37.失恋って悲しいのね
「…………」
……聞いてしまった。
『こうなったらそろそろ俺の気持ちをはっきり伝えようと思います。戸惑うでしょうが、彼女にははっきり伝えなければ、いつまでもわかってもらえない気がするので――』
食事の後片付けを終えて、もう遅いから今夜はグレン様に泊まっていってもらえばいいのではないかと思い、それを伝えにいった私の耳に。グレン様のとても真剣な声が聞こえてしまった。
グレン様は、想い人に告白する決心をしたのね……。
お相手の名前は聞こえなかった。
でも、師匠も「応援しているよ」と言っていた。
相手は誰なのかしら……。
きっと私の知らない、高位貴族のご令嬢なのでしょうね。
お美しくて、可憐で、心の綺麗な方だわ。
私のような腹黒悪女ではなく、優しい方に違いない。
だってグレン様が好きになる方だもの。
「……きっと近々、『俺の婚約者だよ!』って、その女性を紹介されるんだわ」
そのときちゃんと笑顔で「おめでとうございます!」と言えるかしら。
間違えても泣いてはだめよ。悲しい顔をしても、だめ……。
「……やっぱり私、グレン様のことが好きなんだわ」
顔も知らない女性とグレン様が並んでいるところを勝手に想像して、胸がぎゅっと締めつけられる。
でも、だめよ。高位貴族のグレン様と私では、そもそも釣り合わない。
だけど、気づいてしまった。
一度自覚してしまったら、もう後戻りはできない。
グレン様と過ごしたこれまでの思い出がどんどん私の中から溢れてくる。
グレン様はいつも優しい瞳で私を見つめてくれた。
優しい声で私の名前を呼んで、優しく触れる。
それはすべて、貴族令息としての嗜みでしかなかったのでしょうけど……。
できれば私がグレン様のただ一人の『想い人』になりたかった。
「今からではもう無理よね? グレン様はその方に告白をする決心をしたところだし、ホーエンマギーの店員である私がグレン様を想っていたら、きっと迷惑だし……」
でも、辛い。とても悲しいわ。
失恋って、こんなに苦しいことだったのね。
グレン様の親衛隊の皆さんの気持ちが、よくわかりましたよ。
「――ローナ? どうかしたのか?」
「……! 師匠」
調理場で一人考え事をしていた私のもとに、師匠がやってきた。
「いいえ、なんでもありません! あ、お酒のおかわりですか? 今ご用意しますね!」
「……泣いていたのかい?」
「え――?」
はっとして笑顔を作った私に、師匠の鋭い声が刺さる。
そこで初めて、頰に涙が伝い落ちていたことに気がついた。
「……」
「どうした、私に話してごらん?」
「……師匠」
師匠のあたたかい優しさに、ほろほろと涙がこぼれ落ちていく。
これは本物の涙だわ。嘘じゃない。
師匠はどんなときだって、私を助けてくれる。私を受け止めてくれる。
「うわーん、師匠~!」
「おお、ローナ。よしよし」
そんな師匠の胸に飛び込んで、私は思いの丈を口にした。
「私……っ、私は、初めて失恋というものを経験しました……!」
「なに? 失恋だと?」
「はい……っ、失恋って、こんなに苦しく辛いものなんですね……っ」
「……ローナ、君は一体誰に振られたんだ?」
「それは……っ、言えません……!」
「ううん……」
師匠は戸惑いながらも、私の頭をぽんぽんと撫でてくれた。
「ローナ、よくお聞き」
「……っ、はい」
「一体誰に振られたのかわからないが、物事というのは君が思っている以上に複雑で、わからないことが多いものだ。時が経てば状況はもっと明らかになるだろうから、焦らずに自分を大切にしなさい」
「……師匠」
そうね……。
取り乱してしまったわ。ガス様に婚約破棄を告げられたときも、家を出ていくよう言われたときも泣かなかったのに。
でも、師匠がいてくれてよかった。
「すみません、私ったらはしたなく泣いてしまって」
「いや、いいんだよ。今日はもう部屋でお休み」
「はい……、ありがとうございます」
師匠に優しく背中を押されて、私は自室へ向かった。
けれど部屋で一人になると、グレン様の笑顔を思い出してしまう。
あの素敵な笑顔が、私以外の女性に向けられるのね……。
ううん。きっと想い人には、もっと情熱的な眼差しを向けるんだわ。
それを思うと、また悲しくなってきた。
「今夜はたくさん泣いてやる……!」
そして明日にはまた、元気に笑う。
だから今夜だけは、思いっきり悲しませてもらおう。




