかし、婚約を希望した先代の王は亡くなり、話は消えるかと思われていたが、それでは終わらなかった。
後継の若き王が彼女の目通りを打診してきたのだ。それが今夜の宴の席での謁見につながった。
これと言って美しいわけでは無いアーナヒターは、このお目通りで才色兼備と噂されている皇帝に娶られるとはまったく考えていなかった。
どちらかと言うと、宮廷で行われる華やかな宴に興味を引かれていた。
音楽が流れ、幻想的な月明かりと魔法の炎。
夕刻に訪れた薔薇のモスクで、前世を思い出していたアーナヒターは、どこか今までの自分とは異なっている。
前世は、お金に恵まれなくても音楽を奏で、歌手としての幸せを感じていた。
甘い考えかもしれないが、今世ではお金持ちなのだ。
この婚約は白紙に戻り、次の縁談が決まるまでの時間、音楽を学ぶくらいの余裕はある。
幸いこの帝国は女性の活躍の場は思ったより多い。政治・文化はもちろん、軍部でも女性が活躍しているくらいだ。
用事をすぐに終わらせ、その後は宴で音楽を楽しもうと気楽に考えて、足取り軽く謁見の間に向かう。
不死隊の兵士が、細密な幾何学模様のレリーフが彫られた扉を開いた。
石造りの壁にはかがり火が焚かれて、一面に光を象った幾何学模様の壁が迫るようにそびえ立つ。
アーナヒターの父ゴバール卿は、高位の祭司が誰しも行うように、杖を操り炎の浄化魔法を唱えた。
詠唱は、流麗な飾り文字として空に浮かび、複雑な幾何学模様として描かれる。
魔法が辺りに浸透し、かがり火は勢いを増し、王に捧げる祝福の炎は、ゆらめき閃光となり燃え盛る。
玉座は中央にあり、石階段の基盤に、ナスタアリーク文字で、『大地』を意味する神聖な言葉が刻まれていた。そこに、純金で細工された頑健な座面が置かれている。
皇帝はその中央に座り、高い位置から二人を見下ろしていた。 アーナヒターは、父の後を追って王座の前まで歩み寄る。
上級祭司である父は、皇帝であっても服従の挨拶はしない。宗派の作法に則り、右手を胸に当てて皇帝への敬意を示す。アーナヒターは一度も顔を上げずに頭を下げていた。
「王の中の王に、善神の加護がありますように。本日はお招きありがとうございます」
「くだらぬ挨拶はいらぬ。その娘が『豊穣の年』『生命の月』『水の日』に生まれた子供か」
「その通りでございます」
「顔をあげよ」
アーナヒターは恐る恐る顔を上げた。
若き王は、夜の闇のような髪と美しい顔立ちをしていた。
―――冷たい金茶の瞳がアーナヒターを捕らえる。
その瞳には不吉な影が見えた。いや、奥で深淵が蠢めいた。まるで獲物の鼓動を察知するかのように。
その瞬間、背筋がゾクリと泡立つ。怖い。恐怖を感じた。
「ほう、薔薇のモスクで水薔薇の加護を受けたか?」
「はい、薔薇の色は白でした」と父が自慢そうに語る。
「素晴らしいな。婚礼の時期を占うように巫女に告げよ」
「かしこまりました」
嫌な感触が彼女を襲っていた。ひたひたと闇が染み出るような若き王の瞳は、獲物を捕らえた鷹のように鋭く光っている。瞳の奥で揺らめく闇は、どこか異質に感じた。魂が引き裂かれそうなほどの不気味さと、爛々とした悪意が潜んでいるように見えた。
「アーナヒター?」
父に名前を呼ばれアーナヒターは正気に戻った。
婚礼が決まる。それは、もう時間が無いことを物語っていた。
ハレムに入れられてしまえば、子を産んでお役御免になるまで外には出られない。
違う。こんな事は望んでいない。
胸の奥が熱くなる。ずっと閉ざされていた何かが、今になって溢れ出しそうだ。
アーナヒターは、王を見据えた。
嫌だと叫んでしまいたい。
しかし、この世界の理をわすれたわけではない。
この王の怒りを買えば、家族もろとも虐殺も有り得るのだ。まして、水の女神の加護を受けた王の中の王である。この王がいなければ、ここは枯れた砂漠となる。
アーナヒターは唇を噛む。
しかし、どうしても歌うことは諦められない。
「存外、気の強い女か」
「めっそうもございません」
父は王に頭を下げる。
若き王はアーナヒターを一瞥した。その目付きに優しさや温もりは欠片も無い。
だが、時の最高権力者。なるべく不安を悟られぬよう、無表情で下を向いた。
「宴は始まったばかりだ。楽しむが良い」
そう言い残し王は席を立つ。
王は、深淵を愛する邪神のように、浄化の炎を苦々しく一瞥したことに……誰も気づいていなかった。
続く