見つめる犬の話
それはきっとそばにいる。
「ねぇねぇ紫月さん、そろそろ子供達を自由に遊ばせても良いんじゃないのー?」
「う…」
あれから喫茶化け猫でよくお茶をするようになった。
お茶を啜っていた紫月さんは、そのまま言葉に詰まると気まずそうに視線を逸らす。
確かに俺と蛍は、こっちに来てからあまり外には出ていない。出たとしても三人一緒なのが当たり前だ。
「大切なのは分かるけど、危険なことはちゃんと教えてあげれば大丈夫でしょ!」
「簡単に言いますけどね…私だって色々考えているんですよ」
二人の言い合い(?)を聞きながらお茶を飲む。蛍はといえば、二人のことなど気にしていないのか、窓の外を眺めながらもぐもぐとオムライスを頬張っている。
今日は店主の六助さんがいるからと、軽食を頼んだのだ。
「もー、紫月さんが過保護だから蛍ちゃんが飽きちゃったでしょー!」
「わ、私が過保護だとかそういうのは関係ないでしょう!?」
話が変な方向に行き始めた二人は置いておこうと思った俺は、蛍の肩をトントンと軽く叩く。
「さっきから何見てるんだ?」
「あそこにね、おっきな犬がいるの」
「犬?」
蛍の指差す方を見れば、木の後ろに隠れるようにして灰色の毛並みの犬がいる。
足先だけが白いその犬は何かをするわけでもなく、じっとこちらを見て動かない。
二人してその犬を見ていると、いつの間にか言い合いを止めた紫月さん達までもが一緒に覗き込む。
「うげっ…犬がいるよぉ……」
「おや、あの犬は…」
「お兄さん知ってるの?」
頷いた紫月さんは俺達に向き直ると急に「今日は転ばないよう気をつけて帰りましょうね」と言い出す。脈絡のないその言葉に、俺だけではなく雪さんまでもが首を傾げる。
突拍子がないのはいつものことだが、今回のはいつも以上に意図が分からない。
何故犬を見たから気を付けないといけないのだろうか。
「犬全く関係ないけどどうしたの?」
「そうだよ。分かるように言ってよ」
そう言えば、紫月さんはお茶を置いて説明してくれる。
「恐らくですが、あれは送り犬というものです」
「「送り犬?」」
「はい。送り犬の前では転んではいけない…そう言い伝えられているのです」
「なにそれ!転んだらなんか危なそ〜…!」
「うげー」っと嫌な顔をした雪さんに、紫月はクスクスと笑う。
「確かに、転んだらその犬が襲い掛かってくると言われていますね」
「えぇ〜!?転んだだけで!?なんかそれって理不尽じゃない?!」
「転んじゃったらどうすればいいの?」
「簡単です。誤魔化しちゃえばいいんですよ」
「は?誤魔化すの?」
「えぇ、転んでしまっても、『転んでないよ、わざとこうやっているんだ』って誤魔化せば解決です」
「簡単でしょう?」と笑う紫月さんに、俺は苦笑いする。
そんな危険なものが、簡単に誤魔化されてくれるものだろうか。それにもし、誤魔化したのがバレてしまったらどうなるのか。
「みんなの気持ちは分かりますよ。転んでしまったら…どう足掻いても言い訳できない状況だったら、恐怖で体が震えてしまうでしょうね……でも大切なのは怖がらないことです。彼らは常にそばにいるものなのですから」
「でもなぁ…」
いざ自分がその状況に陥ったら…そう考えると冷静な対処は難しい。ましてや襲われると分かっていたら尚更だ。
「ですが、また別の地方の話では、送り犬は人を守ってくれていると伝えられているのですよ」
「そうなの?」
「さっきと真逆じゃん!それ本当なの?」
「本当ですよ。ようは考え方だと思うのです」
三人で首を傾げれば、紫月さんは再び窓の外へ視線を向ける。それを追えば、まだ犬は動かずにそこにいた。
「怖いと思えば相手も同じように思うでしょう。何もしていないのに怖がられれば、良い思いをしないのは人じゃなくても同じです」
「なんか分かるなー……そこにいるだけなのに怒られたり、怖いって言われるのすごく嫌だし…そうされたらアタシも相手のことをそう思っちゃうもん」
「そうでしょう?だから、今した二つの言い伝え…どちらを主として捉えるかは貴方達次第なのですよ」
優しく、それでいて何処か悲しそうなその声に、俺は思わず紫月さんを見る。しかし交わった視線に変な様子はなく、それはいつも通りの紫月さんだった。
***
お開きになったその後は、三人で手を繋いで帰ることにした。主に蛍が転ばないようにするためだ。
帰りの道中何度か後ろを振り返れば、犬は一定の距離を空けて着いてきていた。何をするわけでもなく、ただこっちを見ているだけ。
蛍は怖がりもせず、時折振り返ってはニコニコと手を振っていた。たぶん紫月さんの話を良い意味として受け取ったのだろう。犬はというと、蛍が手を振るのに合わせて尻尾を振っていた。
何事もなく家に着けば、手を離した蛍はくるりと振り返って犬に笑いかけた。
「犬さんまたね!」
犬は低めの声で一声鳴くと、どこか満足げに去っていく。
紫月さんはその背中に礼をすると、ガラリと引き戸を開けた。
「あの犬は満足したの?」
「そうでしょうね。今度お礼に何か用意してあげましょうか」
「今度犬さんにお花摘んでくる!」
「それは良いですね。きっと喜びますよ」
手を洗うためにパタパタと洗面所に走っていった蛍を見つつ、紫月さんに声をかける。
「あの犬って結局送り犬だったの?」
「さあ?暁くんはどう思いました?」
「俺は…」
どっちだろう。ただ着いてくるその犬は、他の犬とはなんら変わらなかった。
襲ってくるわけでも、擦り寄ってくるわけでもない。ただそばに居ただけ。
最初は恐怖に似た感情もあったが、途中からは安心感すら感じた。
「ふふ…今度会ったら一声かけてあげてください。彼は喜んで、きっとまた守ってくれる筈ですから」
「…会えたらね」
「会えますよ。だって彼らはそばにいる存在なのですから」
どこかで犬の遠吠えのような声が聞こえた気がした。
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