川に棲うものの話
それは金属を嫌うという。
「俺は絶対に見た!!」
「蛍は見てないもん!」
「一体どうしたんですか二人とも…」
ある日の夕方のこと、珍しく俺と蛍は言い争っていた。
紫月さんは俺達を交互に見ながら手を彷徨わせる。どうやら、どうしたものかと彼も戸惑っているらしい。
「だってお兄ちゃんが見たって言うんだもん!」
「何をですか?」
「河童!!」
「か、河童ですか…?」
そう、俺達の言い争いの原因は河童。
昼頃に散歩に出掛けた俺達だったが、そこの川で河童を見かけたのだ。
散歩といえど家の周りだったのだが、自然が豊かなこの場所は割と近くに川が流れている。
俺はそこで動く影を見て追いかけたところ、頭に皿、そして背中に甲羅を背負った、図鑑で見た通りの河童を見た。
そこまでなら良かったのだが、蛍が見たのは違うもの。それも少しの違いではなく大きな差だった。
「蛍が見たのは女の子だったもん!」
「だーかーらー!女の子なんていなかったって!」
「見間違いだったんだよ!」
こんな感じで双方の見たものが違い、最初はただの指摘だったものがここまでヒートアップしてしまった。正直ここまで熱くなる理由はないのだが、お互い見たものを否定し合って以降、退くに退けない状況になってしまい今に至る。
暫くこうして言い合っていた俺達だったが、ふと正面からグズグズという音が聞こえ始める。
「なんだよ。泣くほどのことじゃないだろ?」
「お……おにいちゃんのばかぁ…っ!」
「あ、蛍さん!」
パタパタと足音を立てて走っていった蛍。それに対して俺がふんっとそっぽを向くと、紫月さんは再びオロオロとし始める。
「蛍のとこにでも行けば?」
「ですが…」
「いいよ。どうせくだらない喧嘩だって思ってるんだろ」
嫌な言い方だ。紫月さんにまで当たる必要はないのに、口からは自然と毒が出る。そういえば、こういう言い方をするせいで俺は友達が出来ることもなかったなと思い出し、勝手に意気消沈し始める自分にも嫌になる。
だが、紫月さんは蛍のところに行くわけでもなくそんな俺の横に腰を下ろした。
「くだらないなんて思いません。暁くん達は、どちらも間違ってないからこそぶつかってしまったのですから」
「……」
怒られるわけでもなく、紫月さんは言い聞かせるような声色で続ける。
「図鑑に書かれているようなものだけでなく、河童は飢饉中、口減しに流された子供とも言われています。ただ、明確な姿形はなく、地域によって…それこそ見るものによって姿が異なります。人に化けるとも言われていますしね」
「じゃあ、俺達が見たものって…」
「恐らくは同じものでしょう。ただ、それぞれで姿を変えるなんて、なんというか…随分とタチの悪い」
「紫月さん?」
「!…すみません、独り言です」
一瞬空気がひんやりとするが、こちらを見た紫月さんは普段となんら変わらない。
何かを隠すようなその仕草に少しだけムッとするが、せっかく冷えた頭にもう一回血を昇らせるのはごめんだと首を振る。
とりあえず蛍とさっさと仲直りしてしまおうと立ち上がる。しかし、部屋にいるだろうと覗き込んだそこはもぬけの空。他の部屋かと覗き込むが、それでも蛍はいない。
「暁くん?どうかしましたか?」
「蛍がいないっ!部屋、見てまわったけど見当たらないんだ…!」
異変に気付いたのかやって来た紫月さんに飛び付けば、彼は驚いたように目を丸くするが、すぐに難しい顔で何かを呟く。
「ま…か…あの…に…?」
俺はそれを聞き逃さないように耳を澄ませると、かろうじてそれは聞き取れた。
「まさかあの川に」
そう聞こえたと同時に走り出す。行き先は、家の近くのあの川だ。
後ろから焦ったような声が聞こえるが、紫月さんには悪いけど無視して走った。
探し人は簡単に見つかった。川を覗き込むようにしゃがんだ姿が目に入ると、ホッとしてその名前を呼ぶ。立ち上がった蛍はこちらを見ると、さっきまでとは打って変わって笑顔で手を振った。
俺も続けて手を振る。俺と蛍の距離が近付いたその時、ぐらりとその身体が傾く。
ボチャンという水の音と共に水飛沫が上がると、蛍の姿が見えなくなる。
「蛍ッ!!!」
落ちたと頭が理解するや否や、迷わず俺は川に飛び込む。決して深くはない水の中で目を開き、焦る頭を必死に働かせ手を伸ばす。そして腕を掴むと自分の方へと引き寄せる。
しかし、そのまま浮上しようとした俺は腕を引かれる感覚と共に体制を崩す。
蛍に引っ張られたのかと思って腕を見る。泡と水の流れの中で俺は、それと目が合った。
(子ども…?)
蛍ではない見慣れない子ども。それは水の中でも分かるくらいにニヤニヤとこちらを見ていた。驚きで口からは空気が漏れる。途端に呼吸を止めていたことを思い出し、息苦しさに顔を歪める。
振り解こうと身を捩るが、水中ではあまり意味がない。むしろ俺の腕を掴む力はどんどん増していく。そして俺は踠いているうちに更に異変に気付く。
川には底がなかった。
昼間に蛍と見た時にはそこまで深くはなかった、今思えば、子どもが溺れるほどでもない浅い川。気付いてしまえばどんどんと恐怖心が増していく。
俺は一体何を見て、何に引っ張られているのだろうか。
怖い。息はどんどん苦しくなって、思考はだんだんまとまらなくなっていく。
思わず目を強く瞑ったその時、俺は一気に上へと引っ張り上げられる。
「暁くん!暁くん!!聞こえていますか!?」
「……紫月さん…?」
「お兄ちゃん…!」
「蛍…」
咳き込みながら呼吸を整えれば、俺は紫月さんに抱きかかえられていることに気付く。
紫月さんは俺のことを見て安心したように笑うと、素早く水から上がる。
川から少し離れた場所にいた蛍が駆け寄ってくるのをぼんやりと見ていると、背後の川からバシャッと音がする。振り返ろうとする俺のことを紫月さんは止めた。
「見ない方がいいですよ」
「なんで」
「欲しくてたまらないものを諦めるとは思えません。振り返れば、もっとその気になるでしょう」
「お兄さんこれ!」
蛍のもとに着くと、彼女は急いで何かを紫月さんに手渡す。それはタオルと、何故か釘やらフォーク、あとは金槌といった金属類。
「蛍さん、少しの間暁くんのことをお願いしますね」
「うん!蛍お兄ちゃんのことを守るよ!」
俺達の頭を撫でた紫月さんは、「いいと言うまで目は閉じていてくださいね」と残して川に入っていく。何をするのかと気になったが、見ることは出来ない。目をギュッと瞑った蛍に頭を抱え込むようにして抱きしめられてしまったせいだ。
川で体が冷えたせいか、その体温にホッとする。
するとバシャバシャと激しい水の音が響き、それは暫くしておさまった。
水の滴る音と、砂利を踏む足音が近付いてくる。
「目、もう開けていいですよ」
「お兄さん!」
「さぁ、お家に帰りましょうか」
歩けるといったのにおんぶ状態で運ばれる。蛍は紫月さんの着物の裾を掴み、時折心配そうに俺を見上げた。
「……もうあの川には行かない方がいい?」
「いいえ、話はつけたのでもう大丈夫ですよ」
「そうなんだ…」
何にどう話をつけたのか気になったが、なんとなくそんな気も起きずに口を閉じる。
「悪気というよりは寂しかったみたいです。蛍さんのことが羨ましかったんでしょうね」
「蛍のことー?」
「えぇ、お兄さんと一緒に散歩をする貴女の姿がとても楽しそうで、欲しくなってしまったのでしょう」
そういえば、川に流された子供だと紫月さんは言っていた。それがもし蛍と同じ年ぐらいの子どもだったとしたら。いや、それよりももっと年齢は低かったかもしれない。
そんな子どもが俺達兄妹の姿を見たらと思うと、水の中に引っ張り込まれた理由がなんとなく分かった気がした。
「悼む気持ちは大事ですが、同情はしてはいけませんよ」
「引き摺り込まれるから…?」
「えぇ」と静かに彼は言った。なんだか言いようもない気持ちが込み上げて、グリグリと肩口に顔を押し付ける。紫月さんは何も言わない。
「蛍」
「んー?」
「さっきはごめんな」
そう言えば首を振った蛍は「蛍もごめんなさい」と言って俺が伸ばした手を掴む。
「…紫月さん」
「どうしました?」
「……助けてくれてありがと」
「!…どういたしまして」
分からないことは多いし、紫月さんはああ言っても、きっと俺は川を見たらあの子どもに同情してしまう。チラリと振り返ったが、川はもう見えない。
少しモヤモヤするようなこの感情にどう名前をつけようか。でも、一つ分かったことがある。
川に引き摺り込まれて、怖いとは思った。でもそれ以上に俺は、蛍が無事だったことにホッとした。
だからまだ、俺は行けない。
可哀想だとは思うけど、俺はそちらに行けないのだ。
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